2017.07.09の説教から

 
 
       79日の説教から>


         『テモテとエパフロディト』


   フィリピの信徒への手紙219節~31


                      牧師 三輪地塩


 パウロは協力者エパフロディトを「一刻も早く送り返さねばならない」と言う。彼が(おそらく)「鬱病」を発症していたからである。そのためエパフロディトはフィリピ教会で評判が悪くなってしまったのだ。「パウロの足手まといになっている」と批判されたのだろう。


 だがパウロは、エパフロディトを温かく迎え入れるようにと促す。「ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています(25節)」とあるが、「帰さねばならない」は「アナグカイオス」という単語であり、「パウロの側で、それを一方的に決定していること」を表す言葉である。つまり「エパフロディトが帰りたいと泣きつくから帰すのではなく、一生懸命私に尽くしてくれたのだから、私の意志によって、(つまり、彼は帰りたくないと言うかもしれないが)、私は彼を帰すのだ」、という、パウロ自身の意思決定として語っているのである。ここにエパフロディトへの配慮を感じさせる。


パウロは、エパフロディトを「彼はわたしの兄弟、協力者、戦友である」と言っているが、「戦友」には「賞賛」の意味が込められる語が使われている。更に「あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました」の「奉仕者」には「レイトゥールゴス」が使われており、これは「礼拝」を意味する語である。つまり祭司の務めを予想させるような重要な任務に当たっていた、という表現をしている。エパフロディトは、恐らくそこまで働いていないと思われるのだが、フィリピ教会が彼を温かく迎え入れるためにはパウロは何だって言うのである。そのようにして、人が人を批判し、非難する要素を消し止め、教会の一致はパウロによって保たれたのである。


 


 
 

2017.07.02の説教から

    <72日の説教から>
         『わたしと一緒に喜びなさい』
        フィリピの信徒への手紙212節~18
                         牧師 三輪地塩
 「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」とパウロは言う。「自分の救い」とは一体何であろうか?これは「救い」が「相対的」な事柄だと言っているのである。人によって痛さや心地良さの感覚が違うように、人によって罪の実感、救いの実感も違ってくる。「私は本当に幸せで救われてるな」と考える人の「救い」と、「自分はどうして救われない人間なんだろう」といつも落ち込んでいる人にとっての「救い」には、それぞれの救いの受け取り方の違いが生じるのだ。
 だが、それで良いのである。信仰者が皆、ポジティブシンキングをしなければならない、とは限らないのだ。ネガティブな人もいるだろうし、能天気な人もいるだろう。だが、それぞれの到達点において、信仰をしっかりと実感する事が重要なのである。
 マタイ福音書25章には「タラントンの譬え」がある。
主人が3人のしもべに、5タラントン(以下5t、21も同じ)、2t、1tを、それぞれ預けて旅に出た、という話である。主人が帰ると、5tのしもべは仕事で増やして10tにした。2tのしもべも、しっかり働いて4tに増やした。だが1tのしもべは「失うのを恐れて」土に埋め、主人に1tを返したのである。主人は、1tのしもべを叱り、預けていた1tを没収したという話である。
 この譬えは「賜物」「救い」「信仰」という事柄が、相対的である事を示す良い譬えである。5tのしもべは優秀な信仰者であり、1tのしもべはダメなしもべである、という事ではない。「神の救い」は数値化されない相対的な事柄である。この譬えの強調点は、5tは5なりの問題を抱え、2tは2なりの問題や課題を抱える。だが「その到達したところに応じて、自らの身の丈に合わせて、それぞれの為すべきことを為しなさい」。これが主イエスの語った「タラントンの譬え」の意味である。
 フィリピ書2章でパウロが語る「自分の救いを達成するように」「何事も、不平や理屈を言わずに行ないなさい」もまた、これと同じ響きを持つ言葉である。
   
しかしタラントンの譬えの強調点は、そうではありません。5タラントンの人の信仰が救いに一番近いのではなく、2タラントンの人は頑張ってもその差を埋められない、というのでもありません。5の人は5の人なりの問題や課題を抱えていて、5の人なりの頑張りがある。2の人は2の人なりに同じく問題・課題を抱えている。その中で自分として、その与えられた物、自分が神様から行ないなさい、と命じられた事を、どれだけ真摯に向き合って行うのか、という事であります。救いは「相対的」なのです。ですから、人の信仰の強さを、いたずらに賞賛したり、あるいは批判したりも出来ないのです。
 
