2021.1.10 の週報掲載の説教

<2019年10月13日の説教から>

愛を加えなさい
ペトロの手紙二1章1節~11節

牧師 三輪地塩

この箇所のテーマは4節にある。「この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性(ほんせい)にあずからせていただくようになるためです。」

ここには、神の神性、神の性質と、世俗性の対比が見られる。この世には多くの退廃がある。退廃は、健全さや道徳性が失われた状態、病的、堕落的という意味である。この手紙の著者は、神のうちに本質性を見出し、世俗の内に「物質性」を見出している。人間は、見たもの、見えるもの、手で触れるもの、高価なものに心が引かれ、目が奪われがちである。物質性の追求は、その物事の本質を見失わせる。それは政治、経済、教育、学問などの全ての分野で起こりうる。

それゆえ聖書は、これに併せて次のようにも語る。「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」
全てにおいて「愛」が必要であると語る。「兄弟愛には愛を加えなさい」というのは、原文では、「フィラデルフィアにはアガペーを加えなさい」となっている。かなり近しい間柄に育まれる愛の内に「アガペー」すなわち「無償の愛」つまり「一方的に与え続けていく愛」を加えるのである。ともすれば我々は、愛をギブ&テイクの論理で行ってしまう。あの人が何をしてくれたから何をする。何もしてくれなかったから何もしない。このような原理の中に生きてしまいがちだ。だが、聖書の語る愛の根源には損得はない。この愛は、右の頬を打たれたら左の頬を差し出す愛であり、盗賊に襲われて道に倒れているユダヤ人を、身の危険を顧みないで介抱するあの愛である。十字架に掛けられてさえも、「神よこの人たちをお赦し下さい。自分たちが何をしているのか知らないのです」と、自分を処刑した罪人たちのために祈りを献げ、神の赦しを請う愛。それこそが「アガペー」である。キリストの体なる教会こそが、アガペーの香りが漂う場所であってほしいと、心から願ってやまない。