聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー出エジプト記3章1節-22節 2011年9月8日

出エジプト記3章1節-22節 2011年9月8日  
 この燃え尽きない柴が起きた状況は多くの事を知らせる。
 モーセは単なる羊飼いであった。エトロのような祭司でもないし、預言者でもなかった。彼は単なる日常の中に生きていた者であった。
 モーセは彼の好奇心によってこの柴を見届けたいと思った、と書かれてある。好奇心が神との遭遇をさせたのである。動機はどうであれ、いずれにしても彼は神と出会ったのである。ここには宗教的な意図のない通常のありふれた状況があり、そこで神が自らを顕現なさっていることに注目したい。
 彼は召命を受けるが、これに対し11節「わたしは何者なのでしょうか。」と彼は問うのだ。当然である。我々も、もしありふれた日常生活の中で、壮大な出エジプトの計画が語られても何事かと思ってしまうだろう。その召命に対しての問答が3章~4章にある。3章4節から4章17節まで実に13回も神はモーセに語り掛けている。そのうちの二つ3章に書かれている。(11節、12節の問いに対して13節、14-21節が神の答えである)
 「私はある。私はあるという者だ」は不思議な言葉として受け取られる。英語聖書ではI am who Iam.と訳されている。存在としての神の名。神は見えずともその存在の確かさを証言し顕現なさる神のBeingがここにある。LXX(ギリシャ語旧約聖書)では、「エゴー・エイミ」と訳出されている。エゴー・エイミは神学的な神顕現を表している。ガリラヤ湖で船に乗っていた弟子たちに嵐が襲い掛かり、暗闇の中から人影が現れる。恐ろしくなった弟子たちに対し語った言葉が「エゴー・エイミ」であった。つまり神としての主イエスの顕現がここにあるのである。
 さて、3章のモーセの状況について考えてみる。彼はこの時何歳ぐらいであったのだろうか。2章23節では「長い年月がたち」とあり、正確な経過年月が明記されていない。我々はモーセの印象を2章前半の「乳飲み子モーセ」2章後半では妻をめとった「新婚モーセ」の印象で読んでいるため、3章での彼もせいぜい20~30歳代。遅くとも40歳代ぐらいではないかと読むのではないかと思う。
 では彼の年齢を逆算してみよう。彼が申命記34章で死んだのが120歳であったと書かれている。出エジプト記7章7節には彼が80歳。アロンが83歳と書かれてある。つまり荒れ野の40年間、ということを考えると、ちょうどこの後すぐにカナンに向けて出発したとするなら辻褄が合う。そこから3章までを見ていくと、特に長い時間の経過が示されている箇所はない。このように考えるならば、3章の時点、正確に言うと2章23節の「それから長い年月がたち‥」の時点で、既に40年ほどが費やされていると考えてもよいのではないかと思われるのである。すなわち、エトロの家で婿として生きていた彼はかれこれ40年かもの間、羊の群れを飼うという仕事に従事しており、もしかするとモーセはこのまま自分は羊飼いのまま人生を全うすることを考えていたのかもしれないし、ミディアンに骨を埋めるつもりで後半生を生きていたのかもしれない。
 しかし神様の計画はそうではなかったのである。今日の物語は、青年モーセが指導者に任命された物語ではなく、晩年を迎えたモーセが、老いた者がその人生の晩年に突如受けた驚くべき召命物語であるとも考えることもできるのである。
 老齢になってからの旅立ちと解釈するとき、アブラハムのことを思い起こさせる。行先を知らずに旅立ったアブラハムと、行先はここであると示されたモーセには違いがあるが、聖書は晩年を迎えた者たちに多くの示唆を与えるのである。人生の晩年には諦観や死の需要だけがあるのではない。救いと解放がある。それが我々に与えられた物語である。
  (日本キリスト教会 浦和教会 祈祷会奨励)

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー出エジプト記1章1節-22節 2011年8月11日