パウロは、「自分の救いを達成するように」と命じ、「そのために」、と彼は続けます。
「何事も、不平や理屈を言わずに行ないなさい」。この言葉に、一気に愕然としてしまいます。一体、何ごとにも不平を言わない人などがこの世にいるでしょうか?理屈をこねた事のない人がいるでしょうか?実にこの言葉は、私たちの信仰心を萎えさせ、燃え上がった熱心さに水をかけるような言葉であります。そして15節を読みながら人は言うのです。ああそうか、不平を言う私は、「とがめられるところのない清い者となり得ず」「非のうちどころのない神の子にもなり得ず」「世にあって星のように輝くことなどできない」のだ、と。
 しかし、この事に対し、ある説明の中で、次のように言われていました。「「不平」とは、外に向かう神への否定であり、「理屈」とは内に向かう神への否定である」と。このように言われて、へんに納得いたしました。つまり、不平を言う事も、理屈をこねることも、「私を弁護しよう」とするだけに留まらず、それを与えた「神を否定するものだ」というのです。
 「不平」と言って思い起こすのは、モーセが出エジプトした時、奴隷の身分であったイスラエル人たちが、「食べ物が無い」「水が無い」「肉鍋を食わせろ」「エジプトではメロンが食べられたのに」と、口々にモーセに文句を言っている場面です。この民衆たちは、明らかにモーセに対して不満をぶつけているのですが、しかし元を正せば、イスラエルを救おうとして荒れ野に連れ出した神に対する不満、という事になります。
 
 私たちは、何か足りない事があったり、モノが無くなったり、満たされなかったり、精神的に参ってしまうと、すぐに動揺し、迷ってしまうのです。信仰を持っていても、その決心は弱ることもあるのです。
 けれども、それは外からの力に自分の身を任せているから生じるのかもしれません。不平不満というのは、自分自身のことがらではなく、むしろ、何か他からの圧力や攻撃に対して、受け身となり、流されてその圧力に屈してしまう時に出てくるのかもしれません。よこしまで、悪どい力が、我々を脅し、威圧しようと、この世で待ち構えているのです。しかし、神の民は、それに耐えて生き延びる事が目的なのではなく、「この世を照らす由のように輝いて」行動したいのです。我々自らが率先して、世に光り輝く者として生きたいのです。つまり、教会は、信仰者は、この世に受け身になりたい気持ちを乗り越え、世の動きに流されて不満を口ばしってしまう気持ちを乗り越えて、世のために生きたキリストに倣って、この世に生きる者として歩みたいのです。
 不平不満を言わない人はいないと思います。しかしここで言われているのは、不平不満を言って、そこで立ち止まり、足踏みをし、そこに居座り、不平不満を言うことで溜飲を下げる、という事であってはならない、ということなのです。
 私たちは「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」と言われています。この世に流されず、キリスト者として主体的に生きる者を「星」に譬えています。これはとても面白い表現です。なぜなら、星はどのような時に輝くかを考えればよく分かるからです。

2017.06.25の説教

  
  
      <625日の説教から>

                    『キリスト讃歌』

              フィリピの信徒への手紙26節~11

                                   牧師 三輪地塩

 ここでは「へりくだる」ことについて述べられている。「何事も利己心や、虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分の事だけでなく、他人の事にも注意を払いなさい」と。日本人の持つ美徳の一つに「謙虚さ」「へりくだり」がある。だが、美徳であると同時に「消極さ」にも繋がってしまうものでもある。フィリピ書が語る「へりくだる」事は、必ずしも「控えめであること」ではない。単に「事を荒立てず」「失う事を恐れ」「何もしない」というのは、信仰においては「へりくだり」とは言わない。

 マタイ福音書25章「タラントンの譬え」はまさに消極さゆえに神に叱責されるという話である。1タラントンの者は、それを失う事を恐れて、土に埋めてしまった。信仰とは、「心の土」に埋没させるものではなく、それを「用いる時に花開き、実を結ぶのだ」とイエスは言う。それを埋没させるならば、その信仰と言う輝かしい財産は全て没収されてしまうのだ。それが「タラントンの譬え」である。

 天の国とはまさにこのようなものである。自分に自信がないことも又その人の個性かもしれない。だが神はあなたに「タラント」と与えている。キリストが十字架に架けられたのは、消極的に命を用いたのではない。神からの使命と、自らの愛の表出としての十字架であった。我々はこのようなへりくだりの信仰を、積極的に歩みたい。

 

 
 

2017.06.18の説教から

 
     <618日の説教から>
                 『互いに謙虚であれ』
             フィリピの信徒への手紙21節~5
                                     牧師 三輪地塩
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」2:1)。ここに「神、御子、聖霊」の三位一体が表わされている。三位一体の神とは「父、御子、聖霊の神が、その存在において孤独ではなく、互いに愛の交わりの中に生きて働かれる神である」ことを意味している。また「神が三位一体の中で、他の何者をも必要とせず、人間の手を借りず、人間の側からのフォローなしに存在し得る神である」という事でもある。「三位一体」という教理は知っているが、自分の信仰生活とはあまり関係ない、と考える人も少なくないかもしれないが、そうではない。神が三位一体の神であることは「神ご自身がそれ自身で成り立ち、他の何者の介在を受けることなく、誰の助けも必要とせずに存在する神である」ということ、つまり「神の主権の中に神が生きており、神の主権の中に我々が生きていること」を信じさせる神なのである。
我々は、国民主権や基本的人権などが確証された国家に生きている。だが国家や共同体は、人間の思惑・利益・思想などによって、如何なる姿にも変容し、変質し、歪曲され、不義が生まれてしまう共同体にもなり得るのである。国民主権など言いながら、国民の生活を管理と監視の目で脅かし、治安維持のためになら何でもしかねない。国家という共同体はその実情では、国民主権ではなく「国家主権」「国家の利益主権」で動くのである。国家にとっては「国家の利益」が「善」であり、そのためには、小さな人間の命や生活権は少々奪われても構わないと考える。それが巨大な構造悪ともなり得る「国家」である。当然権力者が人間である故にミスリードもしばしば起こる。
 しかし、我々の信じる神において、主権者が三位一体なる神であると語りうる時、そこには人間が介在しうる余地は無いのである。神自身が、父・御子・聖霊の働きによってこの世を創造し、この世を愛された。三位一体なる神が主権者であるということは、我々自身が、孤独ではなく、それぞれの価値を否定されず、個々の命を大事に愛される神と共に生きる、ということを示すのである。
 

