<2019年4月28日の説教から>
マルコによる福音書15章1節-15節
『イエスとバラバ』
三輪 地塩
2020年を新しい思いで迎えようとしている我々に「犯罪者バラバ」の箇所が示された。明けましておめでとうと言えない「バラバ釈放」について聖書は語る。
ピラトは、毎年ユダヤの慣習となっている「過越祭の恩赦」について民衆に「誰を釈放して欲しいかと」問うた。当時牢獄に入っていた者の一人に「バラバ」という男がおり、彼は政治犯であった。群衆は彼を釈放しろと要求する。もっと正確に言うならば「祭司長たちは、群衆を煽動し、イエスではなく「バラバを釈放せよ」と言わせた」のであった。
その結果釈放されたのはバラバであった。ピラトはイエスを群衆に示し、「この男が一体どんな悪事を働いたというのか」と問うも、群衆は取り合わず「イエスを十字架につけろ」「バラバを釈放せよ」と騒ぎ立てるのであった。ピラトは、これ以上群衆に騒がれてしまうと、混乱をきたすと考えたのだろう、祭司長たちの要求通りイエスを鞭で打ち、十字架の準備をするのである。
この箇所で重要なのは、10節「祭司長たちは、ねたみのためにイエスを引き渡した」ということにある。彼らの妬みの原因は「イエスが真実な人物であったから」である。祭司長たちは人一倍権威欲と名誉欲があり、誰からも尊敬されて一目置かれたいという欲を持っていたと思われる。だが自分たちにではなく、イエスに大勢の人たちが従った。イエスが、神の真実を語れば語るほど、人々は励まされ、神の言葉の恵みに気づいていく。しかし反比例するように、祭司長たちの権威は失われ、焦り、妬みを膨らませていくのである。イエスを排除しようとする彼らの企みと、その権力を持つ彼らは、民衆を煽動し、焚きつけ、イエスを悪人に仕立てて行こうとする。民衆はまんまと乗せられてしまう、無思慮な群衆の行動が、「十字架につけろ」「十字架につけろ」と繰り返される言葉で表現されている。心が痛くなる場面である。
我々の国はどうだろうか。我々の住んでいる町はどうだろうか。新しい年を迎え、われわれ民衆が無思慮であることを肝に銘じつつ、しかしキリストの福音と共に、「鳩のような素直さと、蛇のような賢さ」(マタイ10:16)によって、為政者に煽動されることなく、思慮深く歩む一年でありたい。
2019.12.29 週報掲載の説教
<2019年4月14日の説教から>
『イエスを三度知らないという』
マルコによる福音書14章66節~72節
牧師 三輪地塩
この箇所は、レントや受難週の時期になると、何度も読む機会があるため、教会に長く来ている方々は、そらんじる事も出来るほど聞いてきただろう。弟子ペトロが、大祭司の邸宅の庭で、イエスとの関係を三度否定したのであるが、その理由は「周りが敵だらけの中、イエスとの関係を肯定してしまうと、自分の命が危うかったから」、つまり「恐怖が彼を否定させた」と解釈されうる。だが、ヨハネ福音書18章15節以下には、「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は~~」と書かれており、イエスの「もう一人の弟子」と言われる人物が大祭司カイアファと知り合いであったことが示される。そうであるならば、この「三度の否認」は「命の危険」によるものではなく、他の蓋然性の高い理由を考えるならば「恥ずかしかったから否認した」ということにでもなり得るだろうか。遠藤周作の『沈黙』のテーマにもなるが、(踏絵の)キリストは、命の危険を押して殉教の道を行こうとする宣教師に対し「わたしを踏め」と迫る。このことについての信仰的判断については当該の小説に譲ることとして、もしペトロに命の危険が生じていなかったとすれば、情状酌量の余地はなくなる。ペトロは思ったのかもしれない。「今、目の前で裁かれようとしている、この犯罪者(とされている)、イエスの仲間であると思われるのは恥ずかしい」と。或いは「ガリラヤの片田舎から出てきたおのぼりさんが、意気揚々とエルサレムに入城してきたが、今や見る影もなく弱々しく、惨めに立たされ、尋問されている、あの人の仲間であると見られることが「恥ずかしい」と。少々極端な言い方をするならば、ここで起こっている出来事は、キリシタンの「踏み絵」のような信仰の戦いではなく、「クリスチャンであることを友人やご近所さんに隠そうとしてしまう、私たちの心の中の「それ」なのである。ペトロの三度の否認は、ペトロの「高尚な信仰の戦い」ではない。私たちの「日常に溢れている信仰者の内的な戦い」なのである。
『イエスを三度知らないという』
マルコによる福音書14章66節~72節
牧師 三輪地塩
