2023.10.22 の週報掲載の説教
<2023年8月6日の説教から>
『キリストに倣う』
ローマの信徒への手紙12章9節~13節
牧 師 鈴木美津子
「愛には偽りがあってはなりません。(9)」
「偽りがあってはならない」とは、「偽善的であってはならない」ということ、言い換えれば、「本物の愛で互いに愛し合う」と言うことである。この愛は、神の愛、アガペーの愛である。どのようにして私たちは、この本物の愛を持つことができるのか。この愛は神からの賜物である。私たち人間がつくり出すことはできない。神が先に私たちを愛してくださったので、私たちは本当の愛を持つことができるのだ。つまり、私たちが神に目を留め、神の愛を覚え、神の愛に応答するときに、私たちは、この本物の愛で互いに愛し合うことができるのである。なぜなら、罪人である私たちは、自分の中から本物の愛を引き出すことはできないからである。神の愛をいただいた者として、感謝をもってその愛を喜び、神への応答として、この愛を持つことができるのである。
パウロは、その後に「悪を憎み、善から離れず」と言葉を繋げる。「善から離れず」とは、善にくっつく、善に固着するという意味である。善が自分から離れないように必死にすがるのである。真剣に悪と戦って善を求めるのである。それこそが「偽善的ではない愛」を持つことの意味である。善を求めないで悪と妥協しながら生活を送り、自分の心の中にある悪い思いなどを許すような生活を送ったりするなら、私たちは偽善的な愛しか持てない者になってしまうのである。
私たちは皆、罪人なので、本当の愛を持つための戦いは死ぬ日まで続く。この戦いは、自分の心の中の戦いである。しかし、そうであっても私たちは戦わなければならない。
なぜなら、神が私たちを愛して、御自分の御子である主イエス・キリストを惜しまずに私たちに与えてくださったからである。そのことに感謝するのである。そのことを覚えるなら、私たちは、自分の心にある偽善と戦うことができる。自分の心にある悪に対して戦うことができる。自分の思いの悪いところに対して戦うことができる。本当の意味で悪を憎むことができるのである。真剣に悪と戦うならば、私たちは必ず成長する。真剣に悪と戦うならば、神を求め、愛を求めて歩み続けることができる。わたしたちは、どんな境遇にあっても、たとえもっとも厳しい状況にあっても、またわたしたちが過ちを犯したときも、神の愛は決して失われないことを、わたしたちは知っているからである。だから、私たちは、今日も希望を持って歩むことができる。
2023.10.8 の週報掲載の説教
2023.10.8 の週報掲載の説教
<2023年7月30日説教から>
『一つの体を形づくる』
ローマの信徒への手紙12章3節~8節
牧 師 鈴木美津子
パウロは、キリストを信じる者たちが形づくる共同体、つまりキリストの体なる教会の中では、「自分を過大に評価してはなりません(3b)」と命じる。自分自身に過大な評価をして、他の人を蔑まないように、謙虚な心を持つようにと命じているのである。しかし、これは「自分を評価する時に、控えめに評価せよ」ということではない。それは言うまでもなく、恵みを与えくださる神ご自身を否定しているのと同じだからである。それは他の人に対しても同様である。そうであるから、パウロは「むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべき(3c)」である、と語るのである。人間のはかりではなく、信仰のはかりにしたがって、しかも神が与えくださった信仰のはかりにしたがって、慎み深く各自を評価するようにと命じているのである。
これを語るパウロには、教会という共同体が、キリストを頭とした一つの体とする思いがある。人間の体というのは、さまざまな部分から成り立っている。体には手があり、足があり、手には指があり、顔には目や鼻や口があるように、教会に集う一人一人のキリスト者も、そのように一つの体なる教会を造り上げている。しかも、一つの体を構成している部分は多様な部分からなっているが、それぞれの部分同士を比較して、どちらの方が優れている、またどちらの方が劣っている、とは言えない。むしろ、それぞれの部分が互いに他を必要としているからこそ、一つの体としてもっともよく機能していくことができるのである。このようにキリストを信じる者たちが、互いに他を必要とする体の部分であるという認識を持っていれば、そこには傲慢な思いも、蔑む思いも生まれて来るはずがないはずである。だからこそ、互いがそれぞれに自分に与えられた責任を果たすことで、一つの体としてもっともよく成長できることを覚える必要があるのだ。
