2018.03.25の説教から

          <325日の説教から>
           『少女はすぐに起き上がった』
              マルコによる福音書521節~43
                             牧師 三輪地塩             
 
 ヤイロは、ユダヤ教の指導者「会堂長」であり、人々から尊敬を受けていた人物である。ヤイロは自分の娘が瀕死の状態であったことをイエスに伝えると、共に自宅に急いだ。そこへヤイロの家から人が来て「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」という悲報が伝えられたのであった。
 
 娘の癒しを願っていたヤイロは、その死を悼みつつ、全てが終わったと諦めた。いくら主イエスであっても、無理なことがある。そう思った事だろう。
 
 だがイエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言い、かまわずヤイロの家に向かった。ヤイロの家で泣き叫ぶ者たちに対し、イエスは「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と語る。これを聞いた者たちは「イエスをあざ笑った」。娘の死を嘆く、ヤイロの娘の近しい人たちや関係者があざ笑ったと考えられる。
 このあざ笑いは、我々が常識に囚われる事によって、神の業を信じる事ができない様子を表わしている。
 イエスは「皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入っ」た。そして「子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われ」たのであった。「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味のこの言葉。「少女はすぐに起き上がって、歩きだした」のであった。この少女は「もう12歳になっていたから」とあるのは、単に12歳という年齢を伝えたいだけでなく、この「生き返りの命の完全さ」を表わしている。
 真の命にあずからせる主イエスについて「人々は驚きのあまり我を忘れた」とあるが、我々は、このことを主の復活の時に知る事となる。あの婦人たちが、空虚な墓を目にしたとき、あまりの衝撃に我を忘れる、という出来事にも繋がっており、そこには我々の常識が神の奇跡によって覆され、神の業が我々に迫ってくるものとなる

2018.03.18の説教から

      <318日の説教から>
           『群衆の中に紛れ込む』
         マルコによる福音書521節~34
                         牧師 三輪地塩
 
 12年間長血に苦しむ女性は、群衆の中に紛れ込み、イエスに近づいた。「この人の服にでも触れれば癒して頂ける」と思い、イエスの後ろからそっと服の端の方に触れたのであった。触れると同時に、自らの出血が止まった事を「体に感じた」と書かれている。彼女の行為は、イエスの力を「奪う行為」と受け取られても仕方がない。イエスと群衆を欺き、こっそりと服に触れたからだ。だがこの女性は、社会生活から隔離されていた立場上、イエスに近寄るところを見つかれば即座に取り押さえられてしまうため、「群衆の中に紛れ込む」以外に方法が無かったのである。
 イエスは辺りを見回し、「誰が私に触れたのか」呼び掛ける。これ以上隠れることが出来ないと観念した女性は、「震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」。これら一連の行為に対し、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と、イエスは救いの宣言をしたのである。彼女にとって意外な言葉となった。
 当時の律法によれば、彼女の行為は罪に問われるはずである。だがイエスは、彼女を咎めることなく、「あなたの信仰があなたを救った」と祝福の言葉をかけた。近づく勇気を持った彼女の心を見て、イエスはそれを彼女の信仰であると理解した。この事は、我々信仰者の姿に多くの示唆を与える。
 我々は、社会生活の中で、周囲の目を気にし、本来行うべき事を行えず、正しい選択を行い得ないという事が往々にして起こるであろう。「人間は社会の生き物である」などと言われるように、集団心理や、法令遵守の圧力は、自分の行動を制限してしまう。それにより、信仰者としての行いから離れてしまうことも度々起こる。
 イエスがこの長血の女性の中に見た「信仰」とはまさに、このような「勇気ある行動」に示された「信仰的選択」に他ならない。救いのために必要な方は誰か。そのために必要な行為は何か。そのことを的確に見据えて行動する。それをこの長血の女性から学ぶものである。

