2022.8.28 の週報掲載の説教

2022.8.28 の週報掲載の説教
<2022年7月24日説教から>

『神は真実なお方である』
ローマの信徒への手紙3章1-8節

牧 師 鈴木美津子

神の真実は一体どこに現されたのか?それは主イエス・キリストの十字架の死と復活によってである。パウロは、「救いは律法を善い行いによって得られるのではなく、主イエスの十字架と復活によって罪人を赦し、義として下さった神の恵みを信じることによってのみ与えられる」、と語る。しかし、ユダヤ人は「パウロの言葉は、善への努力や熱意を失わせる。なまじ良い人間であろうとして偽善に陥るならば、罪人であることに徹した方がよいなどという思いを生じる」、と反論する。パウロは「決してそうではない」、とユダヤ人の屁理屈を退ける。

パウロの語る「罪の赦しの福音」は、私たちを、善に熱心でない者、良いことのために努力しないで、むしろ悪に留まろうとする者を生じさせることは決してない。なぜなら、この福音は、十字架につけられた主イエスによって実現したものだからである。人間の罪に対する神の怒りと、神がご自分の約束にどこまでも誠実であるという神の真実は、主イエス・キリストの十字架において現された。

主イエスの十字架と復活は、私たちの不誠実や罪が、神の救いの約束を無にしてしまわないためのもの。私たちが受けるべき神の怒り、裁きを、主イエスが代って受けて下さったことによって、私たちに罪の赦しが与えられた。この主イエスの十字架の苦しみと死においてこそ、神の真実が誰にも明らかにされたのである。

この神の真実を見つめるなら、そこには、「人の犯した罪が救いを明らかにするなら、罪を犯した方がよい」などという屁理屈が入り込む余地はない。逆に言えば、主イエスの十字架における神の真実を真剣に見つめることがなければ、私たちは、ユダヤ人のように間違った理解に陥って屁理屈をこね、自分の罪を真剣に見つめて悔い改めることをしないで、かえって罪の中に安住するための口実にしてしまうであろう。

私たちが、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さり、復活して新しい命を与えて下さった主イエスの救いを受け留めるとき、主イエスとの交わりに真に生きるとき、「私たちの罪のゆえに神の真実が無になることはない」という御言葉が私たちをどんな時にも支えるのである。私たちは常に罪に陥ってしまうような愚かで弱い者であるが、この神の真実に支えられているので、御心に適った歩みを求めていくことができるのである。