2024.3.3 の週報掲載の説教

<2024年1月21日説教から>

『パウロからローマの教会の兄弟姉妹への挨拶』
ローマの信徒への手紙16章1節~16節

牧師 鈴木 美津子

パウロは、1-16節の中で「よろしく」という言葉を17回記している。これは、直訳すると「挨拶しなさい」である。パウロはユダヤ人であるから、「挨拶」と言えば「シャローム(平和があるように)」であるので、「よろしく」も、そのような思いがある言葉である。

16節に、「あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」と、あるが、パウロの意図する「よろしく」「挨拶しなさい」は、まさにこの「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」という意味のある言葉である。

私たちの国では、このような習慣はないが、このような習慣のある国では、接吻による挨拶というのは、これ以上ない兄弟愛表す行為である。しかし、ここで大切なことは、そのような流儀ではなくて、心である。心がそこになかったら、それは無意味な行為である。あの裏切り者のイスカリオテのユダは、口づけによって、主イエスを裏切った。

16節の後半には、「キリストのすべての教会が、あなたがたによろしくと言っています」とある。「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わす」、すなわち「あなたのありたっけの心で、深い思いを持って互いに愛し会う」という、この最高の愛情表現が、全世界の教会で実現する、やがて実現するという希望の言葉である。ユダヤ人であっても異邦人であっても、男でも女、王族であって奴隷であっても、裕福であってもなくても、たとえ身分や立場が違っても、最高の愛情表現で兄弟姉妹の交わりが実現し、そして、それが全世界へと拡がっていく、この希望である。そして、この希望の源こそが、イエス・キリストである。

ですから、私たちもまた、「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わす」、すなわち「あなたのありたっけの心で、深い思いを持って互いに愛し会う」この心を持って、朝にも、帰りにも挨拶を交わすのである。教会の玄関で、主の日の朝、私たちはお互いに「おはようございます」と挨拶するが、その心は「シャローム」である。帰る時も「さようなら」と挨拶を交わすが、それは「平和がありますように」「また来週会いましょう」という思いをもって挨拶をする。これが私たちキリスト者の挨拶の心と言うべきものなのである。