2021.12.5 の週報掲載の説教

2021.12.5 の週報掲載の説教
<2021年6月28日の説教から>

ルカによる福音書7章1節~10節

『主よ御足労には及びません』
                  牧師 三輪地塩

この百人隊長は、「私はあなたを、自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」(6節)と述べる。換言すれば「自分にはあなた(イエス)に見合った価値がない」という意味である。旧約聖書を熟知していたであろう彼は、自分がイスラエルの選びの民ではないことをこのように表現しているのだろう。彼は部下に対する愛情を示しながら、わきまえと謙虚さを持ち、神を敬い、畏れ、信仰的な視点で考えることが出来る「異邦人士官」であった。

隣人への愛と神への愛を同時に持つことは難しい。マタイ福音書22章34節以下には、「律法の中で最も重要な掟」について「神を愛すること」と「隣人を愛すること」と述べられており、この二つの不可分性を示したのであった。この百人隊長は、ユダヤ人の血筋ではない異邦人でありながら、イスラエルの神が伝える真意を汲み取っていた。さらに、軍隊の命令系統を信仰における神と民と類比させることによって、正しく神の命令について理解していたのである。彼は自身の職業から類推して信仰を解釈する。兵士は上官の命令が絶対であることを身をもって知っていた。イエスが最も感心したのは、彼が「言葉に信頼」していることであった。この百人隊長は「イエスの語る言葉が実現する」という信頼をもっていた。

しかし良く読んでみると、この百人隊長、ただの一度もイエスに直接は会っておらず、「ユダヤ人の長老」(3節)や「友達」(6節)を使いに出しているだけである。不思議な感じもするが、信仰者が「イエスの言葉」「聖書の言葉」を信じるとはまさにこうである。つまり、いにしえの信仰者が聖書に書き記して伝えたことを我々は信じているからだ。我々はイエスの言葉を、イエスの「声帯から」聞いたわけではないが、「直接のイエスの言葉として」聖書に耳を傾けている。この聖書の証言を、神の言葉として、確信と信頼をもって「そのとおり」「アーメン」であるものとして信じ、信仰を告白するのだ。

信仰はかくも「代理的」である。直接的な信仰を求める者は言うかもしれない、「直接、釘の跡を見、指をわき腹に入れてみなければ信じない」と。しかしその時、復活のキリストの言葉がこだまする。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いである」と。   (ヨハネ福音書21章29節)。

2021.11.28 の週報掲載の説教

2021.11.28 の週報掲載の説教
<2021年6月21日の説教から>
ルカによる福音書6章46節~49節

『岩の上に土台を置いて』
                  牧師 三輪地塩

我々の生涯には、さながら洪水のような厳しい状況が襲い掛かる。それを「家」に譬えてイエスは語る。ユダヤの気候は日本とは異なり、長い夏と短い冬、つまり雨期と乾期の2つしかない。イスラエルは地中海岸沿いにあるが、砂漠地方の気候に属している。1日の温度差は激しく、時には真昼と真夜中で40℃の差があることも珍しくない。その分、雨の降り方も尋常ではない。年間降雨量はたった500mmであり、日本の約30分の1程度しかない。だがその雨が3月と10月に集中して降るため、すさまじい豪雨となり、数分で川をあふれさせる。最近の日本の豪雨災害を思い起こせばその凄まじさを幾らかでも想起できよう。もし土台がしっかりしてなければ、その氾濫した地域の家は、激流に一気に流されてしまう。このような背景を元にしてイエスは語る。「土台がしっかりした家は、揺り動かす事が出来なかった」「決して崩れない」。この豪雨を知っている聴衆は、イエスの確信ある言葉を力強く受け取ったことだろう。

我々の人生に起こる「洪水」もまた然り。氾濫して押し寄せる困難から免れ得ない。自らの足で立つ事が不可能と感じさせられる苦しみが幾度となく押し寄せる。だがその際にも、キリストを土台にするならば、岩の上に基礎を据えた者は、全てに耐えうる力を得られるとイエスは言う。揺るがない「キリスト」が土台である限り、我々も揺るがないのだ。

主を告白する我々は、日々御言葉に接し、御言葉と共に歩んでいることを、この箇所から再確認させられる。我々の教会では「日本キリスト教会信仰の告白」を制定し、これを告白している。この信仰告白は「暗唱」することが目的ではなく、内容や意味が理解され、信仰者の実生活に生かされるための告白である。信仰告白は「理解に」留まらず、生活の中で生かされる事が大切だ。同時に我々は、その告白内容をいつも吟味することが重要となる。イエス・キリストという基礎の上に固く据えられた岩の上の家ならば、例え洪水が押し寄せても、決して揺り動かされることはない。我々は、我々が基礎とするキリストと真剣に向き合っているか。土台であり基礎であるキリストの言葉に、我々自身が真摯に取り組んでいるか。その自己吟味が問われている。