教会は、キリストを頭として一体性と多様性をバランスよく保ちながら豊かに成長していく共同体である。そして、そのような共同体を自分もまた構成している一人一人であることを謙虚に自覚し、互いに対して果たすべき責任を深く思うことが大切なのである。パウロは、6節以下で、それぞれに与えられる賜物について記しているが、私たちはその賜物を各々慎み深く思い、一つの体なる教会を形づくるために用いていきたいと願うのである。
<2023年7月30日説教から>
『一つの体を形づくる』
ローマの信徒への手紙12章3節~8節
牧 師 鈴木美津子
パウロは、キリストを信じる者たちが形づくる共同体、つまりキリストの体なる教会の中では、「自分を過大に評価してはなりません(3b)」と命じる。自分自身に過大な評価をして、他の人を蔑まないように、謙虚な心を持つようにと命じているのである。しかし、これは「自分を評価する時に、控えめに評価せよ」ということではない。それは言うまでもなく、恵みを与えくださる神ご自身を否定しているのと同じだからである。それは他の人に対しても同様である。そうであるから、パウロは「むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべき(3c)」である、と語るのである。人間のはかりではなく、信仰のはかりにしたがって、しかも神が与えくださった信仰のはかりにしたがって、慎み深く各自を評価するようにと命じているのである。
これを語るパウロには、教会という共同体が、キリストを頭とした一つの体とする思いがある。人間の体というのは、さまざまな部分から成り立っている。体には手があり、足があり、手には指があり、顔には目や鼻や口があるように、教会に集う一人一人のキリスト者も、そのように一つの体なる教会を造り上げている。しかも、一つの体を構成している部分は多様な部分からなっているが、それぞれの部分同士を比較して、どちらの方が優れている、またどちらの方が劣っている、とは言えない。むしろ、それぞれの部分が互いに他を必要としているからこそ、一つの体としてもっともよく機能していくことができるのである。このようにキリストを信じる者たちが、互いに他を必要とする体の部分であるという認識を持っていれば、そこには傲慢な思いも、蔑む思いも生まれて来るはずがないはずである。だからこそ、互いがそれぞれに自分に与えられた責任を果たすことで、一つの体としてもっともよく成長できることを覚える必要があるのだ。
教会は、キリストを頭として一体性と多様性をバランスよく保ちながら豊かに成長していく共同体である。そして、そのような共同体を自分もまた構成している一人一人であることを謙虚に自覚し、互いに対して果たすべき責任を深く思うことが大切なのである。パウロは、6節以下で、それぞれに与えられる賜物について記しているが、私たちはその賜物を各々慎み深く思い、一つの体なる教会を形づくるために用いていきたいと願うのである。
2023.10.1 の週報掲載の説教
2023.10.1 の週報掲載の説教
<2023年7月23日説教から>
『わたしたちのなすべき礼拝』
ローマの信徒への手紙12章1節~2節
牧 師 鈴木美津子
パウロがこの手紙を記した紀元60年頃のエルサレム神殿では、旧約聖書の掟に従って、動物犠牲がささげられていた。しかし、彼は、キリストを信じる者は、牛や羊をささげるのではなく、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい(1b)」と勧める。なぜなら、「キリストが、御自分を信じる者たちのために十字架の上で血を流して死んでくださった。私たちの罪を償う供え物として、御自分を献げてくださった。だから、キリストを信じる者は、動物をいけにえとしてささげる必要はない。キリストを信じる者に命じられているのは、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げること」だからである。
キリスト者は、毎主日、この体をもって教会に集まり、共に礼拝をささげている。礼拝に出席することにより、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げている。しかし、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい(1b)」とは、それだけでなく、キリスト者の生活の全領域に当てはめることができることである。キリスト者は主の日だけではなく、日々、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげることが求められているのだ、と言うことである。
