2023.9.3 の週報掲載の説教

<2023年7月2日の説教から>

『何とかして幾人かでも救いたいのです』
ローマの信徒への手紙11章11節~16節

 
牧 師 鈴木美津子

 
では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。(11a)」

イスラエルがキリストの福音につまずいたのは、彼らが神に捨てられて滅んでしまうためであったのか。それに対して絶対にそうではない、それは救いが異邦人に及ぶためであったのだ、とパウロは断言する。
そもそも福音を最初に聞いたのはイスラエルの民であった。しかし、彼らはその高慢と頑なさゆえにキリストにつまずき、福音を受け入れなかった。しかし、皮肉にもイスラエルがつまずいた事で、福音はどんどん異邦人の中に広がっていった。しかし、このことは事のなりゆき、偶然に起こったことではなく、あくまで神の救いの計画の内の事であったのだ。確かにイスラエルは頑なさゆえに福音を受け入れなかった。しかし神は、イスラエルのその欠けすらも用いて、ご自身の救いのみわざを成し遂げようとされたのである。
しかし、だからと言って神は一度選んだ神の民イスラエルを見捨てたりはしない。神の救いの計画はさらにさらに深いものであったからだ。なんと異邦人が先に救われたのは、それによってユダヤ人のねたみを引き起こさせて、救いへと導くためでもあったのだ。なにがなんでもイスラエルを救い出そうとする神の契約に対する誠実さ、そしてその中で異邦人をも救い出そうとする憐れみ。この神の救いのスケールの大きさを見た時、私たちはこれこそが神の驚くべき恵み(アメージングレイス)だと叫ばずにはいられないではないか。

この箇所で私たちが心に留め置くことは「救いの始まりはあくまでイスラエルからである」ということである。旧約聖書から新約聖書、イスラエルから教会へと、この神の救いの歴史の流れは途中で分断されたりはしていない。選びの民がイスラエルから異邦人に取って代わったわけでもない。イスラエルがなければ教会も存在することはなかったのである。そのことをパウロは次回、オリーブの木のたとえを用いて語るのである。

2023.9.3 の週報掲載の説教