2022.9.11 の週報掲載の説教

2022.9.11 の週報掲載の説教
<2022年8月4日説教から>

神の義
ローマの信徒への手紙3章21節~22節

牧 師 鈴木美津子

神の義とは、「主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる神の義」である。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、主イエス・キリストを信じる信仰を持つ者には、この「神の義」が与えられ、神の御前に「正しい者」とされるのである。それが救いの中心的なことであり、全く新しい契約であると、パウロは語る。

ここでは「正しさが問題なのだ」ということを、はっきりと見ることができる。主イエス・キリストを信じる者に与えられる「正しさ」によって、その人たちは義と認められて救われるのからである。救いは、神の聖さ、神の善、神の義から来る。義なる神は、私たちの罪をただ見逃したり、忘れたりすることはなさらない、また、そのようにできないお方である。義なる神は、完全に罪の罰を私たちに要求される。そのことは、旧約聖書の犠牲制度においても明らかである。死ななければ、そして血が流されなければ、罪の赦しはないのである。その義なる神が、どのようにして御自分の義を曲げることなしに、私たち人間に救いを与えてくださるのか。それが福音の解決する問題なのである。

主イエス・キリストが、私たち人間が受けるべき罰を私たちの代わりに受けてくださることで解決してくださった。私たちが受けるべき罰を完全に身代わりとなって受けてくださったので、その罰は、もう私たちには下されることはない。私たちがキリストの福音を、主イエス・キリストを、信じて受け入れる。そして、主イエス・キリストの働きの実が私たちに転嫁される。私たちの罪はキリストに転嫁され、キリストの義が私たちに転嫁されるのである。これが福音の中心である。「しかし、今」この御方が来られた、とパウロは語る。「神の義」は、今やユダヤ人にも異邦人にも、キリストを信じるすべての者に賜物として与えられる。日々の犠牲はもう必要ではない。キリストを信じる者にキリストの「正しさ」が与えられる。それで、キリストを信じる私たちは、神の御前に立つ時に、「正しい者」として認められるのである。主イエス・キリストの与えてくださった真っ白な義の衣を着て神の御前に立つとき、神は私たちをキリストにある者として見てくださる。神は裁きの御座から「この者は正しい」と宣言して、私たちを受け入れてくださる。それが義認であり、義と認められることである。