7月19日の説教 『主よそのパンを』 ヨハネによる福音書6章34節~40節

『主よそのパンを』
ヨハネによる福音書634節~40
                牧師 三輪地塩
 M.ルターは「讃美歌は信徒の説教だ」と言った。信徒たちの信仰を歌う讃美歌の歴史を見ることは、教会と信徒の信仰理解・聖書理解の歴史を見ることになるのである。この箇所では「イエスは命のパン」ということを語るが、これまで讃美歌ではどう理解しているだろうか。
 まず1954年版の(いわゆる現行讃美歌187番)には
「主よいのちのことばを/与えたまえわが身に/われは求むひたすら/主より給う御糧を。ガリラヤにて御糧を/分けたまいしわが主よ/今も活ける言葉を/与えたまえ豊かに」(1節と2節)(作曲1877年) とある。この讃美歌では「パン」という言葉はなく「パン」を「糧」と読み直し「御言葉」と解釈している。つまり「命のパンを下さい」という群衆の言葉を、我々自身の祈りに代えて「御言葉を与えて下さい」と解釈している。同じ現行讃美歌287番では 「イエス君の御名は/たえなるかな。聞けば悲しみも/恐れも消ゆ疲れしこの身のいこいとなり/飢えたる心のマナとぞなる」(作曲1779年) とあり、この歌詞がヨハネ6章によって書かれたとされている。イエスの御名が「たえなる」すなわち「言葉に表せないほどの素晴らしさを持っている」ということを1節で歌い、2節で「イエスの御名が、疲れた我々の憩いとなり、飢え渇く我々の心を満たす糧となる」と歌う。ここでも187番と同じように、本物のパンではなく、イエスのパンを「御言葉」と解釈するのである。
 しかし上記2つよりも最近の讃美歌419番(作曲者ロルフ・シュバイツァー1936年生まれ。恐らく今も存命中)ではこう歌われている。「さあともに生きよう/主は飢えた者に/その身をパンとして与えて下さる」
 これまでは、イエスのパンは「御言葉である」と歌ってきたが、419番では「イエス自身がパンである」と歌っている。これは大きな違いである。つまり聖餐式がイメージされているのだ。我々は単に言葉を聞いて心の内に(精神的に)癒されるというのではなく、信仰とはキリストの十字架と共に生きる「救いの出来事」である、イエスの肉と血による贖いを受けることなのである、という事を示している。ここに現代の教会における「教会論」と「信仰観」が示される。すなわち「我々の信仰は、キリストの十字架においてのみ建ち得るものである」ということである。

8月9日の説教 『夕闇の迫る時にも』 ルカによる福音書24章13節‐35節 南純教師



        

              『夕闇の迫る時にも』

          ルカによる福音書2413節~35


                         教師  南 純

 


 



そこには、白内障で「目を遮られ」、前途に希望を見失い、「暗い顔」に沈んでいる者の姿がある。しかし、それでも彼らは夕暮れの道をなお進み行かなければならないのである。
 今、そのような彼らに、一人の同行者が加わる。死の闇を突き破って復活された主イエスであるが、彼らの目には残念ながら今はまだ見えていない。しかし、彼らが勇気を出して「一緒にお泊まり下さい(stay with us)」と願ったことにより、新しい展望が開かれる。彼はもはや同行者ではなく、食卓の主として立ち現われたからである。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」ことによって、「遮られて」いた「二人の目は開け、イエスだと分かった」からである。
 聖書の説き明かしに加えてパンのしるしを受け、今や彼らの「暗い顔」が復活者イエスの光を浴びて輝き出し、夕闇の中を主の証人として遣わされて行くのである。そこから彼らのいわば第二の人生が始まるのである。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」(コリント第二、517節)となり、「闇を変えて光となす」(讃美歌7番)創造者の御業をわが身にまとうのである。
 讃美歌39番の「日くれて四方はくらく」は、エマオでの復活の主の顕現を歌ったものとして知られるが、各節の終りで「主よ、ともに宿りませ」を反復し、強調している。原詩では「生きる時も、死ぬ時も、主よ、共に宿りませ(inlife,in death,O Lord,abide with me)」と歌い上げている。この歌詞は『ハイデルベルク信仰問答』第一問の「唯一の慰め」に呼応する。私たちがほかの何者でもなくて「主のものである」ことこそ、人生の夕暮れと暗闇に立ち向かうための唯一の希望であり、慰めなのである。私たちも聖書の証言と宗教改革者たちの信仰告白に合わせて、「主よ、共にやどりませ」と歌いたいものである。