祈祷会(木)奨励  出エジプト記1章1節-22節 2011年8月11日
 今日から出エジプト記に入る。これは創世記との断絶ではなく継続の中で語られている。1節~5節で12人のヤコブの息子たちの名前に言及され、その孫が70名にのぼることを事が言われている。そして1章全体でこの数が無数に増え広がっていることが語られる。つまりヤコブの息子たちというイスラエルに限定された民族が世界大へと広がっていることを告げているのである。それはイスラエルの民が世界の民になっていることと同時に、イスラエルの神が世界の神であることを告げているのである。
 1章に7せつ、9節~10節、12節、20節と、増え広がっていることが記されている。この人口増加は星の数のようであり、アブラハム契約(創世記12章等)の成就として、祝福されたことが示される。しかし彼らは虐待される民でもあった。この時のファラオはラメセス2世であると言われている。ヨセフの時代のファラオがヒクソスの王朝であることから異民族に寛容であったが、ラメセスは違っていた。彼はイスラエル人が強くなることを怖れ、拒み、殺す計画を立てた。
 11節の「物資貯蔵の町ピトムとラメセスは」創世記41章45節でヨセフが奨めていた物資貯蔵の町であろう。ナイルは非常に豊かで多くの農作物を産み出していた。しかしこの豊穣の川が、ファラオの命令と共に死の川に様相を呈してしまうのであった。生を産み出すものが死を表す。これが当時のエジプトであった。イスラエル人たちの労働はますますひどくなり、それは過酷を極めた。
 ここに二人のイスラエル人の助産婦(現代的には助産師であるが)が登場する。ファラオは彼女たちに幼児虐殺に加担するように命じている。しかし彼女らは「いずれも神を畏れていた」(17節)とあるように、敬虔な信仰を持っていたことが示されている。彼女たちは機転を利かせ、知恵を絞り、読む者に少なからずユーモアを感じさせる仕方でこの難局を乗り切った。すなわち「ヘブライ人の女性はエジプト人の女性とは違い、体が丈夫なので、助産師である我々が行く前に産んでしまうのだ」と言う。勿論これは嘘である事は間違いなのだが、しかし知恵の利いた嘘の中で神の真実が表されることがあるのだ。助産師たちは「子宝に恵まれた」(21節)。つまり彼女たちは神の祝福を受けているのだ。
 ここで注目したいのは、社会に知られざる者たちの働きが神の目に適う行為者となることである。これは出エジプト記の1章~2章に語られるテーマの一つと言える。特にこのヘブライ人助産師たちには、名前が与えられている。シフラとプアである。このファラオに名前がないのに対し、彼女たちには名があり、ファラオには跡継ぎ、子宝について一切言及されていないのに対し、彼女たちは子宝と共に神の祝福を得ている。この時のファラオはラメセス2世であったのだろうか。とするならば有名な偉大なる為政者である、しかし聖書は彼ではなく、この小さな女性たちを記憶し、この名を留めているのである。ここに聖書のテーマがある。死をもたらす国家権力の中にではなく、神を畏れる態度と敬虔な思い、神の知恵と信仰を、聖書は見逃さないのである。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記44章1節-34節 2011年6月23日

 創世記44章1節-34節 2011年6月23日
 43章の第2回目のエジプト行きの時、食料調達という責任を果たした兄弟たちであった。
 ヨセフはベニヤミンと会うことになった。彼は「奥の部屋で泣いた」(43:30)のであった。その後兄弟たちはヨセフの法外なもてなしを受け、ベニヤミンには5倍もの料理が用意されていたと書かれており、ヨセフの喜びが表わされているように描かれている。しかし兄弟たちは気付かなかった。
 44章では、兄弟たちが帰ることになるが、彼らはその成果を喜んでいたに違いない。ベニヤミンが取られることもなく、シメオンを奪還し、食料を調達し、もてなしまで受けた。以前の訪問よりはるかに気分良く家路に向かっていたと思う。しかしヨセフはさらに仕掛けを打つ。
