<11月4日の説教から> 『山も動く』 マルコによる福音書11章20節~26節 牧師 三輪地塩 赦すというのは大変難しいものであり、誰でも彼でも、 何でもかんでも赦すことなどできない。或いは、キリスト 者だから、信仰者だから「赦さねばならない」と自分の能 力や素質以上の義務を自分に課してしまうことがあった とするならば、信仰が信仰者を破壊することにもなりかね ない。「赦せない私は信仰者としては劣ってる」と、もし 考える事があったならば、それは、赦すことを義務化し、 赦せない自分自身の足りなさばかりを見つめることにな ってしまう。
しかし、そうであっても、もし主の「愛に押し出された 赦し」が成り立つのならば、大変に素晴らしいものとなる だろう。我々の教会という共同体は、神を礼拝する者たち が集まった信仰者同士の交わりである。そこには一つの神 に対して、一つの信仰が、一つの礼拝によって守られてい る場所である。心の中で、隣り人を裁いたまま、仲たがい したまま、或いは憎しみをもったまま祈ることは、神への 不敬、つまり、神への敬いを失った行為となるのである。 他者への赦しを失ったまま、神様から自分自身の罪の赦し を願うことはできない。25節にあるように、「立って祈る
"margin:0mm 0mm 0pt;line-height:115%;"> とき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦し てあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父もあなた がたの過ちを赦してくださる。」と主は言われる。人を赦 さないままで祈るとき、自分自身が神から赦されたことに まで疑いが生じてくる。私がこんなに赦せていないのに、 私の罪は赦される筈がない。そのように感じてしまうと き、神様の赦し自体を疑ってしまうのである。しかし、神 はキリストの十字架の赦しは、疑いの余地のないほどに、 完全な赦しとして完成される。我々の赦しの根源はまさに ここにあるのだ。 |