2022.6.26 主日礼拝の案内
週 報 77 巻 26 号 2022.6.26
神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、
わたしたちは知っています。(ローマの信徒への手紙2章2節)
主 日 礼 拝 午前 10:30
奏楽 岩 本 道 子
<神の招き>
招 詞 ローマの信徒への手紙12章1節
1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。
これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
*讃 詠 546
*罪の告白と赦し 交読詩編147編15節~20節
*讃美歌 11
<神の言葉>
聖 書
詩編110編1節~7節(旧約P.952)
1【ダビデの詩。賛歌。】
わが主に賜った主の御言葉。
「わたしの右の座に就くがよい。
わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」
2 主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。
敵のただ中で支配せよ。
3 あなたの民は進んであなたを迎える
聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ
曙の胎から若さの露があなたに降るとき。
4 主は誓い、思い返されることはない。
「わたしの言葉に従って
あなたはとこしえの祭司
メルキゼデク(わたしの正しい王)。」
5 主はあなたの右に立ち
怒りの日に諸王を撃たれる。
6 主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち
広大な地をしかばねで覆われる。
7 彼はその道にあって、大河から水を飲み
頭を高く上げる。
ローマの信徒への手紙2章1節~5節(新約P.274)
1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
祈 り 安 井 国 雄
*讃美歌 85
説 教
「あなたは神の憐みを軽んじるのですか?」 鈴木 美津子
<神への応答>
*讃美歌 358
*使徒信条
公 告
*献金感謝
*主の祈り
*頌 栄 543
*派遣と祝福
*後 奏
礼拝当番
(今週)伊木美穂子
(次週)安井国雄
献金当番
(今週)森﨑千恵 國見照子
(次週)野田昭子 大嶋幸子
ライブ配信当番
(今週)新畑 信
(次週)小出 勝
2022.6.26~2022.7.3の集会案内
本 日 の 集 会
〇日曜学校 9:00
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇コイノニア 中 止
〇礼拝堂・1階の清掃(有志) 礼 拝 後
〇日曜学校教師会 礼 拝 後
今 週 の 集 会
◎祈祷題「神学生の夏期伝道のため」
〇聖書の学びと祈りの会 6月30日(木)10:00
ヨブ記13章(担当 鈴木 美津子) 司会 吉田 さとみ
※対面とラインの両方で行います。
次 週 礼 拝
説教
「神は人を分け隔てしない」 鈴木 美津子
詩編62編12節~13節
ローマの信徒への手紙2章6節~11節
讃美歌
545A、12、303、358、205、544 岩 本 道 子
日曜学校説教
「エサウとヤコブの誕生」 岩 本 道 子
創世記25章19節〜26節
2022.6.26 週報 教会からのお知らせ
◇6月19日(日)は、避難訓練に多数ご参加くださり、ありがとう
ございました。お疲れ様でした。
およそ5分で、全員が1階の部屋に避難し、その後、通話訓練も
いたしました。
◇暑くなりましたので、熱中症予防のため、冷たい水をご用意して
おります。どうぞ喉が渇いたと思う前にお飲みください。
お家でも水分の補給をお忘れなく、お過ごしください。
【献金のお願い】
共助金庫献金、オルガン献金のほか、会堂改修のための献金も継続して宜しくお願いします。献金の袋は受付にあります。
<2022年5月29日の説教から>
『ただ信仰によってのみ生きる』
ローマの信徒への手紙1章16節~17節
牧師 鈴木 美津子
パウロにとって、キリストの福音は「救いをもたらす神の力」に
他ならない。人間が成し遂げることができない救いの道を、イエス・キリストが切り開いてくださったからである。しかも、この救いをもたらす神の力は、ユダヤ人だけでなく、ギリシア人をはじめとする異邦人すべてに与えられるものである。ただし、この救いに与ることができるのは、キリストの福音を信じる信仰のみによる。
信仰とは、この救いを受け取る手段である。どんなに救いの恵みを注がれたとしても、それを受け取る器がなければ、救いの恵みを受け取りようがないからである。その器となるものが信仰である。この信仰があるからこそ、ユダヤ人をはじめギリシア人にも救いがもたらされる。信仰がなければ、人はキリストの福音を愚かな言葉として退け、つまずきを与える教えとして、結局のところ、救いから自分を遠ざけてしまうからだ。
パウロは、この福音には神の義が啓示されているという。それは、罪人を裁く義だけではなく、私たち罪人を赦す義でもあり、それをただで受け取るものが信仰である。神の義は信仰に始まり信仰へと至る神の義である。なぜなら、人間が行いによって勝ち取ることのできない義を、キリストが身代わりとなって実現されたからである。
しかし、この信仰を通して実現される救いは、今まで耳にしたこともないような新しい教えではない。旧約聖書の預言者の口を通して、すでに告げ知らされている。旧約聖書ハバクク書2章には、「しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」と告げられている。高慢な者は、主の言葉を信仰によって受け取ることはできない。しかし、神の言葉をただ信仰によって生きる人が、神の義を受けて救いに至るのである。
私たちは、今、約束された天の御国の途上にある旅人。「ただ信仰によってのみ生きる」私たちの辿り着く先には、先に召された愛する方々の笑顔がある。何よりも栄光のキリストが完全な姿で手を広げて待っておられるのである。