2022.8.14 の週報掲載の説教

2022.8.14 の週報掲載の説教

<2022年7月17日説教から>

 
『心の割礼』
ローマの信徒への手紙2章17節~29節

 
牧 師 鈴木美津子

 
割礼は、ユダヤ人にとって、神の民であることの確かな徴であり、自分たちが世の終わりの裁きにおいて救われることの保証であった。しかし、パウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない」と記す。要するに、内面がユダヤ人である者、霊によって心に施された割礼を受けている者こそが真のユダヤ人だ、ということである。

ユダヤ人が絶対なものとしていた肉に施された割礼を、パウロは、なぜ、相対的なものと見なすことができたのか?それは、パウロが神の霊によって心の割礼を受けていたからである。それはパウロだけではない。悔い改めて、主イエス・キリストを信じた私たちも、同様に聖霊による心の割礼を受けた者たちである。それゆえ、私たちこそ、真のユダヤ人なのだ。パウロは、「その誉れは人からではなく、神から来る」と記している。これはユダヤ人という言葉が「ほめたたえる」という意味のユダを起源としていることと関係する。創世記29章35節に「レアはまた身ごもって男の子を産み、『今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう』と言った。そこで、その子をユダと名付けた」と記されている。新しい命が誕生したその瞬間に、その子は「主をほめたたえる」、と命名された。ユダヤ人たちは、その名前の起源である、「主をほめたたえる」、という大切な役割を忘れて、ただ割礼の徴や、律法遵守に自らの立場を築いていたのである。これがパウロの言う「外見上のユダヤ人、外見上の割礼」ということである。中身がない、上っ面だけ、ということである。

これは、ユダヤ人だけに突きつけられているのではなく、私たちも同様である。洗礼を受けて新しい命をいただくのは、「主をほめたたえる」ためである。私たちが真のキリスト者であり真の受洗者である、という何よりの証は、主を賛美することである。信仰生活を続けるうちに、この賛美や喜びが失われることこそが深刻なことである。自分の信仰が弱いとか、洗礼の記憶が色褪せていくことなど大した問題ではない。大切なのは、遣わされた場所で、そして何よりも毎週の礼拝で、精一杯、主を賛美しているのかいないのか、それが真のキリスト者の指標である。