2月018.03.11の説教から

     <311日の説教から>
        『崖から豚さんが落ちるなんてかわいそう』
          マルコによる福音書51節~20
                           牧師 三輪地塩
 
  以前、日曜学校でこの箇所を説教した時、幼い生徒から「ブタさんが崖から落ちるなんてかわいそう」という声が上がった。素直な感想にその場は微笑ましい空気に包まれると同時に、この箇所の難解さを感じさせられた。
「汚れた霊に憑りつかれたゲラサ人」は、第一に、「墓場に住んでいた」。それは彼が希望のない状態にあったという事を意味する。第二に、「自分を傷つけていた」。それは「自己愛の拒絶」である。キリスト教は、本来、自分を大切にしなさい、と教え、そこから「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」に思いが向けられていく。第三に、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。」という言葉によって、「神との関係を拒絶した」ことが分かる。口語訳聖書の翻訳では「あなたは私と何の関係があるのです」と訳されていた。自分は神と関係がない、と自己判断しており、自尊心のみならず、神との関係、つまり、自らの人間としての根源的な尊厳を失っている状態にある。希望を無くし、人々から見離され、自分を愛する事が出来ず、自由がなく、信仰からも離れ、誇りを失った人。それが、「汚れた霊に憑りつかれた男性」であった。
 
 しかしこの男性に取り憑いていた悪霊が、2000匹の豚の中に移された。イスラエルにおいて豚は「汚れた動物」とされてきた。だがゲラサという異邦人の町では、豚は大切な家畜・財産であった。沢山のブタを飼っている事は、ゲラサ人にとては、富の象徴である。少し誇張して言うと、人間の命よりも豚の財産価値の方が高い、ということであった。
 
 その「価値の高い」ブタの群れに、汚れた霊が入り、2000匹が失われたことは「この世のどんな財産価値よりも、苦しむ人を救うことに価値がある、という事を意味している。この男性は、世の中から見捨てられ、町の中に住む事も許されず、足枷によって自由が奪われ、顧みられないこの命を、主イエスは、その魂の価値を認め、この世のどんな財産よりも遥かに高いことをお示しになったのである。

2018.03.04 説教から

   <34日の説教から>
            『風を叱る』
        マルコによる福音書435節~41
                       牧師 三輪地塩
 
 舟に乗っていたのは、ガリラヤ湖の“専門家”である漁師出身のペトロたちであった。その彼らが恐れおののくほどの嵐が吹いのだから、かなりの暴風であったのだろう。彼らは怯えた。「死んでしまうかもしれない」「何とかしなければ」、そう思った弟子たちはイエスに目を向けた。「しかしイエスは舟の艫の方で枕をして眠っておられた」のであった。悠長に眠っているイエスを見た弟子たちは、イエスの存在に安心するどころか、「苛立った」のであった。彼らは「イエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った」のである。
 この弟子たちの苛立ちは、我々が日常の中で、「あたかも神がいないかのように毎日を過ごしてしまっていることへの悔い改めを促すだろう。もしガリラヤ湖が平穏で安心に航行できる状態であったら、イエスの眠りを妨げることはなかっただろう。或いは、寝ている事にすら気付かなかったかもしれない。そして「平穏であること」「安心して航行できること」への感謝を忘れて歩んでしまうのである。
だが、ひとたび大嵐が来ると、安らかに眠っているイエスを叩き起こし、自分たちが窮地に立たされている事に怒りを覚え、その原因をイエスに向けてぶつけるのである。この姿は、我々に似ている。平穏の中では神を忘れるのに、困難になると突然神に八つ当たりしてしまう私たち。安心できる時には神が何をなされようとしているのか考えもしないが、ひとたび自分に被害が生じると、神を恨み、神に怒りを発するのだ。我々の信仰が、何とも脆く、躓きやすいものであるかを、この箇所は弟子たちを通して我々に伝えている。
このような我々人間の不安と恐怖に対し、イエスは悠然と起き上がり嵐を静めた。風はやみ、高波は凪になった。自然を従わせるイエスの姿を見て、弟子たちは恐れおののく。嵐と波の力に恐れおののいていた彼らは、それ以上の力を見て神に畏れおののいた。神が共に(艫に)おられるのであれば、我々にはもはや「安心」しかない