7月5日の説教から 『わたしだ、恐れることはない』 ヨハネによる福音書6章16節~21節

                                  <75日の説教から>

             わたしだ、恐れることはない
              ヨハネによる福音書616節~21        
牧師 三輪地塩
 V.フランクル『夜と霧』の一節。「いつガス室に送られるか分からない、ギリギリの精神状態の中にあって、食欲や睡眠欲のような生物レベルの生きるための欲求以外、高次の欲求は全て消えていった。しかし「政治」と「宗教」への関心だけは失われることはなかった。とりわけ感動したことは、居住棟の片隅で、あるいは作業を終えて、ぐっしょりと水がしみ込んだぼろをまとって、くたびれ、おなかをすかせ、小声ながらも、・・締め切った家畜小屋の闇の中で体験する、ささやかな祈りや礼拝に(感動を覚えるの)であった」。そうフランクルは回顧している。また彼は、自分の命を繋いだもう一つのものが「愛する者の存在であった」と言い次のように語る。「愛する者(妻)が同じ収容所に「いる」という現存(Dasein(ダーザイン)[])、この愛する者がいるという現存の中にこそ、自分の生きる意味があり、その愛する者の微笑みを思い浮かべる時、人間の命の愛おしさを覚えたのであった。・・多くの思想家たちが、生涯の果てに辿り着いた真実。何人もの詩人たちが歌い上げた真実、(つまり愛)という真実が、生まれて初めて骨身にしみた。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだという真実。いま私は、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきことをしてきて、究極にして最高の事の意味を会得した。愛により、愛の中へと救われること。人はこの世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛するひとの面影に思いをこらすことこそが、究極的な至福の境地となるである」。
 つまり、究極的絶望の中、愛する者(妻)の存在が彼の命を繋いだのであった。一人の愛する者の「実存」「現存」「Dasein」が彼の心に生き、その面影と彼女の存在が共に彼の内に生きる時、命は保たれ、収容所を出るまで希望失うことなく、希望を持ち続けることが出来たのであった。
「愛する者の現存」という言葉の中に我々は「キリストの現存」を見出すものである。しかも我々が愛する、より以上に、「我々を愛して下さる方がいる」というDaseinが、我々の中にあるとき、我々は希望と共に生きることが出来るのである。その存在は我々に語る「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ620節)と。

 つまり、荒れ狂う湖上に現れたキリストの「わたしだ」(エゴーエイミ)という実存、現存、Daseinの中で、すなわち人間が如何ともしがたく抗う事の出来ない、無抵抗にも押し流される不幸や、痛みや、究極的な悪の中にさえも、神は現存し、私を愛する神がいるというDaseinの中で、私は「私の希望」を失うことなく、この命が神と共にある命として生き続けることが出来るのである。人間社会の暗闇の中で、人間関係の難しさの中で「我れ」と向き合う私の心の中、そしてアウシュビッツの中でさえも、主は我々かたわらに立たれる。それがキリストなのである。

 荒れ狂う湖上にキリストは立つ。それは私たちと共にキリストが立つ事のしるしであり、実存であり、キリストという現存の表れである。おそれを沈めるキリストは、恐れと共に生きて下さるキリストとなって、私たちと共に歩んで下さるのである。

『5つのパンと2匹の魚を持つ少年』 ヨハネによる福音書6章1節~15節

             628日の説教から>
          『5つのパンと2匹の魚を持つ少年
           ヨハネによる福音書61節~15
                                  牧師 三輪地塩
  あるミッション系の大学の教員が、朝礼拝の奨励の中で次のような話をしている。
1デナリオンは当時の1日分の労働賃金だと言われます。もしパンではなく1日分のアルバイト代を持っていたとしたらどんな風に話が続くのか考えてみました。弟子は言います。「ここに1日分のアルバイト代を持っている人がいます。けれども、こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう。」そこでイエスは言われた。「日本では普通、1食分の食費がいくらかかるか知っていますか。」弟子は答えた。「約400円です。」「では、アフリカのチャド共和国では1食分の食費はいくらですか。」「1円です。」「1日分のアルバイト代で何食分用意できますか。」「1日分のアルバイト代は8000円です。8000食分用意できます。」「そしたら、その8000円をチャドに送ってパンに換えなさい。そうすれば、5000人、それ以上の人がお腹いっぱいになるでしょう」。
 これは大変示唆に富んだ面白い読み方であろう。最貧国はアフリカのみならず、アジア・中央・南アメリカにいくつも存在する。日本は円安が続いているとはいえ、海外の貨幣に比べると今でも強力な貨幣価値を持っている。
 この教員は最後にこう語る。「私たち日本人は、聖書にあるような奇跡を起こすことも可能かもしれません。例えばアジアやアフリカの医療支援を行っている海外医療協力会などの団体に支援をするとか、使用済みの切手を送るとか、何でも出来るのです。私たちとしては、「こんなものが何になるか」と思われるような、捨ててしまいそうになるほどの小さなものが、大勢の人たちの幸せのために変化する、ということも起こります。」
 極端な解釈かもしれないが、「こんな小さなものが何の足しになるのか」というようなものを「差し出す」というこの少年の行いが5000人の命を繋ぎとめたという奇跡を現代的な祈りのもとで考える良い話である。
 一人の小さな者が「捧げる」ことによって大勢の人が救われるという奇跡。そこに十字架が立つのである。

