2021.1.10 主日礼拝の案内

週 報 76巻 2号 2021.1.10
あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」

(ルカによる福音書10章16節)

主 日 礼 拝   午前 10:30
奏楽  岩 本 道 子

<神の招き>
招 詞 詩編119編105節

*讃 詠  545B

*罪の告白と赦し 交読詩編71編1節~3節

聖書  箴言4章1節~5節(旧約P.994)

日曜学校説教「わたしの言葉を心に保て」

済 陽 高 志

*讃美歌 454〔1-2〕

<神の言葉>
聖 書 イザヤ書14章12節~15節(旧約P.1082)

ルカによる福音書10章13節~16節

(新約P.125)

祈 り           伊木 美穂子

*讃美歌 74〔1-2〕

説  教 「悔い改めること」    三 輪 地 塩

<神への応答>
*讃美歌 122〔1-2〕

公 告
*主の祈り

*頌 栄 539

*派遣と祝福

*後 奏

「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難の方は

お座りのままでどうぞ。

礼拝当番(今週)増田裕子

(次週)伊木美穂子 菊地晴子

2021.1.10 週報 教会からのお知らせ

◇総会資料の締切は次週17日(日)までです。各団体・委員

の担当の方は、資料を書記増田裕子まで、メールに添付

してお送りください。資料はB5、フォントは明朝体、

数字はcentury(フォントサイズは10,5)氏名は全て

フルネームでお願いします。

◇クリスマスの写真が出来ました。受付の申込用紙で、

お申込み   ください。代金は2枚1組で300円です。

見本が受付にあります。  (担当 薄田東正)

 
◇共助金庫、会堂改修の自由献金用の袋が受付にあります。

今年もどうぞ宜しくお願いいたします。

 

2021.1.11~1.17 集会案内

      集 会

〇「教会員の生活」による学びの会  休  会

〇朝カフェ             休  会

〇入門の会                     休  会

〇クワイア練習                   中  止

〇コイノニア                     中  止

〇礼拝堂・1階の消毒(有志)            礼 拝 後

〇1月定期小会                12:00

今 週 の 集 会

◎祈祷題 「日曜学校教師のため」

〇聖書の学びと祈りの会        14日(木)10:00

ヨハネの黙示録22章(担当 三輪地塩)

〇司会 志 賀 洋 子

〇聖書の学びと祈りの会   14日(木)14:00

ヨブ記5章        担当 大 和 文 彦

 
次 週 礼 拝

説教 「あなたの名が天に記されている」

三 輪 地 塩

ダニエル書12章1節~3節

ルカによる福音書10章17節~24節

讃美歌

546、465(1-2)、312(1-2)、312(3)、540

三 輪 志 都

日曜学校説教「神さまの手に任せてみよう」

箴言16章1節~3節      松 谷 信 司

2021.1.10 の週報掲載の説教

<2019年10月13日の説教から>

愛を加えなさい
ペトロの手紙二1章1節~11節

牧師 三輪地塩

この箇所のテーマは4節にある。「この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性(ほんせい)にあずからせていただくようになるためです。」

ここには、神の神性、神の性質と、世俗性の対比が見られる。この世には多くの退廃がある。退廃は、健全さや道徳性が失われた状態、病的、堕落的という意味である。この手紙の著者は、神のうちに本質性を見出し、世俗の内に「物質性」を見出している。人間は、見たもの、見えるもの、手で触れるもの、高価なものに心が引かれ、目が奪われがちである。物質性の追求は、その物事の本質を見失わせる。それは政治、経済、教育、学問などの全ての分野で起こりうる。

それゆえ聖書は、これに併せて次のようにも語る。「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」
全てにおいて「愛」が必要であると語る。「兄弟愛には愛を加えなさい」というのは、原文では、「フィラデルフィアにはアガペーを加えなさい」となっている。かなり近しい間柄に育まれる愛の内に「アガペー」すなわち「無償の愛」つまり「一方的に与え続けていく愛」を加えるのである。ともすれば我々は、愛をギブ&テイクの論理で行ってしまう。あの人が何をしてくれたから何をする。何もしてくれなかったから何もしない。このような原理の中に生きてしまいがちだ。だが、聖書の語る愛の根源には損得はない。この愛は、右の頬を打たれたら左の頬を差し出す愛であり、盗賊に襲われて道に倒れているユダヤ人を、身の危険を顧みないで介抱するあの愛である。十字架に掛けられてさえも、「神よこの人たちをお赦し下さい。自分たちが何をしているのか知らないのです」と、自分を処刑した罪人たちのために祈りを献げ、神の赦しを請う愛。それこそが「アガペー」である。キリストの体なる教会こそが、アガペーの香りが漂う場所であってほしいと、心から願ってやまない。