2017.06.11の説教から

   <611日の説教から>
  『キリストのために苦しむ』
                 フィリピの信徒への手紙127節~30
                                     牧師 三輪地塩
 「福音にふさわしい生活」とパウロは言う。原文では「ポリス」の派生語である。現代的には「市民生活」と訳して良い。つまりパウロはここで「ひたすら福音にふさわしい市民生活をしなさい」と言っている。それは必ずしも「社会運動を積極的に行ないなさい」とは言っていない。尊い事ではあるが「社会運動=福音にふさわしい生活」は、公式としては成り立たない。だが、例えば社会問題になっている「ヘイトスピーチ」という現象の中に、「他者への憎悪」と人間の罪の問題を見出し、そこに福音が語られる事を願い、またそこからキリストの十字架の贖いと罪の赦しが語られようとするならば、その社会運動は、福音から芽生えたものとなるであろう。
 
 何よりも我々は、日々の生活のほんの小さな事柄に福音を見出すべきである。「楽しいことを楽しいと受け取り」「悲しい出来事を悲しみと共に受け止める」「隣人を大切にし」「多様性を尊重する」。「美しいものを美しいと感じ」「素晴らしいものを素晴らしいと思える素直さを持つ」。つまり、他者に関心を持ち、他者に耳を傾けることにより、自らにもそれらの愛を問い続けることでもある。それが福音にふさわしい「市民生活」の発端となるのである。神学者カール・バルトが『福音主義神学入門』の中で、「牧師や信徒にとって日常で最も重要に考えるべきことは、「聖書を読むことと新聞を読むことだ」と書いているが、「新聞を読む」とは「社会への関心」「社会の一員としての自分であることを自覚的に生きること」を言っているのであろう。本当に小さな事柄なのだ。大それた素晴らしい活動こそが、市民活動ではない。心を世界に向け、社会に関心を持つこと。それが重要である。

2017.05.28 説教

2017.10.01週報   

    

  <528日の説教から>


『生きるとはキリストである。』


   フィリピの信徒への手紙119節~26


               牧師 三輪地塩




で言葉を重ねて「喜びます」と語るパウロであるが、最初の「喜んでいます」は「過去」に対する喜びであり、2番目の「これからも喜びます」は「将来」「未来」に向けての喜びを意味している。一見すると当たり前のように思われるが、パウロはこのとき監禁されていた事を知れば、この言葉に驚きを覚えるだろう。その苦しむ状況の中で将来を見据えているのだ。例え自分が苦しんでいたとしても、そこにキリストがおり、そこでキリストが語られ、そこにキリストの香りが漂うのであるならば、それはキリストの喜ばれる福音宣教の前進であるから、自分の体が苦しみ痛んだとしてもそれは問題の無いことだ、と彼は言う。


 パウロはこの時「生きることと死ぬことの間の板挟み」の中にあった。「生きることはキリストであり、死ぬことは利益である」(1:21)との言葉は、彼が苦難を終えたいという思いを示しているのかもしれない。彼の心は崩れかけていた。現代的には「抑鬱状態」であるだろう。かなり落ち込み、気力を失っていた。


 だが彼は、命への希望を失ったわけではなかった。それは「どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。」という異様な言葉から明らかである。普通の人ならば、例えば冤罪などによって裁判の被告席に立たされたとき、「私は刑に処されて死ぬべきか、無罪放免で釈放されるべきか、どちらが良いのか私には分かりません」などと述べることはないだろう。生殺与奪の権利は裁判官あるいは陪審員の手の中にあるからである。裁判とは自分の命を自分で決める事が出来ないものである。


 しかしパウロは「どちらが良いのか・・・」と、あたかもその権利を自分が持っているかのように語っている。だが、ここがパウロなのであった。つまり、彼の信仰は、神主導、神主体の信仰である。つまり裁判官の手中にある命を生きているのではなく、神によって生かされた命を歩んでいるという自己認識の中にあったのだ。彼は罪を犯して投獄されたわけではない。しかしその最大の苦しみの場でさえも、神中心の歩みを捨てることがなかったのである。