 なぜこのような計略にでたのだろうか。彼は何をしようとしていたのだろうか。このような疑問が出てくる。これは単なる濡れ衣であり、兄弟たちにとっては迷惑な話である。しかしある注解書にはこのようにある。「ヨセフはこのことを通して、もっと大きな愛を兄弟たちと故郷に残っている父ヤコブに与えようとしているのだ」と。さらにこの試みは、兄弟たちの悔い改めと愛を確かめたい、(これまで何度も確かめているのであるが)、のであろう。
※5節には「占い用の杯」が出てくるが、その方法は杯に水を入れ油をたらして文様を見たり、金、銀、 宝石を杯に投げ入れて沈む様子を観察して占ったと言われる。また一方でこの杯はヨセフが日常使って いたものであることも書かれている。占いはイスラエルで禁じられていたので、兄弟たちを欺くために エジプト風をことさら装ったと考えられる。とあるがそうだろうか。疑問である。
 7節以下では兄弟たちは銀の食器など盗むはずがないと言う。しかしそれは見つかってしまった。11節で彼らは袋の中を確認するのだが、ベニヤミンの袋の中にその食器が見つかってしまった。「彼らは衣を引き裂いて・・」とあるように、「何という事だ!」という悲しみの表現であろう。この辺りが非常にドラマチックに描かれている。彼らの悲嘆の姿が映し出されている。
 この時ユダは16節でこう言っている。「ご主君に何と申し開き出来ましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証を立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです」。ここでユダは「神が僕どもの罪を暴かれた」と言っているが、これは何故であろうか。これはヨセフが仕組んだものであり、彼らはその計略にはめられたのである。林嗣夫は次のように言う。「銀の杯は身に覚えのないことですが、だからと言って、自分たちは罪のない聖なる者だとは言えません。このことを機会に、ユダは自分たちの罪を知らされ、それを告白しました。」続けてこう言います。「我々はよく、こんなに真面目にやっているのにとか、不満を漏らすことがあります。ユダは、かつてヨセフを売り渡した後、悔い改めて生活していたのではないでしょうか。しかし災難が降りかかってきました。彼はこのとき、こんなに真面目になったのにと愚痴を言うようなことはしませんでした。今度のことでエジプトの首相に対して『身の潔白』を表わすことは難しい。まして神の前では、どうして罪人でないと言えるだろうか」と。
 ヨセフがエジプトに売られて来たのが17歳。首相になったのが13年後の30歳。豊作が7年続いたので7年足して37歳。さらに凶作が何年続いているのでそれをプラスすると、ヨセフがいなくなってから20年以上も経っている。法律的には時効かもしれない過去の罪であるが、それが無くなったとは考えていないのである。むしろユダは、ここまで神に見過ごされてきたと思っていたが、しかし神の前では逃げも隠れも出来ない、という事を感じたのではないだろうか。
 旧約聖書にヨナの物語がある。彼はニネべに行きなさい、という神の言葉を聞き、そんなことしたくないと逃げていく。しかも彼が逃げたのはタルシシュ行き、つまり正反対の東に逃げていったのである。船の中では彼は神から逃げたと思っていただろう。しかし神の前では逃げも隠れも出来ないのであった。どのような形であれ(あのときは籤を引くという形で)過去の罪が暴かれ、それが無くなることはないのであった。
 18節から「ユダの嘆願」が始まる。これは内容的には「ユダの罪の告白」であると書いてある注解書もあるが、これは嘆願である。(内容的に罪に触れてもいるが)
 彼は極めて具体的にこれまでの経緯を語る。そしてユダは自分がベニヤミンの身代わりになろうとする。ベニヤミンが罪を犯すならば自分がそれを負うという。ベニヤミンが奴隷になるなら自分が身代わりになるという。これがユダの表明した態度であった。