この箇所は、レントや受難週の時期になると、何度も読む機会があるため、教会に長く来ている方々は、そらんじる事も出来るほど聞いてきただろう。弟子ペトロが、大祭司の邸宅の庭で、イエスとの関係を三度否定したのであるが、その理由は「周りが敵だらけの中、イエスとの関係を肯定してしまうと、自分の命が危うかったから」、つまり「恐怖が彼を否定させた」と解釈されうる。だが、ヨハネ福音書18章15節以下には、「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は~~」と書かれており、イエスの「もう一人の弟子」と言われる人物が大祭司カイアファと知り合いであったことが示される。そうであるならば、この「三度の否認」は「命の危険」によるものではなく、他の蓋然性の高い理由を考えるならば「恥ずかしかったから否認した」ということにでもなり得るだろうか。遠藤周作の『沈黙』のテーマにもなるが、(踏絵の)キリストは、命の危険を押して殉教の道を行こうとする宣教師に対し「わたしを踏め」と迫る。このことについての信仰的判断については当該の小説に譲ることとして、もしペトロに命の危険が生じていなかったとすれば、情状酌量の余地はなくなる。ペトロは思ったのかもしれない。「今、目の前で裁かれようとしている、この犯罪者(とされている)、イエスの仲間であると思われるのは恥ずかしい」と。或いは「ガリラヤの片田舎から出てきたおのぼりさんが、意気揚々とエルサレムに入城してきたが、今や見る影もなく弱々しく、惨めに立たされ、尋問されている、あの人の仲間であると見られることが「恥ずかしい」と。少々極端な言い方をするならば、ここで起こっている出来事は、キリシタンの「踏み絵」のような信仰の戦いではなく、「クリスチャンであることを友人やご近所さんに隠そうとしてしまう、私たちの心の中の「それ」なのである。ペトロの三度の否認は、ペトロの「高尚な信仰の戦い」ではない。私たちの「日常に溢れている信仰者の内的な戦い」なのである。
2019.12.15 週報掲載の説教
<2019年4月7日説教から>
『イエスの裁判』
マルコによる福音書14章53節~65節
牧師 三輪地塩
イエスの活動は、律法学者たちの反感を買った。イエスが神の律法に違反しいるように、律法学者たちの目に映ったからである。しかしイエスは彼らの間違いを臆することなく追求した。
主イエスは、彼らとことなり、律法を文字どおりにではなく、律法の「文字」にではなく、「守るべき内容の意味」を大切にしようとされた。イエスは、神から与えられた律法の意味は「愛すること」であると再解釈したのであった。「神を愛し、隣人を愛する」ことこそが「最も重要な掟である」とイエスは述べた。
また、当時は罪人と見做されていた病人や障がい者たちを次々に癒やした。困っているからでも、不自由そうだからでもない。それは救いの副産物であり、最も重要なのは、魂の救い、永遠の命をうけること、にあった。「この人をもう誰も罪に問うことのないように」と語り、体の癒やしはその証拠となって表出した現象であった。
律法によって「罪人」と見做された者たち、社会の中で疎外されている者たちを、共に同じ食卓に呼び寄せ、主にある交わりに加えた。人間は特定の人だけが罪深い者であるのではなく、格差も価値の差もなく、皆が罪深く、皆が救いに値することを示す行為であった。しかしこのような行動は、律法学者には受入れがたく、そこに「殺意」が芽生えたのであった。
過越祭になり、イエスがエルサレムに入城した時、神殿を訪れたイエスは、境内で不当な商売がなされている様子と、それを許可している祭司・律法学者たちの姿を見て、「ここは強盗の巣だ。あなたがたが祈りの家を強盗の巣にしてしまった」と非難し、商売人たちの台をひっくり返した。これこそが、祭司長たちの目に「神殿への暴挙」「神に対する冒涜」と映り、十字架刑への道を決定的とした。表面的な「律法の遵守」を求めた律法学者に対し、その内実(つまり神の愛の豊かさ)を求めたイエスは、「文字を」遵守する者たちに十字架にかけられた。それは、「神の言」(ヨハネ福音書1章)が、「文字信奉者」によって極刑に処されることであった。だが我々は、神の「文字」ではなく「神の言」が真実であり、その言葉が、「愛の言葉」であることを知っている。クリスマスを迎える我々は、この「神の言」が来られたことの意味と、神の救いの内実に思いを寄せたい。
『イエスの裁判』
マルコによる福音書14章53節~65節
牧師 三輪地塩
イエスの活動は、律法学者たちの反感を買った。イエスが神の律法に違反しいるように、律法学者たちの目に映ったからである。しかしイエスは彼らの間違いを臆することなく追求した。
主イエスは、彼らとことなり、律法を文字どおりにではなく、律法の「文字」にではなく、「守るべき内容の意味」を大切にしようとされた。イエスは、神から与えられた律法の意味は「愛すること」であると再解釈したのであった。「神を愛し、隣人を愛する」ことこそが「最も重要な掟である」とイエスは述べた。