2017.09.24週報 <ヨハネ福音書・最終回>

2017.09.24週報 
 
    <ヨハネ福音書・最終回>
『この証しは真実である』
           ヨハネによる福音書2120節~25
                              牧師 三輪地塩
 
「主の愛する弟子」(以下、愛弟子)は、イエス昇天後、長生きをしたと言われている。今日の箇所にそれが示されている。ここでイエスは「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」と語る。
この言葉は重要である。「この人はどうなるのか?」という質問に対し、イエスは「それがどうした。その事は、あなたと何の関係があるか」と答えている。ヨハネ教会の中では「愛弟子は長生きすぎる」「キリストの再臨の時まで生き続けるのではないか」などと口々に教会内で噂が広がっていたようである。だがイエスは「それはあなたがたに関係のないことだ」と、人の噂話を一刀両断に切り捨てる。愛弟子に関する神の計画は、「神の知るところ」であって「あなたの知るところではない」と。つまり「未来は神の領域に属しており、(特に人の寿命などは)、我々人間が関わる領域とは異なっている」と主イエスは言うのである。
ペトロは、一説にはローマで殉教したと伝えられている。18節の「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」という言葉がペトロの行く末を暗示している。長生きの愛弟子に対しペトロは短命であった。
 両極端の寿命を生きた彼らの生涯であったが、この事が重要である。それぞれの人生・命をどう燃やし、どう用いるかは、それぞれである。しかしそれらを批判する事は出来ないし、面白おかしく批評する事も出来ないのだ。神への仕え方は、それぞれに異なりながらも、両者共に尊重され、歩んで行く。人それぞれに、生涯の在り方があるし、生涯の閉じ方があるのだ、と主は語られる。
 ヨハネ福音書は「私は道であり、真理であり、命である」と伝えてきた。その「道」は、それぞれがひたすら歩むことの中で進むべき「道」である。我々は、他者への関心を失ってはならないが、他者と自分を比較したり、他者への干渉をする事も必要ない。「あなたはどう神に仕えるか」という問い掛けのみを見つめて歩むべきである。
 

2017.05.21の説教から

2017.09.10週報 掲載
            
       521日の説教から>
       
    『たとえ口実であったとしても』
    
          フィリピの信徒への手紙112節~18
                           牧師 三輪地塩
     
       「不純な動機」とは原語で「党派争い」を示す言葉であ
     る。恐らくパウロは、党派争いをしたがる教会員たちに
     を焼いていたのだろう。教会の一員でありながら自分勝手
     に振る舞う者やパウロから敵対する者たちがいたのであ
     る。だがパウロはこのような状況さえも前向きに捉え「福
     音の前進」の観点から語る。「だが、それがなんであろう。
     口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知ら
     されているのですから、わたしはそれを喜んでいます。こ
     れからも喜びます」と。例えそれが「表面的」に見えた
     としても、そこにキリストがおられ、キリストの名が語ら
     れ、キリストが何らの形で中心とされるのなら、それを喜
     ぼうではないかということである
      
      卑近な例であるが、スポーツやレクリエーションなどの
     企画を「教会行事」として行った場合、少なからず聞こえ
     てくるのは「それは教会の中心的な事柄か」という批判や、
     「楽しさを求めるのは教会の使命ではない」というお叱り
     の声である。確かにそれらは教会の「中心的な働き」では
     ないかもしれない。だが、キリスト(教会)をアクセスポ
     イントとして「集う」のであれば、そこには集まる意味が
     ある。「口実であれ、真実であれ、とにかくキリストが告
     げ知らされる」場所となり得るのだ。
       trong>
      今月16日~18日、「全国青年の集い」が予定されてい
     る。「集い」の委員たちは「とにかく楽しく集まること」
     をメインに企画し、難しい勉強会や偉い講師先生のお話し
     を聞くというありきたりの修養会であることを避けた。
     「学びがない」との批判があるかもしれないが、我々はそ
     の喜びと楽しさに溢れた場所にこそ、キリストが立ち給う
     ことを信じつつ、良い集いになることを祈りたい。
  

