2022.9.11 主日礼拝の案内
週 報77巻37号 2022.9.11
「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、
割礼の印を受けたのです。」(ローマの信徒への手紙4章11節a)
主 日 礼 拝 午前 10:30
奏楽 岩 本 道 子
司式 松 谷 信 司
<神の招き>
招 詞 エフエソの信徒への手紙5章14b節
*讃 詠 (21)28
*罪の告白と赦し 交読詩編130編1節~8節
*讃美歌 (21)10(1-2)
<神の言葉>
聖 書 創世記 3 章14節~15節 (変更 創世記17章1節~14節より)
14 主なる神は、蛇に向かって言われた。
「このようなことをしたお前は
あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」
祈 り
*讃美歌 (21)459(1-2)
説 教 「アブラハムと割礼」 代読 増 田 裕 子
<神への応答>
*讃美歌 (21)451(1-2)
*
使徒信条
わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。
わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで
苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に
死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。
そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます。
わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、
からだの復活、永遠のいのちを信じます。 アーメン。
公 告
*献金感謝
*
主の祈り
天にまします我らの父よ、
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
御心の天に成る如く、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり。
アーメン
*頌 栄 (21)27
*後 奏
☆讃美歌は、1節、2節のみとします。
礼拝当番
(今週)三浦 勇二
(次週)松谷 信司
献金当番
(今週)加藤 純子 大嶋 幸子
(次週)野田 昭子 吉田さとみ
ライブ配信当番
(今週)小出 勝
(次週)新畑 信
2022.9.11~2022.9.17の集会案内
本 日 の 集 会
〇日曜学校 9:00
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇礼拝堂・1階の清掃(有志) 礼 拝 後
〇コイノニア 礼 拝 後
今 週 の 集 会
◎祈祷題「聖書の学びと祈りの会のため、一日神学校のため」
〇聖書の学びと祈りの会 9月15日(木)10:00
ヨブ記16章(担当 鈴木美津子) 司会 鈴 木 惠 子
*祈祷会は対面とライン両方で再開します。
次 週 礼 拝
説教 「神の約束」 鈴木 美津子
創世記17章4節~6節
ローマの信徒への手紙4章13節~17節
讃美歌 加 藤 純 子
545B(1-2)、11(1-2)、303(1-2)、234A(1-2)、542
日曜学校説教「放蕩息子のたとえ」 森 﨑 千 恵
ルカによる福音書15章11節~24節
2022.9.11 週報 教会からのお知らせ
◇牧師夏期休暇のお知らせ
期日:9月6日(火)~14日(水)
本日の説教は、長老増田裕子が代読
*夏期休暇中の緊急連絡は書記森﨑千恵、増田裕子まで。
(緊急連絡先の電話番号は会員住所録をご覧ください。)
◇「浦和教会のつどい」について
10月9日(日)礼拝後、1階会堂
目的はみなさんとの交わりです。
コロナ禍のため、教会で食べ物を作ることはいたしません。
また、通常のバザーのような衣類、雑貨、本などの持ち寄り品の販売もありません。
家で作った袋詰めお菓子、手作りカードなどを販売する方を募集
しています。9月末頃までにご連絡ください。
ご不明な点は担当まで (担当 薄田東正)
2022.9.11 の週報掲載の説教
<2022年8月4日説教から>
『神の義』
ローマの信徒への手紙3章21節~22節
牧 師 鈴木美津子
神の義とは、「主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる神の義」である。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、主イエス・キリストを信じる信仰を持つ者には、この「神の義」が与えられ、神の御前に「正しい者」とされるのである。それが救いの中心的なことであり、全く新しい契約であると、パウロは語る。
ここでは「正しさが問題なのだ」ということを、はっきりと見ることができる。主イエス・キリストを信じる者に与えられる「正しさ」によって、その人たちは義と認められて救われるのからである。救いは、神の聖さ、神の善、神の義から来る。義なる神は、私たちの罪をただ見逃したり、忘れたりすることはなさらない、また、そのようにできないお方である。義なる神は、完全に罪の罰を私たちに要求される。そのことは、旧約聖書の犠牲制度においても明らかである。死ななければ、そして血が流されなければ、罪の赦しはないのである。その義なる神が、どのようにして御自分の義を曲げることなしに、私たち人間に救いを与えてくださるのか。それが福音の解決する問題なのである。
主イエス・キリストが、私たち人間が受けるべき罰を私たちの代わりに受けてくださることで解決してくださった。私たちが受けるべき罰を完全に身代わりとなって受けてくださったので、その罰は、もう私たちには下されることはない。私たちがキリストの福音を、主イエス・キリストを、信じて受け入れる。そして、主イエス・キリストの働きの実が私たちに転嫁される。私たちの罪はキリストに転嫁され、キリストの義が私たちに転嫁されるのである。これが福音の中心である。「しかし、今」この御方が来られた、とパウロは語る。「神の義」は、今やユダヤ人にも異邦人にも、キリストを信じるすべての者に賜物として与えられる。日々の犠牲はもう必要ではない。キリストを信じる者にキリストの「正しさ」が与えられる。それで、キリストを信じる私たちは、神の御前に立つ時に、「正しい者」として認められるのである。主イエス・キリストの与えてくださった真っ白な義の衣を着て神の御前に立つとき、神は私たちをキリストにある者として見てくださる。神は裁きの御座から「この者は正しい」と宣言して、私たちを受け入れてくださる。それが義認であり、義と認められることである。