2021.8.1 の週報掲載の説教

2021.8.1 の週報掲載の説教
<2020年3月1日の説教から>

ルカによる福音書4章38節~44節

人々はイエスに頼んだ
牧師 三輪地塩

イエスの一番弟子、シモンのしゅうとめが高熱にうなされていた。イエスは「熱を叱りつけ」て、しゅうとめの高熱を癒した。熱は去り、彼女はすぐに起き上がった。イエスの言葉と同時に回復が与えられたのだ。この奇跡を行なった日が重要である。40節には「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。」とある。癒やしを行なって欲しいのであれば、日が暮れる前からやって来て、なるべく早くから、イエスの癒やしに預かった方が、効率良く癒やしの業に預かることが出来たはずなのに、と思うかもしれない。だが、日が暮れる前でなければならなかった。なぜなら、この日が安息日であるから。ユダヤ社会は、日没と同時に次の日が始まる。だから民衆は、イエスのところに行きたかったけれども、安息日が終わる日没までは動くことが出来ず、日が暮れてからようやくイエスの元を尋ねることができたのだ。

当時は、宗教権威の律法学者・祭司たちの考える安息日規定に違反することは言語道断であった。例えどんなに重い病気であっても、高熱にうなされていても、安息日は外出が許可されていなかったし、医者も仕事をしてはならなかった。

だがイエスは、安息日規定を、宗教権威者たちのためにではなく、神の造り給う人々を救うために大きく解釈し、人々にとって最も必要なことを与えようとする。悪霊に取り憑かれていた男を安息日に癒し、高熱にうなされていたシモンのしゅうとめも安息日に癒したのであった。

イエスは、「神は生かす神なのか、殺す神なのか」という、問いを我々に与えた(ルカ福音書の6章9節になって、イエスの口から出てくる)。それは「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。このような、問いかけをし、当時の、人を大切にしない安息日規定のあり方に、否を唱えたのだった。イエスの行いは、形式を守ることではなく、真の信仰と愛の実践である。現代の我々においても、信仰が形式的であってはならない。形を守ることからは、何らのキリスト的な香りは放たれないからだ。