2018.02.04の説教から

           <24日の説教から>
      神の御心を行なう人こそ
            マルコによる福音書320節~35
                               牧師 三輪地塩
 
 「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。」とある。「身内の人」とはイエスの母と兄弟たちである。イエスは神の言葉を伝えていたが、身内の者たちには、それが恥かしく思えたのだ。イエスは「大工」であり、ユダヤ教の神学的エリート教育を受けたわけではない。ただ「神のひとり子」という以外には。この「大工イエス」が、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で聖書の話をしているのは、母の目には「気が触れてしまった」と映ったのである。イエスの母や兄弟たちは、イエスがあらぬ批判を受けさせないためだったかもしれない。もしそうなら、イエスへの愛のゆえに(会堂での話を)やめさせようとした、ということになる。
 だが、それは本当に「愛」と言えるのか。もしかすると、親自身のメンツを保つための「偽の愛」「愛に似たもの」でしか無かったのではなかろうか。
 「愛」か「親のメンツか」という問題は、非常に境目の見極めが難しい。「この子のためにやっている」と語る親は多いが、実は「その子」は口実であり、子が親の自己実現の道具にされることも少なくないように思う。そうなると子は親の「所有物」でしかなくなってしまう。
 或いは、その親の愛が「本当の愛」だったとしても、親族・血縁関係というものは、愛が深いがゆえに、諸刃の剣となってしまう。本来必要なことは何か、その思いを曇らせることに繋がってしまいます。
 今日の主イエスの態度を見て、ある「愛情深い人たち」は、イエスの冷たい(ように感じる)言葉に憤慨するが、なぜ母たちがイエスの行っていることを妨げようとしているのかを見なければならない。この場面でイエスの母たちは、自分たちの意思の実現を要求しているのである。恥ずかしいという思いや、みっともないという感情によって、彼女たちはイエスの言葉を(神の言葉を)遮ろうとしているのである。主にある兄弟姉妹、とは、神の言葉によって成り立つ兄弟姉妹のことである。

2018.01.28  説教

             <128日の説教から>
               『国が内輪で争うとき』
            マルコによる福音書320節~30
                               牧師 三輪地塩
 
 福音書の中で、不明瞭で分かりにくい言葉の一つとして、次の一節が挙げられる。「よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も赦される。しかし聖霊をけがす者は、いつまでも赦されず、永遠の罪に定められる」
何故、神をけがしても赦されるのに、聖霊をけがす事は赦されないのか。大変難しい一節と言える。「神をけがす」というのは、「人間の弱さが神を疑うこと」と言い換えてもよい。苦しみの中にあって人は神を疑い、嘆く。「なぜ神はこんな苦しみを与えるのか」と。だが、そのような神への疑いは「赦される」とイエスは言う。
『ヨブ記』の主人公ヨブは、神に忠実に従う信仰者であったが、突然思いもよらない災難に見舞われる。「何故神はこのような仕打ちをするのか」と彼は悩むがヨブの信仰は揺るがなかった。更に苦しみが彼を襲った。彼は次第に神の正しさを疑うようになっていく。「神は人間をもてあそんでいる」と、次第に彼の信仰は懐疑的になっていくのであった。だが神は、最後的にはご自身を現し、大きな祝福を与えた。ヨブの疑う心は戒められるが、永遠の罪に定められる事はなく、神に赦されて生きることを得たのだった。これが「神をけがす」者の赦しである。
これに対し「聖霊をけがす」というのは、「自分の弱さや、信仰の迷い」から神をけがすのではなく、「確信犯的に、つまり自分は神をけがしていると自覚しつつ神に逆らうことを示している。言い換えるならば、「神と真っ向から対立し、神に対して宣戦布告をするような、決定的な背反のこと」である。イエスは言う。「聖霊をけがす者は、いつまでも赦されず、永遠の罪に定められる」。聖霊は神の力の表れであります。神の働きが現実に私たちの中に与えられる力である。だがその力を、「悪霊である」と断罪する事は、到底赦される事ではない。それはイエスがファリサイ派の者たちから言われた批判でもあった。この世は神の力をけがしていないか。いつも我々に問われることである。神に敵対せず歩みたい。

2018.01.14の説教から

114日礼拝説教から》
         『彼らのかたくなな心を悲しみながら』
          マルコによる福音書31節~6
                                牧師 三輪地塩
 
 蓮見和夫著『マルコによる福音書』には次のような話がある。
「オランダでの出来事。ある日曜日に大きな高潮があり、今にも堤防が決壊しそうな状態であった。オランダの国土の多くは海よりも低いところにあるため、堤防の決壊は、大惨事に繋がってしまう。オランダの警察はキリスト教会に対し、教会の信徒たちを動員し、決壊を防ぐための工事を手伝って欲しいと要請した。だが、この緊急要請に対し、ある保守的で戒律的な教会は、その要請を断ったという。その理由は「安息日の掟を破るわけにはいかないから」だったという。彼らは、「我々が礼拝を守るなら、神は奇跡をもって助けてくださるでしょう」と主張した。しかしその間も、堤防決壊の危機は増していった。そこにある信徒がマルコ3章「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」との言葉を引き合いに出し、教会員は皆説得されて工事に加わった」
このような話である。おそらく相当に脚色されているか、或いはフィクションかもしれないが、しかし戒律や規則と、実質との事柄を考える大変興味深い話しです。「保守的で戒律的な教派」と言われているのは、おそらくオランダ改革派教会のことであろう。この話は極端な描き方であるが、これに近い事は実際に起こり得る。我々日本キリスト教会にも、教会法(教会の憲法・規則)に固執するがあまり、似た事例がある。又、教会だけでなく行政の画一的なやり方でも似たことが起こる。
日常生活においては、堤防が頻繁に決壊するという事はないが、苦しんでいる人に無関心になる事は起こりがちであろう。「命を救うのと、殺すのと、どちらがよいか」というイエスの言葉は、我々の身の周りでいつもなされるべき問いである。この主イエスの問いかけに、我々がどのように答えるべきかは、一人ひとりに委ねられた課題である。信仰に「マニュアル」はない。その時、その場所で、主が与えられる「問いかけ」に、如何に耳を傾けるのか。そこに掛かっている。

