2022.10.2 の週報掲載の説教

2022.10.2 の週報掲載の説教
<2022年8月28日説教から>
『信仰による義認』
ローマの信徒への手紙4章1-8節

牧 師 鈴木美津子

 
「先祖アブラハムは何を得たというべきでしょうか(2)」。パウロは、アブラハムがその生涯で、何をやったかではなくて、神に対してどう生きたのか、また同じようにダビデに対しても、いかに彼が悔い改めた生涯を送ったのか、そこに焦点をあて、二人を義認の証人として立てる。なぜなら、信仰者の生涯は、何をやったかではなくてどう生きたか、だからである。私たちも功績のようなものなど全くいらない。大切なことは、キリストと共にどう生きたのか、それだけである。

キリスト者として生きる者は、人生の途中で、或いは生涯を終える時、結局私の生涯は何だったのか、と悔やむ必要など全くない。ましてや功績など不要である。大切なことは、死の床にあるまで、「今、私は信仰を持って生きているかどうか」、これだけである。たとえ、どんなに恥の多い生涯であっても、いかに多くの罪を抱えていても、その全てがキリストによって帳消しにされ、アブラハム、ダビデと共に、義認を実証するために用いられるのである。

その義認の実証の根拠は、神が認めたということ。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた(3)」、他ならぬ神が、アブラハムを義と認めてくださった。これは、私たちにも適用される。また、8節に「主から罪があると見なされない人は、幸いである」と、ある。私たちは、非常に多くの罪を犯して歩んでいる。罪を犯さない日などたった一日もない。しかしその多くの罪を神は数えられないという。ところが、驚くべきことに義は数えてくださる。つまり、非常に多くの罪は数えず、数に入らないような義だけを数えてくださる。これが神の認めてくださる、つまり信仰義認である。何の罪もない栄光の神の御子が十字架で死なれ、私たちの義を勝ち取ってくださった。このキリストの義によって罪にまみれた私たちが無罪とされたからである。それどころか、キリストの義が私たち一人一人の義としてカウントされる。その時、驚天動地の如くに、罪人が義人へと逆転する。これは神の決定なさること。私たちがどのように不安に思おうが、疑い迷うことがあろうが、神の決定であるがゆえに、私たちの義認は決して覆ることはない。これを幸いと言わずして、なんと言うのであろうか。