また、当時は罪人と見做されていた病人や障がい者たちを次々に癒やした。困っているからでも、不自由そうだからでもない。それは救いの副産物であり、最も重要なのは、魂の救い、永遠の命をうけること、にあった。「この人をもう誰も罪に問うことのないように」と語り、体の癒やしはその証拠となって表出した現象であった。
律法によって「罪人」と見做された者たち、社会の中で疎外されている者たちを、共に同じ食卓に呼び寄せ、主にある交わりに加えた。人間は特定の人だけが罪深い者であるのではなく、格差も価値の差もなく、皆が罪深く、皆が救いに値することを示す行為であった。しかしこのような行動は、律法学者には受入れがたく、そこに「殺意」が芽生えたのであった。
過越祭になり、イエスがエルサレムに入城した時、神殿を訪れたイエスは、境内で不当な商売がなされている様子と、それを許可している祭司・律法学者たちの姿を見て、「ここは強盗の巣だ。あなたがたが祈りの家を強盗の巣にしてしまった」と非難し、商売人たちの台をひっくり返した。これこそが、祭司長たちの目に「神殿への暴挙」「神に対する冒涜」と映り、十字架刑への道を決定的とした。表面的な「律法の遵守」を求めた律法学者に対し、その内実(つまり神の愛の豊かさ)を求めたイエスは、「文字を」遵守する者たちに十字架にかけられた。それは、「神の言」(ヨハネ福音書1章)が、「文字信奉者」によって極刑に処されることであった。だが我々は、神の「文字」ではなく「神の言」が真実であり、その言葉が、「愛の言葉」であることを知っている。クリスマスを迎える我々は、この「神の言」が来られたことの意味と、神の救いの内実に思いを寄せたい。
2019.12.1 週報掲載の説教
<2019年3月31日の説教から>
『ユダに裏切られ、イエス逮捕される』
マルコによる福音書14章43節~52節
牧師 三輪地塩
「たとえ、ご一緒に死なねばならなくても、あなたのことを知らないとは決して申しません」というペトロの力強い約束は、気の利いたおべっかになってしまった。この箇所は、「ユダの裏切り」であると共に「ペトロの裏切り」でもあり、「弟子たち全員の裏切り」でもある。
この箇所の最後51‐52節には、更に逃げる者がいた。この人物は、「裸で逃げ去る」という不思議な逃げ方をしている。聖書解釈者たちによって、この人は「ヨハネ」「ヤコブ」あるいはこの聖書記者である「マルコ本人」などと考えられてきた。だが、我々はこの記事が語り、問いかけらているのが、「人間の弱さと罪」であることに気づくべきであろう。困難やパニックに陥ってしまうと、人は自分を優先して神を捨てる。「裸」であることは、この人が、何よりも一目散に逃げていることを示している。更に、この人がキリストのもとから離れたことによって「もう何も残されていない」ことを表している。新約学者アドルフ・シュラッターはこの箇所を、「マルコ自身の信仰告白であると同時に、我々の信仰告白でもある」と語る。我々は身の危険を感じて逃げる者たちである。昨日まで「何があっても主に従う」と約束していても、状況が変われば人間の意志などひとたまりもない。恥ずかしさや見苦しさをそっちのけで、とにかく神から逃げるのである。
キリストの十字架の贖いは、この逃げた弟子、逃げた我々のためにある。神を捨てる弱さをはらむ我々の罪こそが、主イエスを十字架にかけたのだ。キリストはただ一人、置いて行かれても尚、神の示す道を進んだ。罪びとを救う道を歩まれた。逃げた者のために、逃げない神の子が、痛みと苦しみを、死に至るまで受けたのである。
『ユダに裏切られ、イエス逮捕される』
マルコによる福音書14章43節~52節
牧師 三輪地塩
「たとえ、ご一緒に死なねばならなくても、あなたのことを知らないとは決して申しません」というペトロの力強い約束は、気の利いたおべっかになってしまった。この箇所は、「ユダの裏切り」であると共に「ペトロの裏切り」でもあり、「弟子たち全員の裏切り」でもある。
この箇所の最後51‐52節には、更に逃げる者がいた。この人物は、「裸で逃げ去る」という不思議な逃げ方をしている。聖書解釈者たちによって、この人は「ヨハネ」「ヤコブ」あるいはこの聖書記者である「マルコ本人」などと考えられてきた。だが、我々はこの記事が語り、問いかけらているのが、「人間の弱さと罪」であることに気づくべきであろう。困難やパニックに陥ってしまうと、人は自分を優先して神を捨てる。「裸」であることは、この人が、何よりも一目散に逃げていることを示している。更に、この人がキリストのもとから離れたことによって「もう何も残されていない」ことを表している。新約学者アドルフ・シュラッターはこの箇所を、「マルコ自身の信仰告白であると同時に、我々の信仰告白でもある」と語る。我々は身の危険を感じて逃げる者たちである。昨日まで「何があっても主に従う」と約束していても、状況が変われば人間の意志などひとたまりもない。恥ずかしさや見苦しさをそっちのけで、とにかく神から逃げるのである。