2021.11.14 の週報掲載の説教

2021.11.14 の週報掲載の説教
<2020年6月14日の説教から>

ルカによる福音書6章43節~45節

『人の口は、心から出ることを語る』
牧師 三輪地塩

「イチジク」も「ブドウ」も当時は重要な食材だった。そのままでも、乾燥させて長期保存にも適している。さらに、この二つは「神の祝福の果物」と認識されていた。申命記8章8節で神は、「約束の地」とは「……山にも川が流れ、泉が湧き、[]小麦、大麦、ブドウ、イチジク[]が実る土地[]である」。と語る。つまり当時の人々にとってイチジクもブドウも、主の祝福を受けた食料であり、栄養的にも信仰的にも「善い物」であった。これらは「茨」からも「野ばら」からも生ぜしめることは出来ない。この文脈でイエスは「人の口は、心から溢れ出ることを語る」と語る。

ヤコブの手紙3章9節以下では「舌を制御する」ことについて「私達は舌で、父である主を讃美し、また、舌で神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から讃美と呪いが出てくるのです」と述べられる。同じ口から讃美と呪いの言葉が出てくる、だからこのような事があってはならない、とヤコブは戒める。そして同時に「これが人間の現実である」と言っているようでもある。およそ両立しない二つの言葉が、我々の口から出る。ある時は人を非難し攻撃し、またある時はその口で神を讃美し、自分を罪人であると告白する。ヤコブは同じ口から(同じ舌から)二つの異なる言葉が、躊躇することなく出てきてしまう現実を述べている。

ヨハネ福音書15章には「私はブドウの木、あなた方はその枝である。人が私に繋がっており、私もその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」という言葉があるが、これが良い示唆を与える。良い木に繋がっていると良い実を結ぶ。しかし同時に、我々の努力だけで行えるものではなく、「人が私に繋がっており」と同時に「私もその人に繋がっていれば」との条件節が続く。つまり主の方から我々に繋がって下さることを信じること、これが大事だと述べている。我々が一生懸命に繋がっていようとしても、「繋がり切れない我々」がいる。自らの力で救いを引き寄せようとしても、我々が救いを作ることは出来ない。むしろ、良いものは「神から」与えられるのであり、良い実も、良い言葉も、神から与えられることを信じること。そこにしか我々信仰者が本来的に生きる道はないのである。

2021.11.7 の週報掲載の説教

2021.11.7 の週報掲載の説教
<2020年6月7日の説教から>

ルカによる福音書6章37節~42節

『まず自分の目から丸太を取り除け』
牧師 三輪地塩

この箇所は、実にアイロニックである。37節の「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」の言葉は、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という主の祈りの一節が共鳴する。我々は人を裁きがちである。人の罪や間違いはよく見えるし指摘しやすい。だが自分の罪を直視させられるのは嫌いだし、人から間違いを指摘されるとムキになって怒り出す。実にしょうもない存在だ。こんな人間の性質・弱さ・悪さ・汚さについて、今日の箇所は包み隠さず語っている。

38節の「自分の量る秤で量り返される」「押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りを良くして」という言葉は難しい。だが、当時の文化的背景から読むと多少分かり易くなる。つまり「収穫物を測量するイメージ」で語られているのである。「秤」と言われているのは「麦を入れる秤」「升」のこと。「量りを良くする」は、升から溢れるほど山盛りに麦を入れ、山盛りの升の上部を板か何かで、すぅ~っと払い落とした、ちょうど一杯分の升の量、それを「良い量り」と呼ぶ。つまり満タンだ。それに対し「悪い量り」とは、升が満タンになっていない状態。升一杯分より少ない状態のことを「悪い量り」と呼んでいる。

イエスは今日の箇所で「押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りを良くして、ふところに入れてもらえる」と語られる。それは、良い量りの上に、更に「押し込んでくれる」ということである。ただでさえ、たくさん入っているのに、それ以上にギュウギュウに押し込んで入れてくれる。少しでも隙間があれば、升を揺すって麦をねじ込んでくれるというのだ。そして遂には升が溢れてしまうほどたくさんの麦を升に入れてくれる。その様子を表わしている。つまり、それだけたくさんの恵みを我々に与えて下さるという比喩である。

我々は、浅はかで、人を愛せず、赦せない。使徒パウロの言葉を借りると「土の器」である。だが、この小さな器の小さな信仰者の「小さな升」の中に、神は恵みと祝福を「ギュウギュウに」たくさん入れてくれる方なのだ。何とかして、揺すり、空間を作り、押し込み、溢れてしまうほどに祝福をねじ込んで下さる方。それが神なのだ。我々にとって神の恵みとはそういうものなのだ、とイエスは比喩をもって語っている。

