2020.12.13 の週報掲載の説教

<2019年9月15日の説教から>

『神の栄光が留まる』

ペトロの手紙一4章12節~19節

牧師 三輪地塩

「火」は聖書的に言うと「苦しみの象徴」「ゲヘナ」「地獄」を表わすと共に「精錬されること」「神の力が与えられること」、の表現として用いられる。当該箇所でも「火のような試練を」という厳しい言葉が使われているが、「驚き怪しんではいけません。むしろキリストの苦しみにあずかるものとして喜びなさい」と言うように、苦しみとは正反対の概念をもって伝えている。キリストの名のために非難され苦しむとき、あなたたちの上に、神の霊、聖霊の力がとどまるのだ、と言う。

火は、全てのモノを破壊する恐怖の力でありながら、明るく灯される「灯火」にもなる。食料を柔らかく調理し、夜通し危険な猛獣から身を守る助けとなる。「神からの火・試練」は、決して我々を破壊するものではなく、我々をより強固に構築し、より恵み深く歩む力となる、とペトロは言う。ここには敵対者に対する憎しみや怒りよりも、自分たちが苦しみをどう受け取るかに焦点が当てられる。

とは言え、17節には「自分たちがこんなに苦しむんだから敵対者たちはもっと苦しむはずだ」という主旨の言葉が述べられる。自分を苦しめる者らがもっと痛い目に遭うのならば、今自分たちに向けられる苦しみは甘んじて受けよう。そう語っているようでもある。 このような言い方は、日本の因果応報的考えに似ているように思うかもしれない。だが、この書簡の1章~4章を読んでみて思うのは、ペトロが敵対者の行動にはあまり関心を示していないことである。言い換えるならば、人がどうするかよりも、信仰者たちであるあなた方はどう生きるのか、を問うていることにある。「敵の攻撃に対して、我々はどう対処する」という敵の批判はペトロの念頭にあまりない。むしろ聖書全体は「悪い者こそが救われるべきだ」というメッセージを持っている。特に新約聖書ではその傾向が強い。イエス・キリストがサマリア人や娼婦、徴税人や忌み嫌われる者たちを愛し、共に歩む姿は、まさに救いから外れた者たちに対する救いの宣言である。我々は敵対者や悪人の行動を見るのではなく、自分はどう生き、どう赦すのか、を問いたいものである。