2022.1.1.30 の週報掲載の説教

2022.1.1.30 の週報掲載の説教
<2020年8月9日の説教から>
『光が見えるように』(平和記念礼拝)
ルカによる福音書8章16節~18節

牧師 三輪地塩

イエスは「種蒔きの譬え」を語った後、18節で「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」と述べる。

例えば、テレビで落語や漫才などを観て、ただ笑っているだけなら簡単なのだが、「同じ事をやってみなさい」と言われたら、一語一句聞き漏らさないように、そのタイミング、話の間など、細かな事まで一生懸命に聞き逃さないようにしなければ、同じことなど出来ないだろう。ただ単純に笑って聞いていた聞き方ではない、「全く違った聞き方」になるはずである。

かくいう筆者も、神学生時代に初めて説教演習を行う際、何をどうやって話せば良いのか分からず、稚拙で深みのない説教原稿を書いたことを思い出す。「聞く」とは完全な受動であるが、「語る」という能動的な「聞く」であるべきだ、とイエスは言っているのだろうと思う。「どう聞くべきか注意しなさい」の言葉は、まさに説教を聞く礼拝者・聴衆たちへの問い掛けである。

ルカ福音書は次に「持っている人は更に与えられる」というイエスの言葉を伝えている。フィリピ書3章12節の使徒パウロの言葉が共鳴する。「私は既に、それを得たというわけではなく、既に完全なものとなっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟達、私自身は既に捕らえたと思っていません。成すべき事はただ一つ、後ろのものを忘れ、前にものに全身を向けつつ、~~目標を目指してひたすら走ることです」

我々の信仰は「これで終わり」ということはない。いつまでも聞き続け、求め続けていく信仰である。御言葉をどう聞き、どう公に表していくか。それが重要である。また御言葉は、ひとたび聞かれると、それが心の内に密かに留まっている事はありえないとも述べられている(「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」)

平和記念礼拝において、我々は「平和」を願う。平和とは、形而上学的で概念的な理想論ではない。具体的に行動として表われる最善の結果である。そのために我々は、御言葉をどう聞き、どう公にするのか。信仰者の重要な務めである。