2018.01.07 (新年礼拝)説教から

201817日(新年礼拝)説教から》
                『与えられる神』
             マルコによる福音書22328
                                 牧師 三輪地塩
 「安息日を覚えてこれを聖とせよ」という十戒(第四戒)の言葉は現代人に多くのことを伝える。出エジプト記2312節に「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やロバが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」とあるように、安息日とは、人間が生き、仕事をするための重要な休息の時間である。興味深いのは、イスラエル人だけでなく、奴隷や家畜たちを休ませよ、と言われていることにある。
当時は奴隷制社会であった。奴隷は、自分の命を主人に預けているので、生きるのも死ぬのも主人の胸三寸であった。今でいう「基本的人権の尊重」「生存権」はなかった。奴隷が死ぬと、また新しい奴隷が補填された。
 これは現代の労働環境問題にも通じる話である。ブラック企業などと言われる法定基準を無視した労働環境を従業員に強いる会社が増えている昨今。使役動物のように働き、会社の歯車として一生懸命に尽くしても、必要がなくなると新しい人が補填される。当時の奴隷の状況に似ている。だが視点を変えると、ブラック企業を作っているのは、我々消費者であるとも言える。「お客様は神様」などという決まり文句が1970年代に始まり、我々消費者は過剰なサービスを求め、客を神のように扱う事を当たり前とする風潮が出来上がってしまった。日本社会は歪な消費者至上主義社会であると言える。
 旧約聖書は、その最初(モーセ五書)から人間の尊厳のみならず、神の造り給う「すべての命」の尊厳が守られることを宣言している。
 神の御言葉(律法・十戒)は、すべての命が尊重され、神の被造物として生きる権利と「責任」を指摘する。或いは、神の愛された被造物として生き「させる」責任を指摘している、と言った方が正しいかもしれない。現代社会に広がる労働の環境は、私たちの罪が重ねられた結果であることを見つめ直し、共に社会を生きる隣人を愛し、尊厳を守り、我々は社会活動・消費活動を行うのである。

2017.12.31の説教から

              <1231日の説教から>
            新しいぶどう酒は新しい革袋に」
        マルコによる福音書218-22
                                                      
                                  牧師 三輪地塩
 ここには二つの譬えが語られる。一つ目は「新しい布ぎれを、古い服
に縫い付けることはしない」こと。二つ目は「新しいぶどう酒は新しい革
袋に入れる」こと、である。脈絡なしに書かれているように見えるがそう
ではない。着物とぶどう酒は、当時の結婚式に必要な物の象徴である。
 
 イエスは「新しさ」と「古さ」について教える。まださらしていない新しい
布切れは縮むため、古い布を引きちぎってしまう。新しいぶどう酒を革袋
に入れて発酵させる場合、すでに使い古して伸びきった皮袋に入れる
と、若いぶどう酒は発酵が進み、パンパンに膨れ上がり、しまいには皮
を破いてしまう。つまり、「布」も「革袋」も、新しい物に対して新しい物を
使うことが重要である。
 
 キリスト教信仰においても似ている。古きものを重んじつつ、日々新し
くなっていくことによって信仰者は成長し、教会は成長する。「正しい信
仰者」は存在しないが、「ある特定の時代に限定された、正しい(と思わ
れる信仰者)」なら存在するかもしれない。人間の倫理観や正しさは、い
つも流動的だからである。つまり我々は、いつも時代と共に歩み、時代
の倫理観や文化的制限と共に、限定的・過渡的・暫定的な「正しい信仰
(者)」であることを求める。かつて、魔女裁判なるものが横行したが、当
yle='font-family:"serif";'>時の倫理観では、それは許される「(キリスト教)倫理的行為」であった。
今では考えられない。
 我々は、永遠から永遠に変わらないのが、三位一体なる神のみであ
ることを信じつつ、世の中の事象に目を凝らして歩む民である。決し
て、時代に迎合し、おもねって生きるのとは違う。信仰により日々新た
にされることは、時代を愛し、世界に関心を向け、隣人を大切にする事
によって、生活の中でそれがどう生かされるのか、自分がどう生きて
いくのかを見つめることである。
 イエスの教えは、人間生活を規則で縛るという古いものではなく、人
間に対し、愛を持って包み込むという新しさを、神の中に見出す教えで
ある。当然、その精神は、現在の我々の信仰にも受け継がれている。