2020.12.6 の週報掲載の説教

<2019年9月8日の説教から>

『愛は多くの罪を覆う』

ペトロの手紙一4章1節~11節

牧師 三輪地塩

「経済」という言葉は、古代中国の「経国済民」「経世済民」に由来する。経と済の間に「国」が入り「民」が最後にくる。つまり、「世を治め」「民を救済する」ことを意味する言葉であった。経済とは本来「世の救済」の活動を意味していた。

英語の「エコノミー」という語には「国を治める」という意味があるそうだ。この言葉の原意は、ギリシャ語の「オイコノモス」である。この語は「利潤」という意味を持たず、「オイコス」=「家」、「ノモス」=「留まる」「統治する」「治める」の合成語である。すなわち西洋的には「家を司ること」「家を取り仕切ること」、東洋的には「民の救済」が「経済」の本来的な意味となる。

ペトロは異教の国に生きるキリスト者に対し、励ましの手紙を書いている。彼は信徒たちに対し「オイコノモスになりなさい」と伝える。(10節・「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」。この「管理人」という言葉が「オイコノモス」である。私たちに対し「管理人になれと」言うのだ。それは、「授かった賜物の管理人」である。「賜物」は「カリス」という語が使われおり、この「カリス」は「恵み」と訳される。私たちは多くの能力に溢れているが、「カリス」が意味するのは、自分の「才能」「能力」「賜物」が、自分一人の力で得たものではない、という意味を含んでいる。聖書的な観点から言えば、「元々備わった能力」「努力する力」「環境に恵まれること」は、やはり神から頂かないと得られないのだ。

ペトロは続けて「その賜物を生かして、互いに仕えなさい」と言われる。「仕えること」が目的だと言う。「仕える」=「ディアコネオー」、すなわちディアコニア、奉仕を表わす語である。神から頂いた能力を、仕え合うために用いなさい、という運用が求められているのだ。運用と言えば「経済」を思い浮かべるかもしれない。しかし本来の運用とは、我々の相互の交わりと支え、平和を作り出すために、それぞれの能力を「運用」すべきであると聖書は語っている。