2022.5.1 の週報掲載の説教

2022.5.1 の週報掲載の説教
<2022年4月17日の説教から>
ルカによる福音書24章1-12節
『死の向こう側にある命の世界』
教師  鈴木美津子

主イエスが復活された日曜の朝の出来事は、四つの福音書に記されている。それぞれ描写の違いはあるが、一貫している事実がある。それは、弟子たちの誰もが、主イエスが生前語られていた復活の出来事を「忘れていた」ということである。ルカ福音書では、イースターの朝、主イエスに従っていた幾人かの婦人たちが主イエスの墓に向かっている。彼女たちは、主イエスの遺体を丁重に葬りたいと、香料と香油を準備していた。彼女たちは、主が復活するということを思い出すこともなく、この世の死者の葬りの習わしを行おうとしていたのである。

墓に到着した婦人たちは、墓を塞いでいた大きな石が取り除けられているのを見ても、主イエスの体のない空っぽの墓を見ても、かつて復活すると言われた主の言葉を思い出さなかった。そのような婦人たちに、御使いは、「生きている主イエスを死者の中に捜すのは無意味なことではないか、まだガリラヤにおられたころ、主イエスがお話になったことを思い出すように」、と語った。この世の常識では、人は必ず死に、その死で全てが終わると結論づける。だから、常識で、生きている主イエスを捜し出そうとしても無意味なのだ。では、別のところとは一体どこか。婦人たちは、御使いに促されて「(主イエス)の言葉を思い出し」(8節)た。主イエスが十字架で死なれ、三日後によみがえられると言われた言葉を思い出したのだ。

今のわたしたちは、聖書の御言葉によって、主イエスを探し出すことができる。しかし、婦人たちが御使いに促されなければ、主イエスの言葉をすっかり忘れていたように、わたしたちも御言葉を聞いても忘れてしまう者である。

では、どうすれば良いのか。主日の礼拝、また毎月および行事毎に主イエスを記念して行われる聖餐式に与かることである。「記念する」ということは、主イエス・キリストがわたしたちにしてくださったこと、要するに十字架の出来事を思い出すことである。

そして、いつ来るかはわからないが確かに来る主の再臨を待ち望むのである。主イエスの死と復活は、わたしたちの死が終わりではなく、その死の向こう側に、命の世界が、わたしたちの復活が確かにあると明示している。それは、御言葉を聞いただけの人ではなく、御言葉を信じた人に起こることである、と聖書は教えている。