2017.05.21の説教から

2017.09.10週報 掲載
            
       521日の説教から>
       
    『たとえ口実であったとしても』
    
          フィリピの信徒への手紙112節~18
                           牧師 三輪地塩
     
       「不純な動機」とは原語で「党派争い」を示す言葉であ
     る。恐らくパウロは、党派争いをしたがる教会員たちに
     を焼いていたのだろう。教会の一員でありながら自分勝手
     に振る舞う者やパウロから敵対する者たちがいたのであ
     る。だがパウロはこのような状況さえも前向きに捉え「福
     音の前進」の観点から語る。「だが、それがなんであろう。
     口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知ら
     されているのですから、わたしはそれを喜んでいます。こ
     れからも喜びます」と。例えそれが「表面的」に見えた
     としても、そこにキリストがおられ、キリストの名が語ら
     れ、キリストが何らの形で中心とされるのなら、それを喜
     ぼうではないかということである
      
      卑近な例であるが、スポーツやレクリエーションなどの
     企画を「教会行事」として行った場合、少なからず聞こえ
     てくるのは「それは教会の中心的な事柄か」という批判や、
     「楽しさを求めるのは教会の使命ではない」というお叱り
     の声である。確かにそれらは教会の「中心的な働き」では
     ないかもしれない。だが、キリスト(教会)をアクセスポ
     イントとして「集う」のであれば、そこには集まる意味が
     ある。「口実であれ、真実であれ、とにかくキリストが告
     げ知らされる」場所となり得るのだ。
       trong>
      今月16日~18日、「全国青年の集い」が予定されてい
     る。「集い」の委員たちは「とにかく楽しく集まること」
     をメインに企画し、難しい勉強会や偉い講師先生のお話し
     を聞くというありきたりの修養会であることを避けた。
     「学びがない」との批判があるかもしれないが、我々はそ
     の喜びと楽しさに溢れた場所にこそ、キリストが立ち給う
     ことを信じつつ、良い集いになることを祈りたい。
  

2017.05.14の説教から

514日の説教から>
『知る力と見抜く力』
    フィリピの信徒への手紙13節~11
                牧師 三輪地塩
 
「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」
 
パウロは感謝と共にフィリピ書を語り出す。だが、いくら良い関係が築かれていたとしても何らかの問題を抱えているはずである。実際フィリピ教会は幾つかの問題を抱えていた。フィリピ教会は我々の教会と同じく「完成しつつある過渡期にある教会」なのであった。
 
パウロはこの時、恐らく肉体的に弱っていたと思われる。ここには「監禁されているときも・・・」とある通り、彼はエフェソでローマの官憲に拘束され、牢に入れられていたと考えられている。「福音を弁明し立証する」というのは、裁判や尋問を受けたことを示唆している。このときパウロは苦しく、体の痛みを覚えていた。心も痛み、憂鬱だった。だがそのパウロは「私の神に感謝し」と、「神への感謝」を述べている。
 
我々は人間的な思いではなかなか感謝できない者たちだ。聖書は「感謝」を「信仰の出来事」と捉えている。「真の感謝」は、「神を讃美すること」であり「神を告白すること」でもある。我々が利益を受けたから感謝し、不利益を受けたから感謝しない、という次元ではない。感謝は「人間同士の事柄」に留まらず、神を告白し、神を讃美する、という意味を含んでいる。神への感謝は、自分の気分次第で行うものではなく、神への信仰告白としての感謝、讃美としての感謝が成立するのである。
 
それは礼拝の出来事に繋がっている。礼拝は、御言葉の語られるところであると同時に「讃美する場所」であり、「信仰告白する場所」である。そこには神への感謝が捧げられるのである。具体的な捧げ物や、祈りとして感謝が捧げられる。絶えず神をほめたたえる生活。それこそが感謝の生活である。パウロが苦境に立たされても感謝できたのはそのためである。神を礼拝し、神への信仰を表す事から、私たちの神への感謝の生活が始まる。
 
 
 

2017.04.23の説教から

  

  

    <423日の説教から>

    『わたしを愛しているか』

ヨハネによる福音書2115節~19

            牧師 三輪地塩

エスはペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とペトロが言うと、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と言った。この質問と応答は3度繰り返される。

 