キリストの十字架の贖いは、この逃げた弟子、逃げた我々のためにある。神を捨てる弱さをはらむ我々の罪こそが、主イエスを十字架にかけたのだ。キリストはただ一人、置いて行かれても尚、神の示す道を進んだ。罪びとを救う道を歩まれた。逃げた者のために、逃げない神の子が、痛みと苦しみを、死に至るまで受けたのである。
2019.11.24 週報掲載の説教
<2019年3月24日の説教から>
「ゲッセマネの祈り」
マルコによる福音書14章32節~42節
牧師 三輪地塩
「イエスはひどく恐れて悶えはじめ、彼らに言われた。私は死ぬばかりに悲しい」(33節)。神の子メシアのイメージからかけ離れた、弱々しく、恐怖に怯える姿である。この真の神は、真の人でもあられた。「主、我らと共に居まし給う」キリストは、自ら痛み、嘆き、苦しむ仲保者であられる。「この杯をわたしから取りのけてください」(36節)と祈る、「苦しまれる神」なのだ。
14章26節に「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」とある。ここで歌っていたのは、過越祭で歌われることの多かった「詩編113編~118編」と言われる。「エジプト・ハレル詩編」というシリーズである。イエス一行は特に113編5~9節を歌っていたのではないかと思われる。次のような詩である。
「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地を御覧になる。弱い者を ちりの中から起こし、乏しい者をあくたの中から高く上げ、自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返してくださる。子のない女を家に返し、子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」
(詩編113:5~9)
この113編には「低く降って」という言葉が使われる。特に「神が身を低くする」という使い方は、旧約聖書中113編にしか出て来ない。この詩編によると、主が自ら身を低くされる目的は
①「弱い者をちりから「起こす」ため」
②「貧しい者をあくたから「引き上げる」ため」
③「主にその「王座に着かせる」ため」
と述べられる。ここから「卑賤のキリスト」「へりくだったキリスト」が想起される。我々が弱さの中から起こされ、貧しさの中から引き上げられるため、そしてキリストご自身が、その低められた究極の中にあって、神の王座に着くためであることが予期される。これこそが、我々に与えられた復活の命の希望である。
「ゲッセマネの祈り」
マルコによる福音書14章32節~42節
牧師 三輪地塩
「イエスはひどく恐れて悶えはじめ、彼らに言われた。私は死ぬばかりに悲しい」(33節)。神の子メシアのイメージからかけ離れた、弱々しく、恐怖に怯える姿である。この真の神は、真の人でもあられた。「主、我らと共に居まし給う」キリストは、自ら痛み、嘆き、苦しむ仲保者であられる。「この杯をわたしから取りのけてください」(36節)と祈る、「苦しまれる神」なのだ。
14章26節に「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」とある。ここで歌っていたのは、過越祭で歌われることの多かった「詩編113編~118編」と言われる。「エジプト・ハレル詩編」というシリーズである。イエス一行は特に113編5~9節を歌っていたのではないかと思われる。次のような詩である。
「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地を御覧になる。弱い者を ちりの中から起こし、乏しい者をあくたの中から高く上げ、自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返してくださる。子のない女を家に返し、子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」
(詩編113:5~9)
この113編には「低く降って」という言葉が使われる。特に「神が身を低くする」という使い方は、旧約聖書中113編にしか出て来ない。この詩編によると、主が自ら身を低くされる目的は
①「弱い者をちりから「起こす」ため」
②「貧しい者をあくたから「引き上げる」ため」
③「主にその「王座に着かせる」ため」
と述べられる。ここから「卑賤のキリスト」「へりくだったキリスト」が想起される。我々が弱さの中から起こされ、貧しさの中から引き上げられるため、そしてキリストご自身が、その低められた究極の中にあって、神の王座に着くためであることが予期される。これこそが、我々に与えられた復活の命の希望である。