 ここでユダは兄弟たちの代表者として出てきていることに注目したい。つまり彼の言葉は兄弟全員の言葉なのだ。彼の表明は、兄弟全員の表明なのである。従って彼らは、ベニヤミンを何としてでも守る、と固く誓っているのである。ヨセフはこれを聞いた。ベニヤミンは言わばヨセフの分身でもある。もう一つの自分の姿であり、置いてきたカナンでの生活である。つまりベニヤミンを守ることは、自分への態度でもある。そう感じたのではないだろうか。
 彼らは全員が共謀してヨセフを陥れた。ヨセフは売られていった。父は野獣にかみ殺されたと嘆いた。兄弟はその偽装工作をした。それが20年前の彼らの姿であった。しかし今や、状況は変わる。彼らはベニヤミンを命を張って守ろうとしている。それは言うなれば、命を張って自分を守ろうとしている兄たちの姿をここに重ね合わせたのではないだろうか。ヨセフはこの一部始終を自らの目で確認し、彼等の心の奥底にある罪の意識を知り、神の前では隠れることが出来ないことの告白を聞き、ヨセフは確信を得たのであろう。
 しかしここでベニヤミンの罪の身代わりになろうとしているユダであるが、けれども人間の罪を本当の意味で身代わりになれるのはイエス・キリストだけである。ユダがこのイエス・キリストの系図の中に連なっていることの意味をここに見出すものである。
 (日本キリスト教会浦和教会 聖書の学びと祈りの会 奨励:三輪地塩)

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記41章1節-57節 2011年5月26日

創世記41章1節-57節 2011年5月26日
 この41章は、いよいよヨセフの夢解きから新しい地平が広がっていく様が描かれていきます。実は40章が終わっても、37章の終わりの部分と何も状況が変わっていない。彼は40章の終わり部分でも、尚忘れ去られた者として位置づけられている。物語の展開はこの章に至るまで引き伸ばされている。ヨセフはただ待つだけであった。
 
 神は給仕役の長に、ヨセフのことを忘れさせていた。我々は「給仕役が恩を忘れてしまった」とか、「そもそも恩だと思っていなかった」というように考えます。しかし41章に至って思うのは、これは神によって「忘れさせていた」ということではないかということである。コヘレト3章11節「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(口語訳)とあるように、彼が忘れられていたのは、神が忘れさせていたからである、ということが分かる。
 ファラオに夢を解き明かすことが出来る者はいなかったとある(8節)。しかしエジプトという帝国内で、その技術を誰も持っていないとは考えられない。つまり「いなかった」のではなく、「恐くて解き明かせなかった」という事なのかもしれない。「触らぬ神に祟りなし」「沈黙は金」「キジも鳴かずば撃たれまい」ということである。変な夢解きをすることによってまたファラオの怒りを買うかもしれないし、事と次第によっては処刑もありうるからである。
 ここで給仕役が昔の出来事を思い出す。ヨセフがファラオの下に呼び出され「お前は夢を解き明かすことが出来ると聞くが」と言われると、ヨセフは「私ではありません。神がファラオの幸いについて告げているのです」と答えた。権力者の前で臆することなく答えるヨセフが神の権威の中にあることを示す。
 彼はファラオに夢を解き、今後のエジプトの身の振り方を提言する。「聡明で知恵のある人物をお見つけになってエジプトの国を治めさせ、~」(33-34)。この提言を聞き入れたファラオはヨセフを宮廷責任者として登用した。
 ファラオは彼に「ツァフェナト・パネア」という名前を与え、オンの祭司ポティフェラの娘アセナトを妻として与えた、とある。「ツァフェナト・パネア」という名前は「神が語るのでその彼は生きる」という意味のエジプト名である。また、オンという場所は後に「ヘリオポリス」と呼ばれる、太陽神を礼拝する大神殿がある場所である。ここの祭司は非常に位が高かったと言われている。そこの娘が与えられたのである。
