2026.8.2~2026.8.8の集会案内
本 日 の 集 会
〇日曜学校 9:15
〇コイノニア 礼拝後
〇拡大定期小会 礼拝後
〇定期小会・執事会 同上後
今 週 の 集 会
◎祈祷題 「平和祈念礼拝を覚えて」(8月9日)
〇聖書の学びと祈りの会
夏の暑さを考慮して、7月9日(木)〜9月10日(木)まで休会です。
【牧師予定】
8月3日(月) マイノリティ宣教センター「つきいちひろば」
(ウェブ 19:00〜20:00)
8月4日(火)上田教会との夏期学校
8月5日(水)上田「無言館」訪問
次 週 礼 拝
<平和祈念礼拝・こどもとおとなの合同礼拝>
説教「隣人となるということ -平和はここから始まる-」
鈴木 美津子
ミカ書6章6節~8節
ルカによる福音書10章25節~37節
讃美歌
(21) 83(1)、361、419、403、26 田 中 愛
2026.8.2 浦和教会からのお知らせ
2026.8.2 浦和教会からのお知らせ
【ウエストミンスター小教理問答】
問104 第四の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。
答 (「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という)
第四の祈願1で私たちが祈る事は、神の一方的な賜物のうち から、私たちがこの世の良き物の正当な分を受け、それによって
神の祝福を楽しむことができるように2、ということです。
1 マタイ6:11。 2 箴言30:8~9、創世記28:20、Iテモテ4:4〜5。
◇次週平和祈念礼拝後、絵本「へいわとせんそう」を視聴します。
その後1階でそうめんとかき氷をいただきます。
食後、2階礼拝堂でDVD「ペリリュ-~楽園のゲルニカ~」を鑑賞します。
◇熱中症予防のため、喉が渇かなくても、
こまめに水分補給をしましょう。
【ウエストミンスター小教理問答】
問104 第四の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。
答 (「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という)
第四の祈願1で私たちが祈る事は、神の一方的な賜物のうち から、私たちがこの世の良き物の正当な分を受け、それによって
神の祝福を楽しむことができるように2、ということです。
1 マタイ6:11。 2 箴言30:8~9、創世記28:20、Iテモテ4:4〜5。
◇次週平和祈念礼拝後、絵本「へいわとせんそう」を視聴します。
その後1階でそうめんとかき氷をいただきます。
食後、2階礼拝堂でDVD「ペリリュ-~楽園のゲルニカ~」を鑑賞します。
◇熱中症予防のため、喉が渇かなくても、
こまめに水分補給をしましょう。
2026.8.2 週報掲載の説教
2026.8.2 週報掲載の説教
【2026年5月17日の説教から】
『刺し貫かれた小羊』
ヨハネによる福音書19章31節〜42節
鈴木美津子
十字架の上で主イエスが語られた「成し遂げられた」という言葉は、すべての終わりではなく、神の救いの御業の完成を示すものであった。本日の箇所は、その後に何が起こったかを語っている。一見すると出来事は静かに、淡々と進んでいる。だがその中で、聖書の言葉がそのとおりに実現していることが示されている。
主イエスの足が折られなかったのは偶然ではない。「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現した出来事である。これは出エジプトの過越の小羊に関わる言葉であり、小羊の血によって滅びが過ぎ越され、民が守られたあの出来事と重なる。主イエスはその過越の小羊として、今ここにおいて現実となっている。
また兵士が主イエスのわき腹を刺したとき、血と水とが流れ出た。この出来事も預言の成就である。ヨハネはこれを目撃した者として証しし、私たちにこの出来事を見るように促している。主イエスは確かに刺し貫かれ、確かに死なれた。その死は単なる暴力ではなく、聖書に語られていた出来事として起こったものである。
その後、ヨセフとニコデモが主イエスの遺体を葬る。これまで人目を避けていた者たちが静かに動き出す。彼らの行為は特別なものではなく、遺体を包み墓に納めるという現実の営みである。しかしその中で聖書の言葉が実現していく。
このように、十字架の出来事は劇的な奇跡としてではなく、人の目には静かに進んでいく。その中で、神の言葉が現実となっている。ここにこの出来事の確かさがある。それは人の理解や思いによって支えられるものではなく、神が語られたことが歴史の中で真実として現れているからである。
教会はこの出来事の上に立つ。私たちは何かを付け加えるためではなく、このお方がなしてくださった事実の中に置かれている。この一週も、刺し貫かれた主のもとに立ち返りながら、それぞれの歩みへと進んでいく。
【2026年5月17日の説教から】
『刺し貫かれた小羊』
ヨハネによる福音書19章31節〜42節
鈴木美津子
十字架の上で主イエスが語られた「成し遂げられた」という言葉は、すべての終わりではなく、神の救いの御業の完成を示すものであった。本日の箇所は、その後に何が起こったかを語っている。一見すると出来事は静かに、淡々と進んでいる。だがその中で、聖書の言葉がそのとおりに実現していることが示されている。
主イエスの足が折られなかったのは偶然ではない。「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現した出来事である。これは出エジプトの過越の小羊に関わる言葉であり、小羊の血によって滅びが過ぎ越され、民が守られたあの出来事と重なる。主イエスはその過越の小羊として、今ここにおいて現実となっている。
また兵士が主イエスのわき腹を刺したとき、血と水とが流れ出た。この出来事も預言の成就である。ヨハネはこれを目撃した者として証しし、私たちにこの出来事を見るように促している。主イエスは確かに刺し貫かれ、確かに死なれた。その死は単なる暴力ではなく、聖書に語られていた出来事として起こったものである。
その後、ヨセフとニコデモが主イエスの遺体を葬る。これまで人目を避けていた者たちが静かに動き出す。彼らの行為は特別なものではなく、遺体を包み墓に納めるという現実の営みである。しかしその中で聖書の言葉が実現していく。
このように、十字架の出来事は劇的な奇跡としてではなく、人の目には静かに進んでいく。その中で、神の言葉が現実となっている。ここにこの出来事の確かさがある。それは人の理解や思いによって支えられるものではなく、神が語られたことが歴史の中で真実として現れているからである。
教会はこの出来事の上に立つ。私たちは何かを付け加えるためではなく、このお方がなしてくださった事実の中に置かれている。この一週も、刺し貫かれた主のもとに立ち返りながら、それぞれの歩みへと進んでいく。
