2023.9.10 の週報掲載の説教

2023.9.10 の週報掲載の説教
<2023年7月9日の説教から>

 
『神の慈しみと厳しさを考えなさい』  牧 師 鈴木 美津子
ローマの信徒への手紙11章7節~24節

 
 
パウロは、ここではオリーブの木の接ぎ木にたとえて、異邦人とユダヤ人のことを語っている。オリーブの木は、旧約において神の民イスラエルを指す(エレミヤ11:16)。だから、オリーブの木に接ぎ木されるとは神の民とされることであり、そこから折り取られるとは、神の民ではなくなることを意味している。オリーブの木に接ぎ木された野生のオリーブの木はキリストを信じた異邦人を、オリーブの木から折り取られた枝は、キリストを信じないユダヤ人を指している。神を知らずに生きていた異邦人が神の民イスラエルの一員とされたのは、神によって、オリーブの木に接ぎ木されるという仕方によってであったのである。そのようにして、異邦人は根から豊かな養分を受けるようになり、神がアブラハムと結ばれた恵みの契約にもあずかるようになったのだ。

しかし、そのことによって一つの問題が生じた。接ぎ木された異邦人が、折り取られた枝であるユダヤ人に対して思い上がるようになってしまったのである。このような思い上がりは、異邦人の救いが神の計画の最終目的であるという誤解から生じた。確かに、ユダヤ人は不信仰のために折り取られた。しかし、同じことは、異邦人においても言える。接ぎ木されるのも、折り取られるのも、どちらも神がなされることであるからだ。そうであれば、接ぎ木された異邦人は自分たちに神の慈しみを、折り取られたユダヤ人に神の厳しさを見るべきではないか。その神の慈しみと厳しさを考えるならば、思い上がることなどできずに、むしろ神を恐れるべきではないか、とパウロは語る。

彼は、23節で、ユダヤ人も不信仰にとどまらないなら再び接ぎ木されると語っている。神の民ではない異邦人にキリストを信じる信仰を与えて、神の民とされた神は、神の民であるイスラエルにキリストを信じさせることができないはずはないからだ。それは異邦人を神の民とするよりもたやすいことなのだ。神のご計画は、ご自分の国、神の国の民として、イスラエル民族だけをお選びになったのではなく、この民族を通して、あらゆる民族の人々が救いの祝福にあずかるようにすることであった。そうだからこそ、キリストにつまずいてしまったイスラエルにも回復と救いの祝福にあずかる希望があるのである。