 エジプトには飢饉が起こり、全てヨセフが解き明かした通りになった。しかし「エジプトには全国どこにでも食料があった」(54節)のであった。その後も飢饉が激しくなっていくが、何とか耐え凌いでいくのであった。 
 今日の箇所にテーマをつけるとしたら何とつけるだろうか。「ファラオの夢を解き明かしたヨセフ」「ヨセフによって飢饉に備えたエジプト」「エジプトのナンバー2に上り詰めたヨセフ」。しかし考えておきたいのは、「ナイル川」が一つのテーマであるということ。ここでのナイル川は、単なる地理的な名称ということではなく、エジプトの豊穣であり、豊かさであり、命の根源である、ということ。そしてエジプトという帝国やその文化を言い表した象徴である、ということである。生命を生みだし、豊かさの保証をするのは、このナイル川である。ナイルやその生命機構が衰退するということは、エジプト帝国それ自身のの中に生命力を保有していないことを意味している。ナイルはエジプトの賜物と言ったのは、古代歴史家ヘロドトスであったように思うが、それは的を射ている。モーセが出エジプトの時に、ナイル川を血に染めて甚大な被害を想定させて見せたが、それはエジプトの豊穣と生命維持との危機を見せたのであった。今、ファラオの夢によって、ナイル川が象徴されるように、この帝国が破壊され、ここが命を起こす生の場所ではなく、死の場所となることの暗示であった。
 帝国の命を生ぜしめる象徴。それは数年前「アメリカ大帝国」が資本主義という彼らの生命の根源が脅かされその存続すらも危機に晒されたように(リーマンショック、サブプライムローン)、また、「日本国」の命であり、生命線として象徴される「技術力」という神が、その根源に生命を有していないことが明らかになった、今の現状(福島ショック)において、我々は、生命の根源に何を見、何を聞くのであろうか。
 この41章は、エジプトの無益さ、無能さ、また生命の根源とそれを与え、生命を可能にする場所がどこにあるのかを、帝国と神の業が、よく示しているのではないかと思う。帝国には死があった。しかしヨセフが現れてからは生命が生じた、のである。
 この章において、ヨセフは一貫して神中心の立場にある。そして世界の偉大な帝国の王であるファラオも、最後にはこの神と関わらねばならない。16節、25節、28節、32節には、エジプトの地にアブラハムの神が力を行使することが、臆することなく語られている。
 未来を統べ治めるのは、帝国の目論見でも、ファラオの知恵でもなく、またヨセフの解釈でもなく、神それ自身である。生命を与え、死をもたらし、ナイルに産ませ、ナイルを死滅させる神。飢饉をもたらし、命を維持されるのも、この神なのである。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記40章1節-23節 2011年5月19日

 創世記40章1節-23節 2011年5月19日
聖書における「夢」について
古代中近東地域において、夢は超自然的な力発する個々うちと信じられていた。そしてその真意と解釈が、非常に大切なこととされた。メソポタミヤやエジプトには「夢に関する書物」が編纂されていた。一般人の見る恐ろしい夢は、悪霊のたくらみと見做され、一方王や祭司の夢は神々の意向を知らせる手段と理解されていたようである。また王は夢のうちに啓示を受けることを望んで、神殿で夜を過ごすこともあった。聖書にもべテルにおけるヤコブ(28:11~)、シロにおけるサムエル(サム上3章)、ギブオンにおけるソロモン(列王上3:4-15)の聖なる場所での夢による啓示の出来事が伝えられる。聖書の夢を分類すると、

直接的な告知がなされる夢(創世記20:3,6,7、31:10-13、列王上3:5、マタイ1:20、使徒9:10)
象徴的な夢(創世記37:5-10、40:5~、ダニエル2章)
となる。