2019.11.17 週報掲載の説教
<2019年3月17日説教から>
『あなたのことを知らないとは申しません』
マルコによる福音書14章27節~31節
牧師 三輪地塩
イエスはさまざまな奇跡の業を行いながら宣教活動を行ってきた。弟子たちは、その奇跡を間近で見ることによって、自らの経験としたのであった。だが、その経験が、かえって弟子たちの落とし穴になった。彼らは、イエスの救いの業を、自らの力で成し遂げたかのような錯覚に陥っていた。
例えば、アクション映画を見た後に、自分がヒーローになったかのように気持ちが高揚するし、苦難を乗り越える小説を読み終えた後には達成感を抱いてしまう。このときの弟子たちは、「イエスの宣教の主人公」になってしまっていた。
その「勘違い」が明らかとなったのが、イエスの言葉に対する彼らの応答に示される。イエスは自らの逮捕を予告し、あなたたち(弟子たち)は私(イエス)から逃げていくだろう、と伝えた。これに対し、勘違いを起こしている弟子たちは、次のように答える。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。このように、イエスの予告を否定し、自らの「意思の強さ」を強調したのだった。それは答えたペトロのみならず、他の弟子たち全員の思いの代弁であった。
ここに示されるのは、「人間の過信」である。どんなにイエスと共に歩んでいても、イエスの奇跡を間近で見たとしても、我々人間が、神になることなど出来ないのだ。このペトロの言葉は、あたかも「人間には、何でもできる」と語っているかのようだ。我々人間は高を括ってはならない。我々はそれほど強くはないのだ。
だが、ここには人間の絶望が書かれているのではない。確かに人間の罪のみを見ると「絶望」しかないのかもしれない。だが、ここに希望に照らされた言葉がある。28節「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。この言葉である。復活の時に語られた天の使いたちの言葉が先取りされている。罪ある我々に、イエスは復活して再会してくださるという祝福の約束である。この後、イエスの逮捕と同時に一目散に逃げてしまう弟子たちに、イエスは「あなた方より先に」、つまり、キリストの恵みが我々に「先行して」待っている――救いは用意されている、と語るのである。
『あなたのことを知らないとは申しません』
マルコによる福音書14章27節~31節
牧師 三輪地塩
イエスはさまざまな奇跡の業を行いながら宣教活動を行ってきた。弟子たちは、その奇跡を間近で見ることによって、自らの経験としたのであった。だが、その経験が、かえって弟子たちの落とし穴になった。彼らは、イエスの救いの業を、自らの力で成し遂げたかのような錯覚に陥っていた。
例えば、アクション映画を見た後に、自分がヒーローになったかのように気持ちが高揚するし、苦難を乗り越える小説を読み終えた後には達成感を抱いてしまう。このときの弟子たちは、「イエスの宣教の主人公」になってしまっていた。
その「勘違い」が明らかとなったのが、イエスの言葉に対する彼らの応答に示される。イエスは自らの逮捕を予告し、あなたたち(弟子たち)は私(イエス)から逃げていくだろう、と伝えた。これに対し、勘違いを起こしている弟子たちは、次のように答える。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。このように、イエスの予告を否定し、自らの「意思の強さ」を強調したのだった。それは答えたペトロのみならず、他の弟子たち全員の思いの代弁であった。
ここに示されるのは、「人間の過信」である。どんなにイエスと共に歩んでいても、イエスの奇跡を間近で見たとしても、我々人間が、神になることなど出来ないのだ。このペトロの言葉は、あたかも「人間には、何でもできる」と語っているかのようだ。我々人間は高を括ってはならない。我々はそれほど強くはないのだ。
だが、ここには人間の絶望が書かれているのではない。確かに人間の罪のみを見ると「絶望」しかないのかもしれない。だが、ここに希望に照らされた言葉がある。28節「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。この言葉である。復活の時に語られた天の使いたちの言葉が先取りされている。罪ある我々に、イエスは復活して再会してくださるという祝福の約束である。この後、イエスの逮捕と同時に一目散に逃げてしまう弟子たちに、イエスは「あなた方より先に」、つまり、キリストの恵みが我々に「先行して」待っている――救いは用意されている、と語るのである。