2020.11.29 の週報掲載の説教

<2019年9月1日の説教から>

良いことに熱心であれ
ペトロの手紙一3章13節~22節

牧師 三輪地塩

「主は悪を放置しない」と言われる。我々は、悪人が罪の意識に苛まれ、最終的には改心し、良識ある人として立ち直ってもらうという願望を持つ。我々は『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンのように、劇的に心を入れ替えてもらうことを望んでいる。しかし実際はそう甘くない。悪人は悪人のままであることが多いように感じる。たとえば「特殊詐欺」の実行犯は、善良な市民からお金をむしり取ることを「正義である」と思い込み、その歪な論理の中で自らの行為を正当化し、それが恰も「経済活動」であるかのように主張し、罪の意識を持たない。「悪人が、自らの悪に苦しんでいつか改心する」というのは、我々の願望であり、思い描く理想に過ぎないのかもしれない。

当該箇所では、この「悪の現実」についてノアの箱舟の物語を例に挙げる。「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました」とある。

ノアの洪水を免れて救われたのは、箱舟に乗った8名だけであった。他の民衆は、神の言葉をないがしろにしてノアを馬鹿にしあざ笑った。その結果自らの罪を顧みることなく滅んで行ったというのがノアの物語である。

「神の言葉から離れた罪人たちは、霊として、救われることなくさまようのだ」という。一見キリスト教的でなさそうなこの言葉には日本人の死生観に近いものがあるかもしれない。

しかし、もし著者ペトロの記す死生観・天国観を受け入れるとするならば、善と悪の問題に少し解決の糸口を見ることができる。「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」(3:19)。この言葉から分かるのは、キリストが陰府にくだった後、そこで悪人に宣教をするのだということである。御言葉に聞かなかった者たちに、御言葉の宣教を行なう、という意味であろう。この世において改心(回心)しなかった罪深き者たち、悪人たちも、キリストの宣教の言葉を受けるのだ。我々の死生観ではにわかに受入れにくいこの言葉である。だが聖書はそう証言している。