2017.05.14の説教から

514日の説教から>
『知る力と見抜く力』
    フィリピの信徒への手紙13節~11
                牧師 三輪地塩
 
「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」
 
パウロは感謝と共にフィリピ書を語り出す。だが、いくら良い関係が築かれていたとしても何らかの問題を抱えているはずである。実際フィリピ教会は幾つかの問題を抱えていた。フィリピ教会は我々の教会と同じく「完成しつつある過渡期にある教会」なのであった。
 
パウロはこの時、恐らく肉体的に弱っていたと思われる。ここには「監禁されているときも・・・」とある通り、彼はエフェソでローマの官憲に拘束され、牢に入れられていたと考えられている。「福音を弁明し立証する」というのは、裁判や尋問を受けたことを示唆している。このときパウロは苦しく、体の痛みを覚えていた。心も痛み、憂鬱だった。だがそのパウロは「私の神に感謝し」と、「神への感謝」を述べている。
 
我々は人間的な思いではなかなか感謝できない者たちだ。聖書は「感謝」を「信仰の出来事」と捉えている。「真の感謝」は、「神を讃美すること」であり「神を告白すること」でもある。我々が利益を受けたから感謝し、不利益を受けたから感謝しない、という次元ではない。感謝は「人間同士の事柄」に留まらず、神を告白し、神を讃美する、という意味を含んでいる。神への感謝は、自分の気分次第で行うものではなく、神への信仰告白としての感謝、讃美としての感謝が成立するのである。
 
それは礼拝の出来事に繋がっている。礼拝は、御言葉の語られるところであると同時に「讃美する場所」であり、「信仰告白する場所」である。そこには神への感謝が捧げられるのである。具体的な捧げ物や、祈りとして感謝が捧げられる。絶えず神をほめたたえる生活。それこそが感謝の生活である。パウロが苦境に立たされても感謝できたのはそのためである。神を礼拝し、神への信仰を表す事から、私たちの神への感謝の生活が始まる。
 
 
 

2017.04.23の説教から

  

  

    <423日の説教から>

    『わたしを愛しているか』

ヨハネによる福音書2115節~19

            牧師 三輪地塩

エスはペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とペトロが言うと、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と言った。この質問と応答は3度繰り返される。

 

サムエル記上3章では、祭司エリのもとに居たサムエルが、主に3度呼ばれ、4度目に主の呼び掛けである事に気付く。神から特別な務めが与えられる召命の場面として語られる。だがイエスとペトロとの3度のやり取りは、召命を受けている場面のように感じない。何故ならペトロが「悲しくなった」と言われているからである。「そんなに同じことを何度も聞かなくてもいいのに・・・。という思いになっているように読み取る事も出来る。

 子供の時分、親から「宿題やったの?明日の準備はしたの?」とクドクド言われ、何と信頼されていないのか、と悲しくなった経験を持つ人も少なくないと思う。「出来ていない自分」に気付かされ、それを何度も指摘されるからこそ「悲しむ」のである。ペトロもそうなのかもしれない。

 だが、ここでの3度の問い掛けは、単に「本当にわたしを愛しているのか?本当なのか?」、という念押しではなく、まして、ペトロを信用していないから尋ねているのでもない。ここにはペトロの三度の否みの出来事が想起される。ペトロは十字架の前日、大祭司邸の庭でイエスとの関係を否定し、「違う」「知らない」「聞いたこともない」と、否定に否定を重ねたのであった。

 しかし、復活の主イエスは、3度拒否したペトロに対し、3度愛の確認をしている。これはペトロの犯した罪に対する挽回の機会とも言える。彼は汚名返上の機会を与えられ、「違う」「知らない」「そんな人は聞いたこともない」という拒否の言葉自体を「主を愛する」という3度の言葉で打ち消しているようである。

 罪深かったペトロが、もう一度主を愛する者とされる「回復の出来事」がここにある。我々は回復されるのだ。罪を犯した事は残る。だが「赦された者」と「見做されて生きることが出来る」それこそがキリストの福音である