2022.10.2 主日礼拝の案内

2022.10.2 主日礼拝の案内
わたしたちは知っているのです。

苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

希望はわたしたちを欺くことがありません。

(ローマの信徒への手紙5章3節b~5節a)

 
週 報 77巻 40号 2022.10.2
 
主 日 礼 拝   午前 10:30
< 聖 餐 式 >
奏楽 板 垣 玲 子

<神の招き>
招 詞   エフエソの信徒への手紙5章14節b
14  明らかにされるものはみな、光となるのです。
それで、こう言われています。
 
*讃 詠   545A

*罪の告白と赦し 交読詩編1編1節~6節
*讃美歌   15(1-2)

 
<神の言葉>
聖 書
詩編34編16節~23節     (旧約P.865)
16  主は、従う人に目を注ぎ
助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
17  主は悪を行う者に御顔を向け
その名の記念を地上から絶たれる。
18  主は助けを求める人の叫びを聞き
苦難から常に彼らを助け出される。
19  主は打ち砕かれた心に近くいまし
悔いる霊を救ってくださる。
20  主に従う人には災いが重なるが
主はそのすべてから救い出し
21  骨の一本も損なわれることのないように
彼を守ってくださる。
22  主に逆らう者は災いに遭えば命を失い
主に従う人を憎む者は罪に定められる。
23  主はその僕の魂を贖ってくださる。
主を避けどころとする人は
罪に定められることがない。
 
ローマの信徒への手紙5章1節~5節(新約P.279)
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 
忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
 
祈 り

*讃美歌  183(1-2)

説  教  「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を」
鈴木 美津子

 
<神への応答>
*讃美歌  294(1-2)

*日本キリスト教会 信仰の告白
わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人です。

主は、神の永遠の計画にしたがい、人となって、人類の罪のため十字架にかかり、完全な犠牲をささげて、あがないをなしとげ、復活して永遠のいのちの保証を与え、救いの完成される日までわたしたちのためにとりなしてくださいます。

神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ功績なしに罪をゆるされ、神の子とされます。また、父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行わせてくださいます。

この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません。

旧・新約聖書は神の言であり、そのなかで語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕かに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です。

教会はキリストのからだ、神に召された世々の聖徒の交わりであって、主の委託により正しく御言を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し、終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます。

古代の教会は、聖書によって次のように信仰を告白しました。わたしたちもまた使徒的信仰の伝統にしたがい、讃美と感謝とをもってこれを共に告白します。

わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。わたしは、そのひとり子わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。

主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。

そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審(さば)かれます。わたしは、聖霊を信じます。

聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。

 
聖餐式  205

公 告

*献金感謝

*主の祈り
天にまします我らの父よ、
願わくは御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたまえ。
御心の天に成る如く、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり。
アーメン
 
*頌 栄  544

*派遣と祝福

*後 奏

 
聖餐補佐 伊木、増田、森﨑、安井、松谷

 
☆讃美歌は、1節、2節のみとします。

 
礼拝当番
(今週)松谷信司

(次週)森﨑千恵

 
献金当番
(今週)済陽 高志  白川 典子

(次週)加藤 純子  浜野 陽子

 
ライブ配信当番
(今週)小出 勝

(次週)新畑 信

NEW! 2022.10.2~2022.10.8の集会案内

2022.10.2~2022.10.8の集会案内
      集 会
〇日曜学校           9:00

〇朝カフェ           休  会

〇入門の会           休  会

〇クワイア練習         中  止

〇礼拝堂・1階の清掃(有志)   礼 拝 後

〇コイノニア          礼 拝 後

〇洗礼準備会          礼 拝 後

〇拡大定期小会         礼 拝 後

〇定期小会           同 上 後

〇執事会(2階ロビー)         拡大小会後

〇臨時日曜学校教師会      同 上 後

 
今 週 の 集 会
◎祈祷題
「東京中会長老・執事・委員研修会のため」

「浦和教会の集いのため」

〇聖書の学びと祈りの会   10月6日(木)10:00

ヨブ記19章(担当 鈴木 美津子) 司会 森 﨑 千 恵

*祈祷会は対面とライン両方で行います。

〇第1回臨時中会(会場 浦和教会) 10月7日(金)18:30
 
次 週 礼 拝
説教
「キリストを通して与えられた神との平和」 鈴木 美津子
 
詩編85編9節~14節

ローマの信徒への手紙5章6節~11節

 
讃美歌
(21)28,(21)7(1-2),(21)394 (1-2),(21)392 (1-2),(21)26

三 輪 志 都

 
日曜学校説教「エジプトに売られる」         鈴木 美津子
創世記37章12節~36節

2022.10.2 週報 教会からのお知らせ

2022.10.2 週報 教会からのお知らせ
*10月7日(金)18:30~第1回臨時中会
正議員:牧師鈴木美津子 長老三浦勇二 ライブ配信:新畑信

 
*10月10日(月)13:30~17:00
「東京中会長老・執事・委員研修会」Zoomにより開催

 
◇「浦和教会のつどい」について
出店・出品ご希望の方は、玄関入り口に申込書があります。

申込みは本日までです。     (担当 薄田東正)

2022.10.2 の週報掲載の説教

2022.10.2 の週報掲載の説教
<2022年8月28日説教から>
『信仰による義認』
ローマの信徒への手紙4章1-8節

牧 師 鈴木美津子

 
「先祖アブラハムは何を得たというべきでしょうか(2)」。パウロは、アブラハムがその生涯で、何をやったかではなくて、神に対してどう生きたのか、また同じようにダビデに対しても、いかに彼が悔い改めた生涯を送ったのか、そこに焦点をあて、二人を義認の証人として立てる。なぜなら、信仰者の生涯は、何をやったかではなくてどう生きたか、だからである。私たちも功績のようなものなど全くいらない。大切なことは、キリストと共にどう生きたのか、それだけである。

キリスト者として生きる者は、人生の途中で、或いは生涯を終える時、結局私の生涯は何だったのか、と悔やむ必要など全くない。ましてや功績など不要である。大切なことは、死の床にあるまで、「今、私は信仰を持って生きているかどうか」、これだけである。たとえ、どんなに恥の多い生涯であっても、いかに多くの罪を抱えていても、その全てがキリストによって帳消しにされ、アブラハム、ダビデと共に、義認を実証するために用いられるのである。

その義認の実証の根拠は、神が認めたということ。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた(3)」、他ならぬ神が、アブラハムを義と認めてくださった。これは、私たちにも適用される。また、8節に「主から罪があると見なされない人は、幸いである」と、ある。私たちは、非常に多くの罪を犯して歩んでいる。罪を犯さない日などたった一日もない。しかしその多くの罪を神は数えられないという。ところが、驚くべきことに義は数えてくださる。つまり、非常に多くの罪は数えず、数に入らないような義だけを数えてくださる。これが神の認めてくださる、つまり信仰義認である。何の罪もない栄光の神の御子が十字架で死なれ、私たちの義を勝ち取ってくださった。このキリストの義によって罪にまみれた私たちが無罪とされたからである。それどころか、キリストの義が私たち一人一人の義としてカウントされる。その時、驚天動地の如くに、罪人が義人へと逆転する。これは神の決定なさること。私たちがどのように不安に思おうが、疑い迷うことがあろうが、神の決定であるがゆえに、私たちの義認は決して覆ることはない。これを幸いと言わずして、なんと言うのであろうか。