夢は神の御旨を伝える手段の一つと理解されており、その夢を解く事は、神よりの特別な能力または賜物が与えられていることとされた(創世記41:38、ダニエル2:47)。偽預言者の夢は、偽りの夢であり、それは虚しい慰めしか与えない(ゼカリヤ10:2)。また、よこしまなる夢見る者は、死罪に当たる(申命13:1-5)。夢を多く見ることは、空虚なることとの理性的非難も語られている(コヘレト5:3,7)。新約では、夢は困難・危険の予報的啓示にのみ与えられている(マタイ2:13、使徒18:9)。
 資料分析的に言うならば、39章はE文書、40章はJ文書である。文書形態は違うが、内容は並行している。つまり帝国(エジプト)におけるヨセフの台頭と成功、である。この箇所は大枠として39章~41章の枠組みの中で読まれるべきである。この中心は41章にある。つまりファラオの夢を解くことである。39章~40章はその予備的なものとして書かれており、ファラオの目に留まるまでの経緯が書かれている。
 ここでは、王の料理人と給仕役が登場する。彼らは何らかの過ちを犯し、ファラオの怒りを買い、二人とも牢獄に投げ込まれることから話しが始まる。権力者の機嫌を損ねると牢獄に入れられるというのは、今も昔も同じである。その理由は得てして些細なことが多い。時には冤罪による投獄もありうる。彼らの投獄の理由は分からないが、もし冤罪だとすれば、ヨセフと同じ理由であると言える。
 牢獄にはここを仕切っていたヨセフがいた。憂鬱な顔をしている給仕長の夢の話を聞き、その解き明かしを行なった。それはまたファラオの下に戻れる、という希望の解き明かしであった。しかし料理人役の長の夢は、死に引き取られる絶望的な解き明かしとなった。
 「解き明かし」という文字について。シャーロームの訂正「説き証し」「説き明かし」「解き証し」ではなく、「解き明かし」である。その解釈をし、証するのではなく「明確にする」のである。
 つまりここでヨセフが行っているのは、給仕役にも料理人にも媚びることなく、夢で語られた通りのことを伝えるのみに徹している、ということである。これまでのヨセフの行動を振り返ると、彼は悪びれもせずに、親兄弟に対して、堂々と「皆が私にひれ伏す」とい語り、家族の反感を買い、その結果兄弟たちに疎まれてエジプトに売られてくることになったのだ。この時はヨセフの気遣いのなさや、配慮の足りなさなどの批判があるかと思うが、しかし神の与えられた言葉としての夢の解き明かしは、そこで何が言われているかを分かり易くすること以外にないと思われる。
 つまりヨセフは誰にも迎合することなく、媚びるでもなく、徹頭徹尾神から与えられた賜物を生かして、そこで語られていることを包み隠さずに伝えること。その以外を務めを行なうことは彼の頭にはないのである。彼は解き明かすという出来事に関して、忠実であり、また忠実に務めを果たすこと以外に彼を取り囲むよこしまな思いは微塵もないのである。彼は解釈者であり、神の道具である。それは説教者にも言えることかもしれない。(しかし今週の話の中にあったように、説教者の意図とは全く異なることが起こるのもじじつであるが)
 しかし只一つ彼は、その中でも「何とかしてここから脱出する」ことを望んでいる。ここにヨセフの運命的なめぐり合わせ、彼の歩みの不思議さが見られる。つまり全く支配権を握っているような環境の中で(牢獄にいるのは確かであるが)彼は夢の解き明かしという点で、神の支配という業の一旦を担っている。しかしこの支配権を握っているように思われる者が、全き困難の中にあることのコントラストがある。殆ど神と同一視されたこのヨセフという男は、しかし嘆願してこの牢獄から出して欲しいと一生懸命に願い求めるものでもあるのだ。支配権を神に委ねられた彼は、しかし同時に苦しみと悩みの只中で、悶々と解放されるときを待つ者でもある。この力に満ちた一人の男は、しかし一方で助けを必要として嘆く者でもあるのだ。
 この姿は、神の支配権を一手に引き受けた一人の方が、全能者としてではなく、むしろ人間の罪と咎の中で、打ち震え、苦悩し、血の汗を流し、神に祈り続ける様子に重なり合う。その方は、神の思いと計画を、誰に迎合するのでもなく、おもねるのでもなく、ただ神の意図と計画を忠実に語ったがために、疎んじられ、蔑まれ、罵られて、十字架で死んで行かれた方である。