それに続く「あなたがたのなすべき礼拝(1c)」という言葉は「あなたがたの理にかなった礼拝」とも訳すことができる。神のもろもろの憐れみを受けた者は、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることが、道理にかなったことだということ、当然なされるべきことだという意味である。パウロは、1章から11章に渡り、神のもろもろの憐れみについて語ってきた。そのような憐れみ、恵みをキリスト者は神から与えられているのである。そうであれば、キリスト者が自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることは理にかなったことであるのだ。神からもろもろの憐れみをいただいていながら、自分の体を罪に任せるような生活をしているならば、それは理にかなっていない。それは実におかしなことである。
キリストは、私たちの罪のために、御自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして、十字架のうえで献げてくださった。それは、御自分を信じる者が、神の憐れみに感謝して、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げるためである。だから、私たちは、日曜日だけでなく、私たちの全てを、神にささげる。これが私たちがなすべき、理にかなったことである。
<2023年7月23日説教から>
『わたしたちのなすべき礼拝』
ローマの信徒への手紙12章1節~2節
牧 師 鈴木美津子
パウロがこの手紙を記した紀元60年頃のエルサレム神殿では、旧約聖書の掟に従って、動物犠牲がささげられていた。しかし、彼は、キリストを信じる者は、牛や羊をささげるのではなく、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい(1b)」と勧める。なぜなら、「キリストが、御自分を信じる者たちのために十字架の上で血を流して死んでくださった。私たちの罪を償う供え物として、御自分を献げてくださった。だから、キリストを信じる者は、動物をいけにえとしてささげる必要はない。キリストを信じる者に命じられているのは、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げること」だからである。
キリスト者は、毎主日、この体をもって教会に集まり、共に礼拝をささげている。礼拝に出席することにより、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げている。しかし、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい(1b)」とは、それだけでなく、キリスト者の生活の全領域に当てはめることができることである。キリスト者は主の日だけではなく、日々、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげることが求められているのだ、と言うことである。
それに続く「あなたがたのなすべき礼拝(1c)」という言葉は「あなたがたの理にかなった礼拝」とも訳すことができる。神のもろもろの憐れみを受けた者は、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることが、道理にかなったことだということ、当然なされるべきことだという意味である。パウロは、1章から11章に渡り、神のもろもろの憐れみについて語ってきた。そのような憐れみ、恵みをキリスト者は神から与えられているのである。そうであれば、キリスト者が自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることは理にかなったことであるのだ。神からもろもろの憐れみをいただいていながら、自分の体を罪に任せるような生活をしているならば、それは理にかなっていない。それは実におかしなことである。
キリストは、私たちの罪のために、御自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして、十字架のうえで献げてくださった。それは、御自分を信じる者が、神の憐れみに感謝して、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げるためである。だから、私たちは、日曜日だけでなく、私たちの全てを、神にささげる。これが私たちがなすべき、理にかなったことである。
2023.9.24 の週報掲載の説教
2023.9.24 の週報掲載の説教
<2023年7月16日説教から>
『すべての人を憐れむために』
ローマの信徒への手紙11章25節~36節