2017.02.25 説教から

       <225日の説教から>
             『「成長」について考える』
           マルコによる福音書426節~34
                     牧師 三輪地塩
 
 イエスは、神の国を「からし種」に譬える。「小さなからし種は蒔かれる時は小さいけれども、蒔かれるとどんな野菜よりも大きくなり、鳥が巣をつくるほどにも成長する」。その成長の中に神の国があるのだ、と語る。
 からし種は直径1mmほどの小さな粒である。古代イスラエルの人たちは、これが最も小さな種である事をよく知っていた。イエスは身近な例を挙げて、神の国を説明しようとしているのであった。
 
 からし種は、何倍にも成長する。肥沃な土地に蒔かれれば、高さ3メートルほどにもなる。何も期待できないと思えるほどの「小ささ」が、「誰も予測できなかったほどの大きさになる」。その驚くべき対照が、神の国の譬えであるとイエスは言う。
 勿論、小さければ小さいほど重宝される物もあるが、通常、「小さい」という事は、あまり積極的な事柄と捉えず、「力の弱さ」「足りなさ」をイメージしてしまう。しかし、例え小ささの中にあったとしても、我々は神の大きな力の中にある事をいやというほど知らされるのだ。
 聖書の歴史でそれは明らかである。小さなダビデが大きなゴリアトを倒したこと。イスラエルという国自体が、その数の少なさと貧弱さの故に神に選ばれたこと。ベツレヘムという「小さな村で」クリスマスが起こったこと。小さな子どもの持つ「五つのパンと二匹の魚」という小ささから、5000人を養ったことなど、聖書には多くの箇所で、神の前に小さな人間に与えられる大きな出来事が語られる。

2018.02.18 説教から

       <218日の説教から>
           自分の「秤」で量り与えられる
           マルコによる福音書421節~25
                           牧師 三輪地塩
 「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」。
 この言葉は、すぐには理解できないかもしれない。
 我々人間は、「自分の経験」を標準的な物差にする。自分が歩んできた人生を、最も安心できる、信頼のおける人生であると錯覚してしまうからである。自分の身近な生活や、感覚や、その広さ(或いは「浅さ」までも!)、大事にしてしまうのだ。かつて養老孟司の『バカの壁』という本がベストセラーになったが、その「バカの壁」、ならぬ、「自分の壁」が「自分を量る」のだ。
 人を批判し、人をさげすみ、人を見下す人は、最終的には、人に批判され、人にさげすまれ、人に見下される人になる。それは、自分が量ってきた秤を、自分にも当て嵌められるからである。
 しかしその反対も起こる。人を愛し、人を評価し、人を尊敬して生きる者は、人に愛され、人に評価され、人に尊敬される者となる。人を大事にする者は、人に大事にされる。つまり、「何を聞いているかに注意しなさい」とイエスが言われるように、あなたは神の福音を「何であると認識して聞いているか」が大事である。神を信頼し、神の愛を感じ、神の創造性を信じ、神の守りを求めて、神の御言葉に聴く時、あなたがたは、最終的には、神の愛を受け、神の創造性の中に生き、神の守りのうちに生きる者となるのだ、と。
 「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」と言われます。あなたが、福音に本気で信頼し、本気でそれを欲し、それを受け取ろうとする時、そこに、真の福音があなたの秤に、量り与えられるのだ、という事である。「聞く耳のある者は聞きなさい」とは、消極的な「聞く」ではなく、神の御言葉に、より頼んで、積極的に「聞くことである」という、イエスの教えがここにある。我々は福音として、「何を聞いている」のか。「何を聞いているかに注意しなさい」というこの言葉を、真剣に捉えたい。