2023.1.8 の週報掲載の説教

2023.1.8 の週報掲載の説教
<2022年11月6日の説教から>

『一人の従順によって』
ローマの信徒への手紙5章18-19節        牧師 鈴木美津子
 
パウロは、これまでのところで、アダムとキリストとの相違点を語ったうえで、なぜアダムが来るべき方を前もって表す者(キリストのひな型)であるのか、その類似点を指摘する。

アダムとキリストの類似点は、二点挙げられている。一点目は、一つの行為を行なったことにある。それは相反する行為である。アダムは、善悪の知識の木から、実を食べるという行為を行なった。それによって、すべての人が罪に定められることになった。キリストの場合は、十字架の上で、血を流されて、死なれた。この一つの義の行為によって、キリストを信じるすべての人にいのちを与えることがおできになった。

二点目の類似点は、影響を受けた人についてである。アダムの神への不従順によって、すべての人が罪人とされた。同じように、キリストの父なる神への従順によって、キリストを信じる者は、すべて罪人のままでいることはない。キリストは、ただ一度、死なれたわけであるが、それは、「キリストを信じるすべての人に及ぶ」ことになるのである。

18節に「すべての人が義とされて」とあるが、これは未来形になっている。義と認められる、あるいは、正しいと宣言されることは、もうすでに起こったことではあるが、実際に義人となるのは、イエス・キリストが再び来られるときを待たなければならない、ということである。キリストの再臨のときに、私たちのからだは変えられて、キリストに似た者とされるのである。

人がアダムであった時、要するに、人間の本性に従って生きている時、そこは罪が支配する死の世界であった。神に背いているという人の在り方が、多くの個々の罪を派生したからである。しかし、キリストにあっては、恵み(カリス)が支配する。人は、神に従順に従ったキリストの贖いの業によって、「罪の世界」から「恵みの世界」に移さるのである。