牧 師 鈴木 美津子
神の民イスラエルの歴史は、神が父祖アブラハムを召し出されたことから始まった。その長い歴史は、民が神に背き続け、罪を犯し続けた歴史でもある。そうであるにもかかわらず、神はイスラエルを愛し続け、御子イエス・キリストをこの地上に送って下さった。しかし、彼らはその御子をも受け入れず、民衆がキリストを救い主として迎え入れようとしている姿に、心を頑なにして妬みを起こし、ついには、キリストを十字架につけてしまった。では、この頑ななイスラエルの民はどうなるのか。イスラエルの民は、今度こそ神から見捨てられてしまうのだろうか。
パウロは、「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように(25a)」、と異邦人に対して、自分たちだけが救われて、イスラエルの民を軽蔑したり、見下げたりすることのないようにと戒めた後、「次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。(25b)」と人間の考えをはるかに超えた壮大な「神の秘められた計画」を彼らに告げた。
イスラエルの民が心を頑なにして、キリストを信じなかったことによって、福音はまず異邦人へと伝えられた。しかし、神の計画は、それで終わるのではない。イスラエルの民が頑なであるのは、異邦人全体が救われる時までであり、異邦人全体が救われた時、全イスラエルが救われるというものなのだ。神は、ユダヤ人も異邦人もすべての人が救われることを願っておられるのだ。
29節に「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」とある通り、アブラハムをはじめ、先祖たちと契約を結ばれて、イスラエルを選民として立てられた神は、御自分が選ばれた民に対して、その愛を取り消されるようなお方ではないのである。神から、選ばれた民は、決してその愛から漏れることはないからである。
かつて不柔順であった異邦人を救って下さった神は、ユダヤ人をも決して見捨てられず、愛し続けておられる。神はすべての人を憐れんでおられ、すべての人が救われることを願っておられるのである。
この神の救いの計画は、あまりにも壮大で、有限である私たち人間の知恵や知識では、知り尽くすことは出来ない。だからこそ、この神の素晴らしい計画を覚えながら、心から主なる神を讃美し、この神の計画の一端を担う喜びを抱き、共に歩みを進めたいと思う。
<2023年7月16日説教から>
『すべての人を憐れむために』
ローマの信徒への手紙11章25節~36節
牧 師 鈴木 美津子
神の民イスラエルの歴史は、神が父祖アブラハムを召し出されたことから始まった。その長い歴史は、民が神に背き続け、罪を犯し続けた歴史でもある。そうであるにもかかわらず、神はイスラエルを愛し続け、御子イエス・キリストをこの地上に送って下さった。しかし、彼らはその御子をも受け入れず、民衆がキリストを救い主として迎え入れようとしている姿に、心を頑なにして妬みを起こし、ついには、キリストを十字架につけてしまった。では、この頑ななイスラエルの民はどうなるのか。イスラエルの民は、今度こそ神から見捨てられてしまうのだろうか。
パウロは、「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように(25a)」、と異邦人に対して、自分たちだけが救われて、イスラエルの民を軽蔑したり、見下げたりすることのないようにと戒めた後、「次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。(25b)」と人間の考えをはるかに超えた壮大な「神の秘められた計画」を彼らに告げた。
イスラエルの民が心を頑なにして、キリストを信じなかったことによって、福音はまず異邦人へと伝えられた。しかし、神の計画は、それで終わるのではない。イスラエルの民が頑なであるのは、異邦人全体が救われる時までであり、異邦人全体が救われた時、全イスラエルが救われるというものなのだ。神は、ユダヤ人も異邦人もすべての人が救われることを願っておられるのだ。
29節に「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」とある通り、アブラハムをはじめ、先祖たちと契約を結ばれて、イスラエルを選民として立てられた神は、御自分が選ばれた民に対して、その愛を取り消されるようなお方ではないのである。神から、選ばれた民は、決してその愛から漏れることはないからである。
かつて不柔順であった異邦人を救って下さった神は、ユダヤ人をも決して見捨てられず、愛し続けておられる。神はすべての人を憐れんでおられ、すべての人が救われることを願っておられるのである。
