2020.11.1 の週報掲載の説教

<2019年8月4日の説教から>
『キリストの受けた傷によって
ペトロの手紙一218節~25
              牧師 三輪地塩

「キリストの十字架は、我々を生かすための犠牲であった」。

このことに異論の余地はない。だがここで「犠牲」について考えたい。例えば、ある信仰深い人がブラック企業に勤めていたとして、無慈悲な上司の言いなりになり、身体を壊すまで我慢を続けたとしよう。このようなに健康を害して「企業」を生かすことは、「キリスト教的な十字架的行為」であるはずがない。あるいは、ある高校球児が、全ての試合を一人で投げ抜き、甲子園優勝をもぎ取ったとしよう。その一人の犠牲によってチームは成功を手に入れたかもしれないが、決して「美しい犠牲」などではない。「犠牲」には「いけにえ」と、「目的のために大切なものを捨てる」という二つの意味がある。前者は「痛み・苦しみ」の意味、後者は感動的要素が含まれるかもしれない。

「キリストの十字架」には、「目的のために大切なものを捨てる」という後者の要素(聖書的には「燔祭」)に、プラスして「刑罰的要素」が含まれる。つまり「美しい死」ではないことは明らかだ。我々は、人類の罪の犠牲になったイエス・キリストの十字架を、美しく死んでいった「感動物語」にしてはならない。言い換えるならば、キリストの十字架は、感動でも、美しさでも無く、まして、クリエイティブで発展的行為なわけでもない。キリストの死は「悲惨」である。

「犠牲者」とは「悲惨」と「痛々しさ」と「苦しみ」の中に置かれる者のことをいう。「犠牲」になった企業戦士も、肩を壊してプロに行けなくなった高校球児も、我々の感動や喜びを満足させる「美しい犠牲者」であってはならないのだ。

 このことを、キリストの十字架の内に見なければならない。十字架は「悲惨」である。第一ペトロ2章22~24節は、初期キリスト教会の「キリスト賛歌」として読まれ、唄われていた箇所である。フィリピ書2章と異なるのは、ここに「高挙のキリスト」が書かれていないことにある。高く挙げられた、復活と昇天のキリストの「栄光」と「犠牲」とが繋がっていない。

 我々は、キリストの犠牲を理想化してはならない。十字架とは、我々が、苦しむ人をみて痛々しく思い、また自らが痛むあの「苦しみ」である。はらわた掻き毟られるような悲惨さと挫折に目を向け、それゆえに救われている我々の命を感謝して歩みたい。