2021.5.23 の週報掲載の説教

2021年5月9日の説教から

18年の束縛から解かれた婦人
ルカによる福音書13章10節~17節

長老 松谷信司

安息日をめぐる同じような論争が福音書には複数登場する。昨年4月のオンライン礼拝で語られたルカによる福音書6章6~11節の説教では、「七日目に休まれた」という創造の出来事に由来する「安息日」には、「断ち切る」「復元する」という原意があると教えられた。
13章10節で「病気は治った」と訳されたイエスの宣言は、「解放された」「赦された」という意味を含む。当時、蔑まれていたであろう婦人が18年も治らなかった病から解放されるという出来事を前に、会堂長は腹を立てた。イエスが「偽善者たちよ」と複数形で呼びかけている通り、それに賛同する群衆もいたに違いない。
コロナ禍で「自粛警察」という言葉が耳目を集めた折、ネット上では「聖書にこう書いてあるではないか」「だからあなたは間違っている」というような「聖書警察」と呼ばれる現象も目にした。律法は人を縛るのではなく、むしろこの世の悪しきとらわれから解放するためのものであるはず。安息日のために人々がいるのではなく、人々のために安息日があることを忘れてはならない。
既存のルールに従った方が楽だし、その方が分かりやすい。安息日を守っている、聖書を読んでいる、献金をしている。しかし、手段が目的化してはいないかと主は問われる。何のために安息日を守り、聖書に聞き従うのか。本来、安息日に捧げられる礼拝には、18年もの病から解放されるほどの恵みがあるにもかかわらず、それよりも目に見えるルールに則っているかどうかを気にしてしまう弱さが私たちにはある。牧師とは、信徒とは、礼拝とは「こうあるべき」という観念にとらわれ、安息日なのに奉仕に忙しく「安息」できない教会もあると聞く。
狭い会堂に留まることのない主の偉大な祝福を、自らの思いやプライドだけで閉じ込めてはいないだろうか。安息日であっても、いやむしろ安息日「だからこそ」、あらゆる束縛から解き放たれる主のみ業を信じ、従いたい。