この神の救いの計画は、あまりにも壮大で、有限である私たち人間の知恵や知識では、知り尽くすことは出来ない。だからこそ、この神の素晴らしい計画を覚えながら、心から主なる神を讃美し、この神の計画の一端を担う喜びを抱き、共に歩みを進めたいと思う。
2023.9.10 の週報掲載の説教
2023.9.10 の週報掲載の説教
<2023年7月9日の説教から>
『神の慈しみと厳しさを考えなさい』 牧 師 鈴木 美津子
ローマの信徒への手紙11章7節~24節
パウロは、ここではオリーブの木の接ぎ木にたとえて、異邦人とユダヤ人のことを語っている。オリーブの木は、旧約において神の民イスラエルを指す(エレミヤ11:16)。だから、オリーブの木に接ぎ木されるとは神の民とされることであり、そこから折り取られるとは、神の民ではなくなることを意味している。オリーブの木に接ぎ木された野生のオリーブの木はキリストを信じた異邦人を、オリーブの木から折り取られた枝は、キリストを信じないユダヤ人を指している。神を知らずに生きていた異邦人が神の民イスラエルの一員とされたのは、神によって、オリーブの木に接ぎ木されるという仕方によってであったのである。そのようにして、異邦人は根から豊かな養分を受けるようになり、神がアブラハムと結ばれた恵みの契約にもあずかるようになったのだ。
しかし、そのことによって一つの問題が生じた。接ぎ木された異邦人が、折り取られた枝であるユダヤ人に対して思い上がるようになってしまったのである。このような思い上がりは、異邦人の救いが神の計画の最終目的であるという誤解から生じた。確かに、ユダヤ人は不信仰のために折り取られた。しかし、同じことは、異邦人においても言える。接ぎ木されるのも、折り取られるのも、どちらも神がなされることであるからだ。そうであれば、接ぎ木された異邦人は自分たちに神の慈しみを、折り取られたユダヤ人に神の厳しさを見るべきではないか。その神の慈しみと厳しさを考えるならば、思い上がることなどできずに、むしろ神を恐れるべきではないか、とパウロは語る。
彼は、23節で、ユダヤ人も不信仰にとどまらないなら再び接ぎ木されると語っている。神の民ではない異邦人にキリストを信じる信仰を与えて、神の民とされた神は、神の民であるイスラエルにキリストを信じさせることができないはずはないからだ。それは異邦人を神の民とするよりもたやすいことなのだ。神のご計画は、ご自分の国、神の国の民として、イスラエル民族だけをお選びになったのではなく、この民族を通して、あらゆる民族の人々が救いの祝福にあずかるようにすることであった。そうだからこそ、キリストにつまずいてしまったイスラエルにも回復と救いの祝福にあずかる希望があるのである。
<2023年7月9日の説教から>
『神の慈しみと厳しさを考えなさい』 牧 師 鈴木 美津子
ローマの信徒への手紙11章7節~24節
パウロは、ここではオリーブの木の接ぎ木にたとえて、異邦人とユダヤ人のことを語っている。オリーブの木は、旧約において神の民イスラエルを指す(エレミヤ11:16)。だから、オリーブの木に接ぎ木されるとは神の民とされることであり、そこから折り取られるとは、神の民ではなくなることを意味している。オリーブの木に接ぎ木された野生のオリーブの木はキリストを信じた異邦人を、オリーブの木から折り取られた枝は、キリストを信じないユダヤ人を指している。神を知らずに生きていた異邦人が神の民イスラエルの一員とされたのは、神によって、オリーブの木に接ぎ木されるという仕方によってであったのである。そのようにして、異邦人は根から豊かな養分を受けるようになり、神がアブラハムと結ばれた恵みの契約にもあずかるようになったのだ。
しかし、そのことによって一つの問題が生じた。接ぎ木された異邦人が、折り取られた枝であるユダヤ人に対して思い上がるようになってしまったのである。このような思い上がりは、異邦人の救いが神の計画の最終目的であるという誤解から生じた。確かに、ユダヤ人は不信仰のために折り取られた。しかし、同じことは、異邦人においても言える。接ぎ木されるのも、折り取られるのも、どちらも神がなされることであるからだ。そうであれば、接ぎ木された異邦人は自分たちに神の慈しみを、折り取られたユダヤ人に神の厳しさを見るべきではないか。その神の慈しみと厳しさを考えるならば、思い上がることなどできずに、むしろ神を恐れるべきではないか、とパウロは語る。