2021.10.31 の週報掲載の説教

2021.10.31 の週報掲載の説教
<2020年5月17日の説教から>

ルカによる福音書6章20節~26節

『貧しい人々は幸いである』
牧師 三輪地塩

平地の説教と言われるこの箇所、イエスは開口一番、「貧しい人々は」と語られる。この言葉は重要である。それは、マタイ福音書の「山上の説教(5~7章)」と比べると良くわかる。マタイでは「心の貧しい人々」とあり、貧しさを「心」に限定しているのに対し、ルカでは、「貧しい人々」と呼び掛け、「現実の貧しさ」にスポットを当てている。

ギリシャ語の「貧しい人」は「プトーコス」という単語が使われる。プトーコスは「謙遜」「卑下」の意味を含まない「本当の貧しさ」を表す言葉である。プトーコスは「普通の生活ができる貧乏ぶり」や、「借金返済のため何とか遣り繰りしている状態」を含まない、「極めて貧困な状態」「本当の窮乏」を示す言葉である。現在は差別用語であるが、かつてはこれを「乞食」と訳すことも出来た言葉こそが「プトーコス」であった。この言葉で言い換えることが許されるならば、「乞食たちは幸いだ」と言っている。これは非常にインパクトのある言葉となる。「乞食」は差別・侮蔑の意味を含んでいる。その人たちは「幸いだ」という。嫌味で言っているのではない。イエスはこれを真実として語るのである。

すなわち、社会的に差別され、肉体的に飢え、生きることすらままならない、世間的には価値のない者たち、と思われている「プトーコス」「乞食」「貧しい人々」こそが、まさに神の祝福の対象者だと聖書は述べている。神の福音はこれらの者のために与えられていると断言される。貧しいヨセフとマリアのもとで主イエスがお生まれになったのも、ガリラヤの片田舎にいた者たちを弟子として呼び集めたのも、「貧しい者」が「幸いなる者」であることを示している。それは、財産における貧しさのみならず、病気、差別や、徴税人、娼婦、罪人などに至るまで、福音が貧しい者のために語られることを示している。我々は、自らの身に「罪」というどうしようもない「貧しさ」を帯びている。この貧しさを贖われるのが、自ら貧しさの極致を歩まれたキリストに他ならない。

2021.10.24 の週報掲載の説教

2021.10.24 の週報掲載の説教
<2020年5月10日の説教から>

ルカによる福音書6章17節~19節

『何とかしてイエスに触れようとした』
牧師 三輪地塩

「おびただしい群衆」がイエスを囲んでいた。「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」からだ。この言葉は印象的である。「何とかして」という語は、ギリシャ語原文にはない。直訳では「イエスに触れようと求め続けていた」となる。しかしこの「何とかして」という言葉は、実にしっくりくる良い翻訳である。「触れようと努めた」というのではなく「何とかしてイエスに触れようとした」という方が、群衆の思いがよく表われているからだ。

「おびただしい群衆」「混み合った群衆たち」はルカ8章の12年間の長血の女性の話を思い起こさせる。群衆をかき分け、イエスの服の房にでも触れる事が出来れば、この長血が癒やされるに違いないと信じ、「何とかしてイエスに触れようとして」こっそり後ろから近寄ったのだった。イエスはこの事に目を留め、「あなたの信仰があなたを救った」、と宣言し、彼女は癒された。また、徴税人ザアカイ(19章)も同じく「群衆にさえぎられて」イエスが見えなかったと言われているが、木に登ってイエスに相まみえた。

長血の女性もザアカイも、当時のユダヤ人社会においては、両者とも「罪人」であったということが重要である。ユダヤ人から税金を多く取り立てていた文字通りの罪人ザアカイと、ユダヤ法によって「罪人」という「レッテルを貼られた、長血の女性である。彼等の側から近づき、何とかしてイエスに触れよう、御言葉に聞こうとしたのは、大変に意義深いことである。「神に近づく」のはユダヤ教の宗教性から言うと、あり得ないことだった。神に近づく(神殿の中に入る)ことが出来るのは大祭司のみであった。特に、エルサレム神殿の中には奥に「至聖所」という特別室があり、ここに神の律法の石板(十戒)が安置されていたという。ユダヤ法で特別に認められた者だけであり、ライセンスが必要だった。神は遠い方だった。だが我々は、この神への近づきが「イエス・キリスト」において許されている。受肉されたキリストは、「われらと共にいまし給う神」

インマヌエルであり給うのだ。