2020.10.25の週報掲載の説教

<2019年7月21日の説教から>

権力への服従か?自由な生活か?
ペトロの手紙一211節~17
              牧師 三輪地塩

「異教徒の間で立派に生活しなさい」と著者は言う。彼らは異邦人の中に住む少数のキリスト者であり、彼らがどのように行動するかによって、キリスト教の評価や見方が好意的にも否定的にもなる。日本人があまり行くことのない海外に旅行などをする際、自分がその旅先の人々にとっての「初めて会う日本人」ということがある。ちょうどそれと似ているかもしれない。あなた方はキリスト者の代表として「立派に生活しなさい」と。

特に著者は、「肉の欲」に注意せよと11節で言う。「肉の欲」は、食欲や睡眠欲のような生理現象を指しているのではない。イエス・キリストが、40日間荒れ野の誘惑に晒された時(つまり、自らを神の子であるという自己認識を持った時)自分には何でもできる力と可能性を自覚するのであった。そこに悪魔的誘惑、或いは誘惑に導く内的囁きの声を聞くのであった。その誘惑は、全能性、権力欲、人心掌握などなど、自己を輝かせようとする「欲」であった。しかしイエスの答えは、「人はパンのみによって生きるにあらず」であった。

イエスが、欲に従って歩まなかったように、自らの利益・徳、自らへの自己愛の具現化を求めて歩むのではなく、神に示された隣人愛と赦しによる歩みである。異邦人の中に生きる時、たとえそこに迫害の嵐が吹き荒れていようとも、その場所で立派に生きることこそ、キリスト者としての歩みなのだ、と著者は語る。我々は「地上を旅する神の民」(カール・バルト)である。天に国籍を持つ寄留者、であり「仮住まいの身」(11節)であるのだから、自らの生活がキリストを現していくものでありたい。

12節「そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、おとずれの日に神をあがめるようになります」とある通り、我々の行いは、キリストを示すことができる。使徒言行録2章43節以下には共同生活をしていた初代教会の信徒たちが、物を共有し合い、共にある交わりを大切にし、「神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」とある。宣教とは「私」というエゴのなす業ではなく、キリストの香りを漂わせる営みにほかならない。

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