彼は、23節で、ユダヤ人も不信仰にとどまらないなら再び接ぎ木されると語っている。神の民ではない異邦人にキリストを信じる信仰を与えて、神の民とされた神は、神の民であるイスラエルにキリストを信じさせることができないはずはないからだ。それは異邦人を神の民とするよりもたやすいことなのだ。神のご計画は、ご自分の国、神の国の民として、イスラエル民族だけをお選びになったのではなく、この民族を通して、あらゆる民族の人々が救いの祝福にあずかるようにすることであった。そうだからこそ、キリストにつまずいてしまったイスラエルにも回復と救いの祝福にあずかる希望があるのである。
2023.9.3 の週報掲載の説教
<2023年7月2日の説教から>
『何とかして幾人かでも救いたいのです』
ローマの信徒への手紙11章11節~16節
牧 師 鈴木美津子
「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。(11a)」
イスラエルがキリストの福音につまずいたのは、彼らが神に捨てられて滅んでしまうためであったのか。それに対して絶対にそうではない、それは救いが異邦人に及ぶためであったのだ、とパウロは断言する。
そもそも福音を最初に聞いたのはイスラエルの民であった。しかし、彼らはその高慢と頑なさゆえにキリストにつまずき、福音を受け入れなかった。しかし、皮肉にもイスラエルがつまずいた事で、福音はどんどん異邦人の中に広がっていった。しかし、このことは事のなりゆき、偶然に起こったことではなく、あくまで神の救いの計画の内の事であったのだ。確かにイスラエルは頑なさゆえに福音を受け入れなかった。しかし神は、イスラエルのその欠けすらも用いて、ご自身の救いのみわざを成し遂げようとされたのである。
しかし、だからと言って神は一度選んだ神の民イスラエルを見捨てたりはしない。神の救いの計画はさらにさらに深いものであったからだ。なんと異邦人が先に救われたのは、それによってユダヤ人のねたみを引き起こさせて、救いへと導くためでもあったのだ。なにがなんでもイスラエルを救い出そうとする神の契約に対する誠実さ、そしてその中で異邦人をも救い出そうとする憐れみ。この神の救いのスケールの大きさを見た時、私たちはこれこそが神の驚くべき恵み(アメージングレイス)だと叫ばずにはいられないではないか。
この箇所で私たちが心に留め置くことは「救いの始まりはあくまでイスラエルからである」ということである。旧約聖書から新約聖書、イスラエルから教会へと、この神の救いの歴史の流れは途中で分断されたりはしていない。選びの民がイスラエルから異邦人に取って代わったわけでもない。イスラエルがなければ教会も存在することはなかったのである。そのことをパウロは次回、オリーブの木のたとえを用いて語るのである。
2023.9.3 の週報掲載の説教
『何とかして幾人かでも救いたいのです』
ローマの信徒への手紙11章11節~16節
牧 師 鈴木美津子
「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。(11a)」
イスラエルがキリストの福音につまずいたのは、彼らが神に捨てられて滅んでしまうためであったのか。それに対して絶対にそうではない、それは救いが異邦人に及ぶためであったのだ、とパウロは断言する。
そもそも福音を最初に聞いたのはイスラエルの民であった。しかし、彼らはその高慢と頑なさゆえにキリストにつまずき、福音を受け入れなかった。しかし、皮肉にもイスラエルがつまずいた事で、福音はどんどん異邦人の中に広がっていった。しかし、このことは事のなりゆき、偶然に起こったことではなく、あくまで神の救いの計画の内の事であったのだ。確かにイスラエルは頑なさゆえに福音を受け入れなかった。しかし神は、イスラエルのその欠けすらも用いて、ご自身の救いのみわざを成し遂げようとされたのである。
しかし、だからと言って神は一度選んだ神の民イスラエルを見捨てたりはしない。神の救いの計画はさらにさらに深いものであったからだ。なんと異邦人が先に救われたのは、それによってユダヤ人のねたみを引き起こさせて、救いへと導くためでもあったのだ。なにがなんでもイスラエルを救い出そうとする神の契約に対する誠実さ、そしてその中で異邦人をも救い出そうとする憐れみ。この神の救いのスケールの大きさを見た時、私たちはこれこそが神の驚くべき恵み(アメージングレイス)だと叫ばずにはいられないではないか。
この箇所で私たちが心に留め置くことは「救いの始まりはあくまでイスラエルからである」ということである。旧約聖書から新約聖書、イスラエルから教会へと、この神の救いの歴史の流れは途中で分断されたりはしていない。選びの民がイスラエルから異邦人に取って代わったわけでもない。イスラエルがなければ教会も存在することはなかったのである。そのことをパウロは次回、オリーブの木のたとえを用いて語るのである。
2023.9.3 の週報掲載の説教
