2024.1.7 の週報掲載の説教

2024.1.7 の週報掲載の説教
<2023年10月15日説教から>

「確信を持って生きる
ローマの信徒への手紙14章18節~23節

牧師 鈴木 美津子

 
確信に基づいていないことは、すべて罪なのです(23b)」。「確信」という言葉は、「信仰」とも訳せる。言い換えれば、「主イエスのためにという信仰に基づいていない行いはすべて罪である」ということである。罪とは、「的外れ」という意味であるが、主イエスのものとされたキリスト者が、主イエスのためにという信仰に基づいて歩んでいないのであれば、それは、的外れな生活を送っているということである。

キリスト者は、主イエスの十字架に贖われた「罪赦された信仰を持っている」者。故に、ただ、神の御前に罪の赦しを受け取る者として立つほかない者である。だから、神様の御前に立てば、誰しもが自分の正しさを主張することは出来ない。キリスト者は「罪赦されたという確かな信仰」を持つ者として生きる。これを決して忘れてはならない。

キリスト者が「罪赦されたという確かな信仰」に基づいていないならば、どのようなことをしても罪から解き放たれて、自由になることはない。それは、何を食べるか、食べないか、そのことだけに限ったことではない。何をしようとも、どのようなことをしようとも、キリスト者が「罪赦されたという確かな信仰」と共にあれば、その人は神の御前に健やかに歩み続けることが出来る。そして、真に解放されて、自由になる。

しかし、反対に「罪赦されたという確かな信仰」が、揺らいでしまうのであれば、その人は、自分の善き業、自分の力によって神の御前に立とうとしているので、どんなに頑張っても少しも自由にはなれない。いつまでも、自分の正しさと他の人を比べて、弱い者を裁くということになる。その人は罪から解放されて自由になることもなく、自分のやることが正しいとか、正しくないとか、あの人がいいとか悪いとかに終始して、神に喜ばれるものとなることから、遠く離れていく。

大切なことは、自分や相手のすることばかりに目を向けて裁き合うのではなく、十字架の主、復活の主に目を向けて、この方の御前で「罪赦されたという確かな信仰」に立つことである。そうすれば、互いに裁き合うことがどんなに愚かなことであるか分かるであろう。

キリスト者はどこまでいっても「罪赦された罪人」である。誰しもが、神の御前で赦され続けなければならない者たちである。「罪赦されたという確かな信仰」を与えられ続けていく者たちである。しかし、ここにこそキリスト者の真の自由があり、喜びがある。