6月21日の説教 ヨハネによる福音書5章41節~47節

621日の説教から>
神から受ける誉れ
            ヨハネによる福音書541節~47
                 牧師 三輪地塩
 この箇所で印象的な言葉「誉れ」は『大辞林』で調べると「ほめられて世間的に光栄であること。評判のよいこと。名誉」とある。評判、名誉、称賛、つまり周囲からの評価ということである。聖書では「誉れ」と訳された単語は「ドクサ」というギリシャ語が使われており、「栄光を受ける」という意味である。礼拝の最後にいつも歌う讃美歌のことを「頌栄」と呼ぶが、この「頌栄」という言葉が英語で「ドクソロジー」と言う。頌栄とは本来的に「三位一体の神に栄光を帰す」という意味であり、また頌栄の目的でもある。
 イエスは当時の民衆たちに対し「あなた方は周囲の人からの賞賛を受けることには一生懸命になるが、神からの誉れを受けようとする態度を見せない」と嘆いている。イエスのいう「真実の誉れ」とは、人々からの賞賛ではなく、そこから程遠いものである。イエスが十字架にかかり、憎しみと嘲りのなかを生きそして死んでいったように、そこにこそ「誉れがある」といわれる。明らかに逆説的な「栄光・誉れ」であるが、イエス・キリストという神の御子であるメシアが、卑しく低い立場(犯罪人)と同じくなり、卑賤のメシアとして限りなく低いところで死んでいったのである。この卑賤のキリストにこそ、神の栄光が輝いていると聖書はいう。
 だがここに希望がある。我々人間の生きる意味や目的はどこにあるだろうか。我々の人生ではたびたびその本質が問われるものとなる。賞賛や評価を勝ち取ることは決して間違いではない。しかしそこに「のみ」心を向け、目的と意味をおいてしまうならば、それを失ったとき、その命の存在意義自体を失ってしまいかねないのである。「評価されないわたしなど“生きる価値すらないのだ”」と。しかしキリストはそこに人間の命の価値をみいださない。我々の価値は、人からの評価や賞賛(つまり「誉れ」)にあるのではなく、限りなく低く生きてくださったキリストと共に生きることにこそあるのだ。

<6月14日の説教から> 『浦和教会が見る幻』 (教会創立80周年記念礼拝)

614日の説教から>
『浦和教会が見る幻』
(教会創立80周年記念礼拝)
             ヘブライ人への手紙1117~22
                               牧師 三輪地塩
 1935年に教会として建設された浦和教会は、記録では1885年から巡回伝道があり、既に家庭集会が始まっていた。この教会の創立当初から多くの牧師や長老たちが携わってきたが、押しなべてこの教会が大事にしてきたものは「神学」である。「シンガク」という言葉を聞くと、かしこまった、お堅い印象を受けるが、要するに「神様のことをよく知りたい」という切望が人を神学させる原動力となる。この教会は良く耕された畑のように、神学することによってしっかりと整備され、福音の実りという作物を育てるのにちょうどよい土壌となっている。その意味でこの共同体は、先達たちの尽力と学びが作り上げたものである。
そして今、80周年を迎えるこの教会が向かうべき場所をどのような幻で見るのであろうか。
 我々日本のキリスト教会は、戦前、戦後、21世紀の現在に至るまで、少数者として生きることを余儀なくされてきた。それを保つためには、自らを「主張し」「他者との差異を明らかにし」「自らの信仰の何たるかを周囲に示し」てきた。そうでなければ生き残ることができなかったからである。しかし今一度、この80周年の記念の時、この浦和教会が進むべき道を確認せねばならない。我々は「シンガク」によって神を知ろう知ろうと努めてきた。しかし同時に他者を知ろう知ろうと努めてきただろうか。この教会が「浦和」に建っていることへ感謝と喜びをもって歩んできたであろうか。そのことが問われる。マタイ712節で主は言われる「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と。
 わたし(説教者)は、日本の教会が「我々(教会)の欲すること」を地域に求めてきたのではないかという反省を持つべきであると考えている。地域が欲することを我々はどれだけなしてきたであろうか、と。これからの日本の教会と日本の宣教の課題がここにある。そしてそのことを考えることこそが、これからの浦和教会に与えられた幻と考えるのである。