サムエル記上3章では、祭司エリのもとに居たサムエルが、主に3度呼ばれ、4度目に主の呼び掛けである事に気付く。神から特別な務めが与えられる召命の場面として語られる。だがイエスとペトロとの3度のやり取りは、召命を受けている場面のように感じない。何故ならペトロが「悲しくなった」と言われているからである。「そんなに同じことを何度も聞かなくてもいいのに・・・。という思いになっているように読み取る事も出来る。

 子供の時分、親から「宿題やったの?明日の準備はしたの?」とクドクド言われ、何と信頼されていないのか、と悲しくなった経験を持つ人も少なくないと思う。「出来ていない自分」に気付かされ、それを何度も指摘されるからこそ「悲しむ」のである。ペトロもそうなのかもしれない。

 だが、ここでの3度の問い掛けは、単に「本当にわたしを愛しているのか?本当なのか?」、という念押しではなく、まして、ペトロを信用していないから尋ねているのでもない。ここにはペトロの三度の否みの出来事が想起される。ペトロは十字架の前日、大祭司邸の庭でイエスとの関係を否定し、「違う」「知らない」「聞いたこともない」と、否定に否定を重ねたのであった。

 しかし、復活の主イエスは、3度拒否したペトロに対し、3度愛の確認をしている。これはペトロの犯した罪に対する挽回の機会とも言える。彼は汚名返上の機会を与えられ、「違う」「知らない」「そんな人は聞いたこともない」という拒否の言葉自体を「主を愛する」という3度の言葉で打ち消しているようである。

 罪深かったペトロが、もう一度主を愛する者とされる「回復の出来事」がここにある。我々は回復されるのだ。罪を犯した事は残る。だが「赦された者」と「見做されて生きることが出来る」それこそがキリストの福音である 

2017.04.02の説教から

  
  <42日の説教から>
                    153匹の大きな魚
            ヨハネによる福音書21114
                                           牧師 三輪地塩
 
子たちは、舟に乗り、夜通し漁をしても何も収穫がなかった。だが岸の方から誰か分からない声が聞こえ、その言葉に従ったとき、彼らの持っていた網はいっぱいになった。もはや網を引き揚げることすら出来ないほどの大漁となったのである。その声の主は、復活のキリストであった。
 この物語が意味するのは、キリストと共にあなた方は歩んでいるか、を問うのである。人間の力だけで何かを成し遂げようと湖に繰り出しても、何も獲れず、何も起こらなかった。だがそこに主イエスが、――主イエスの復活の命、神の御言葉――が共にあるとき、我々の生涯は豊かに溢れ、引き上げることが出来ないほど網に一杯に満ちるのだ、と聖書は言う。
 「153匹」という数字は、様々な解釈がなされるが、エゼキエル書47章との関わりで読むべきであろうと思う。
 エゼキエル479節~10節には「川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水が、きれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる」とある。この「エン・エグライム」という地名のアルファベットを数字化すると「153」となる。すなわち、キリストが共にあるところに、命があり、その場所でこそ、全ての者が生き返る場所をなりうる、という事が言われているのである。
 キリストこそが命であり、泉である。我々は、キリストと共に居るかという事をいつも問われている。その問い掛けに答えるべくして歩みたいと切に願うものである。

2017.03.26の説教から 『わたしは決して信じない』

  <326日の説教から>
 『わたしは決して信じない』
       ヨハネによる福音書202431
                              牧師 三輪地塩
 
代社会は、五感と体感で「知る」事を大事にする世界である。「実体」がなければ、「存在しない」と見做される時代。それが実証主義のこの世である。
 
復活のイエスに出会う前のトマスは、まさに我々の写し鏡のようである。疑い深く、実証主義的に、イエスの復活を「五感で知ろう」とする。だがイエスが現れた。その時既に五感を超えて「私の主、私の神よ」と信仰を告白した。
 
 他の弟子たちもトマスとは異なる疑い、つまり世間に対して疑心暗鬼になっていた、彼らは怖がって家の戸に鍵をかけ、ひっそりと隠れて過ごしていたのである。当然我々も同じような状況に立たされる事がしばしば起こる。「恐れて」「自分に鍵をかける」のだ。どんなに明るく、前向きな性格であっても、「恐れて自分自身に鍵をかける」事は、起こりうるのである。「周囲からの疎外感を理由に」「人の目を気にして」「誰とも接触したくない思いから」、我々はあらゆる場面で自らの心に鍵をかけるのだ。そう、我々の心は極めて閉鎖的なのである。
 