 ここからキリストの苦悩とキリストの十字架、そしてその背景にある神の計画を見るのである。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記39章1節-23節 2011年5月12日

創世記39章1節-23節 2011年5月12日
ヨセフは神が共におられたので、ファラオの役人ポティファルの家を任されるまでになる。主人の家の全ての管理を任せられた。身分こそ奴隷であるが、実質的には主人として王の重臣ポティファルの家の一切を取り仕切るようになったのである。
7節でポティファルの妻はヨセフを誘惑する。「高官の妻で有閑マダムのポティファル夫人は、宮廷の仕事で忙しくろくろく家にもいない夫に不満だったのでしょう。若く美しいヨセフに心惹かれ誘惑しようとしました」(小泉達人著「創世記講解説教」310頁)
この誘惑に対しての8節~9節のヨセフの言葉は、「人の道と神の道を両方立てるものであった」(小泉前出書311頁)
 ポティファルの妻は自分の思いが拒絶されたとき徹底的な復讐に出る。自分が誘惑しようとしたのをヨセフの責任に転嫁している。「しかしこの恐ろしい憎しみに変わる愛は、それが本当の愛ではなかった何よりのしるしでしょう」(小泉前出書)312頁
 ポティファルは激しく怒り、王の囚人を繋ぐ監獄に入れた。これは国の重罪人を入れる監獄であった。ある注解者はこう言っている。「本来ならヨセフはただちに殺されるはずだ。たとえ重犯罪人の語句であろうと、投獄されて殺されなかったのはおかしい。これはポティファルが妻の不倫を知っていたのではないだろうか」。これは一方では穿ち過ぎの解釈とされるが、もう一方でこのような妻の性質をポティファルは知っていたようにも思うので、ある一定の蓋然性を持っているようにも思われる。
 39章では「主がヨセフと共におられた」(2節、3節、21節、24節)という言葉が多用されている。これが今日の注目すべき言葉である。我々は、神がヨセフを守っているならば、何故兄弟たちに憎まれ、売られ、奴隷となり、婦女暴行の冤罪で投獄されていくのかと考えてしまうだろう。神が共におられるなら人生は何もかも上手くいくはずだ、否、そうであるべきだと。しかし神が共にいてくださるということは、順風満帆な人生の確約を意味していない。もしそれが確約されることを神の守りであると信じるなら、―それはそれで一つの信仰であるが―、それは人間の欲や望みの成就を願うだけの神を求めていることであり、家内安全、無事故、無病の信仰なのではないかと思う。
 しかし神のなさる祝福とは、その人間の思いを越えた所で働く正しい神。乃至、神の正しさの中で我々に働きかける神、なのである。結局我々の欲で神は動かれるのではない。ヨセフの人生は、我々の眼から見ると、何と波乱に満ちた壮絶な人生であろうと思ってしまう。父親の偏愛を受けて、どこか天狗になるところもあったかもしれない。兄弟を見下すところもあったかもしれない。そんな彼だから、たくさんいる兄弟たちに妬まれ、憎まれていったのであろう。そして彼は売られた。親戚のところに奉公に出されたのではない。まったく見知らぬ行商人に売り払われてしまったのだ。彼は故郷を捨てることを余儀なくされ、見知らぬ人に囲まれ、異国の高官の奴隷となった。その主人の妻に求愛され、それは憎悪に変わる。それが発覚した後、彼は重罪人にされてしまう。このような転がり落ちるような人生の中に、我々は何を見るであろうか。この一連の前半生には、救いどころが無い。本当に転がり落ちるようである。しかし聖書はこの人生の所々に杭を打ち込むかのように「主がヨセフと共におられた」と、何度も何度も語るのである。そしてそれに見合った、その時々の恵みが備えられることを語るのである。彼は破綻と転落の人生を歩んだのではない。彼は最も顕著に信仰者的に、信仰者の真髄を歩んだのである。それは苦難でも守り、逆境における支え、ということである。