2017.06.11の説教から

   <611日の説教から>
  『キリストのために苦しむ』
                 フィリピの信徒への手紙127節~30
                                     牧師 三輪地塩
 「福音にふさわしい生活」とパウロは言う。原文では「ポリス」の派生語である。現代的には「市民生活」と訳して良い。つまりパウロはここで「ひたすら福音にふさわしい市民生活をしなさい」と言っている。それは必ずしも「社会運動を積極的に行ないなさい」とは言っていない。尊い事ではあるが「社会運動=福音にふさわしい生活」は、公式としては成り立たない。だが、例えば社会問題になっている「ヘイトスピーチ」という現象の中に、「他者への憎悪」と人間の罪の問題を見出し、そこに福音が語られる事を願い、またそこからキリストの十字架の贖いと罪の赦しが語られようとするならば、その社会運動は、福音から芽生えたものとなるであろう。
 
 何よりも我々は、日々の生活のほんの小さな事柄に福音を見出すべきである。「楽しいことを楽しいと受け取り」「悲しい出来事を悲しみと共に受け止める」「隣人を大切にし」「多様性を尊重する」。「美しいものを美しいと感じ」「素晴らしいものを素晴らしいと思える素直さを持つ」。つまり、他者に関心を持ち、他者に耳を傾けることにより、自らにもそれらの愛を問い続けることでもある。それが福音にふさわしい「市民生活」の発端となるのである。神学者カール・バルトが『福音主義神学入門』の中で、「牧師や信徒にとって日常で最も重要に考えるべきことは、「聖書を読むことと新聞を読むことだ」と書いているが、「新聞を読む」とは「社会への関心」「社会の一員としての自分であることを自覚的に生きること」を言っているのであろう。本当に小さな事柄なのだ。大それた素晴らしい活動こそが、市民活動ではない。心を世界に向け、社会に関心を持つこと。それが重要である。

2017.05.28 説教

2017.10.01週報   

    

  <528日の説教から>


『生きるとはキリストである。』


   フィリピの信徒への手紙119節~26


               牧師 三輪地塩




で言葉を重ねて「喜びます」と語るパウロであるが、最初の「喜んでいます」は「過去」に対する喜びであり、2番目の「これからも喜びます」は「将来」「未来」に向けての喜びを意味している。一見すると当たり前のように思われるが、パウロはこのとき監禁されていた事を知れば、この言葉に驚きを覚えるだろう。その苦しむ状況の中で将来を見据えているのだ。例え自分が苦しんでいたとしても、そこにキリストがおり、そこでキリストが語られ、そこにキリストの香りが漂うのであるならば、それはキリストの喜ばれる福音宣教の前進であるから、自分の体が苦しみ痛んだとしてもそれは問題の無いことだ、と彼は言う。


 パウロはこの時「生きることと死ぬことの間の板挟み」の中にあった。「生きることはキリストであり、死ぬことは利益である」(1:21)との言葉は、彼が苦難を終えたいという思いを示しているのかもしれない。彼の心は崩れかけていた。現代的には「抑鬱状態」であるだろう。かなり落ち込み、気力を失っていた。


 だが彼は、命への希望を失ったわけではなかった。それは「どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。」という異様な言葉から明らかである。普通の人ならば、例えば冤罪などによって裁判の被告席に立たされたとき、「私は刑に処されて死ぬべきか、無罪放免で釈放されるべきか、どちらが良いのか私には分かりません」などと述べることはないだろう。生殺与奪の権利は裁判官あるいは陪審員の手の中にあるからである。裁判とは自分の命を自分で決める事が出来ないものである。


 しかしパウロは「どちらが良いのか・・・」と、あたかもその権利を自分が持っているかのように語っている。だが、ここがパウロなのであった。つまり、彼の信仰は、神主導、神主体の信仰である。つまり裁判官の手中にある命を生きているのではなく、神によって生かされた命を歩んでいるという自己認識の中にあったのだ。彼は罪を犯して投獄されたわけではない。しかしその最大の苦しみの場でさえも、神中心の歩みを捨てることがなかったのである。