けれども聖書は、「それで良い」と語る。なぜなら自分の殻に閉じこもった弟子たちの「真ん中に」主は立ち給うからだ。「あなたに平和が(シャーロームが)あるように」と、鍵を閉めて嘆き悲しんでいる彼ら(そして我々の!)間に、立ち給う。我々は何も恐れる事は無い。主が来られる事をただ待ち望みたい。
 
 パスカルという宗教思想家は次のように言った。
「『奇跡を見たら、私の信仰は強められるであろうに』と人は言う。人がそう言うのは、奇跡を見ないときである。……ところが、そこに達すると、さらにその先を眺めようとする。何ものも、我々の精神の回転を止める事はできない」
 
つまり、人間という生き物は、「奇跡を見れば信じられる」と言うけれども、もし本当に奇跡を見たとしても、「それは手品ではないのか」「カラクリや仕掛けがあるに違いない」、などと言って、それを疑う心が新たに起こってくるだけなのだ」と。確かにパスカルの言う通りだと思う。
 
 だが主イエスは、このような疑い深い我々に対し、御自分の側から近づき、ご自分の復活を見せて下さる。我々からではなく、主が我々に近づいて下さる。我々は、その近づかれる主を受け入れ、信じるだけである。

2017年3月19日の説教から

 <319日の説教から>
            Ερήνηשָׁלוֹם
     ヨハネによる福音書201923
                     牧師 三輪地塩
 
  復活の主イエスが弟子たちの真ん中に立ち「あなたがた
 に平和があるように」と話しかけられた場面である。
 聖書はこの時の「平和」という言葉を「Ερήνη」(エイ
 レーネー)と記している。ギリシャ語のΕρήνηは、「民
 族や国家間の調和」や「心の平穏」を意味する。だがここ
 でイエスは、ギリシャ語ではなく、ヘブル語で(厳密に
 はアラム語で)そう言われたのである。それこそが「שָׁלוֹם
 (シャーローム)という言葉である。
  
  「シャーローム」は挨拶にも使う語であり「こんにちは」
 「さようなら」でも用いる。ここで考えたいのは、Ερήνη
 とשָׁלוֹםが同じ「平和」を表すと共に、ある部分におい
 て異なる概念を持っているという事である。
  
   シャーロームは、「שָׁ(Sh・シェン)、「 ל(L・ラメド)
 「ם(M・メム)3文字によって成り立つが、この3つの
  文字によって「健全さ」「完全性」という意味が生まれる。
  そこから「友情」「健やかさ」「健康」「安全」「救い」とい
  う幅広い意味がシャーロームの概念に含まれるのである。
  
   例えば「シャーローム」には「健康と繁栄を含む完全な
  幸福」という意味があるが、それは「神から与えられた賜
  物」としての「健康と繁栄」、つまり「人間が自分の力で手
  に入れ、奪い取った健康と繁栄」ではなく、あくまでも「神
  から与えられた「グッド・ヘルス」」という意味である。
 
   この場面、弟子たちは「部屋の鍵を閉めていた」とある
 ように「心の内の鍵」「心の閉ざし」の中にいた。彼らは   イエスの死と共に「霊的な命を失った」状態にあった。だが
そこにイエスは「シャーローム」という言葉と共に、「友情」「健やかさ」「健康」「安全」「救い」などの多くの意味 を持つこの言葉と共に、――喪失感によって精神さえも病 んでいたかもしれない虚ろな弟子たちの前に――、、主は「シャーローム」と言われ、立たれたのである。そこに「復活」の真の意味が示される。
 
  迫害者から狙われる事を恐れ、息をひそめて逃げ隠れて
 いる弟子たちの真ん中で、主は「シャーローム」と立ち給
 う。単なる「平和の挨拶」ではない。究極的な痛みや苦
 みの中にさえも、主の平和、主の平安、主の救いが共に居
 られることの確信がここにある。マタイ福音書1章の「主
 我らと共に居まし給う」(インマヌエル)とはこの事である。