浦和教会主日礼拝説教  マタイによる福音書9章1節-8節 2012年9月2日

浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書9章1節-8節 『子よ、元気を出しなさい』①


 ガリラヤ湖を向こう岸に渡られたイエス一行は、湖の上で嵐を鎮める主イエスの業を目にし、ガダラ地方においては、悪霊に憑りつかれた2人の男に対して、豚の群れの中に悪霊を追い出すという驚くべき仕方によって、癒しの業を行ないました。この二つの出来事を終えて、一行はまたユダヤ地方に帰ってきたのです。
 そして帰るな否や、そこで中風を患った一人の人と出会いました。出会ったというよりも、むしろ人々が中風の人を床に寝かせたまま連れてきたのです。この人たちがどういう関係であるのか分かりません。親や子供などの肉親なのか、友人たちなのか、それともたまたま通りかかった人が中風を患っているのを不憫に思い、衝動的に連れて来たのか、それは分かりません。他の福音書の同じ並行箇所では、その人が4人であり全てが男たちであった、という事が書かれています。それから最も重要な出来事として、イエスが話をし、癒しの業を行なっている家の屋根の上に勝手に上がり、屋根を剥がして中風の人の床を吊り降ろすという行為に出ているという事も記されています。しかし今日の箇所では、床を担いできた人の人数、性別、中風の人との関係などに関して、一切何も語っていません。つまりこのような並行箇所との比較をしてみて明らかな事は、マタイ福音書の著者にとっては「誰に連れてこられたか」のも「屋根を剥がして吊り降ろされた」のも重要ではなく、むしろ枝葉の事であると暗に示しているのです。

 ではマタイ福音書のこの箇所において何が中心的なメッセージなのでしょうか。それが2節の言葉に示されています。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。」

 この言葉は大変不思議な言葉であります。何が不思議かお分かりになるでしょうか。このやり取りを良く読んでみますと、まず数名の人が床を担いで来てイエスの前に現われ、そしてその信仰を見て、「あなたの罪は赦されると言った」のです。まずイエスは、「自分のところに連れてきた事が信仰である」、と理解しているのです。そしてその人の体の癒しではなく、罪の赦しに言及し、赦しの宣言をしているのです。普通に考えるならば、この4人の行動を見て、中風の人に癒しの業を与えるのが順当な行為であろうかと思いますが、しかしここで与えられたのは「癒し」ではなく「赦し」だったのです。

 ここで私たちは、信仰上最も根本的で重要な問いに辿り着くのです。それは、「一人の人間の生涯にとって、何がより重要であるのか。癒しか。罪の赦しか」。その問いを与えられるのです。
 主イエスが罪の赦しを宣言するのを聞いた律法学者たちは、こころの中で批判します。「この男は神を冒瀆している」と思う者がいたというのです。それはこの律法学者がそう考えるのも無理はないと思います。何故ならば、罪の赦しを行なえるのは神以外にありえないからです。イエスを『主である』と信じていない彼らにとって、それは神への冒瀆以外の何物でもなかったことでしょう。

 これに対して神の子イエス・キリストは、一つの重要な問いを投げかけます。「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」この問いです。これは大変難しい言葉です。皆さんはどちらだとお思いになられるでしょうか。「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが簡単な事なのでしょう。

 これは全く議論の分かれるところであります。注目したいのは、赦されたと「言う」のと、起き上がれと「言う」のとどちらが易しいか、とあるように「言葉で言う」事についてどちらが易しいか、と問うているように理解できるということです。

 現実的に考えるなら「あなたの罪が赦されたと『口で言う』」方が簡単であるかもしれません。何故なら「赦された事」は確認が出来ないからです。その反対に「あなたの病気は治ったと『口で言う』」ためには、実際に体が治らなければその言葉はウソになってしまいます。動かない腕や足が動き、見えない目が見えるようになり、話せない口が言葉を持つようになる、という事は、実際に目で見て確認する事が出来る。しかし罪が赦される事は確認が出来ない。だから「あなたの罪は赦された、と、口で言う方が易しい」と理解する事も可能でありましょう。

 しかしこの箇所の文脈から言って、やはり癒されたというよりも、罪の赦しを宣言する方が難しいと捉える方が良いのかも知れません。それは罪の赦しが目に見えないからこそ、確認できないからこそ難しい、という理解であります。

 赦しの宣言が難しい、という事は、ともすれば私たちにとってなかなか腑に落ちないものかもしれません。何故なら、赦しを乞う人「加害者」に対して、被害者があなたを赦します、と宣言すれば、謝罪と赦しは成立するからです。ですから、どうしてイエス様は、この赦しの方が難しいと考えたのか。この事が問題となります。

 しかし罪の赦し、というのは、被害者と加害者との関係の中だけで行われる単純なものではありません。ときに罪の赦しは、誰に対して行えば良いのか分からない事も起こり得ますし、赦して欲しい人からの赦しを得られないという事を起こり得るのです。

 随分昔の事になりますが、ある女性の信徒から悩みを相談をされた事がありました。その女性は若い頃、所謂人工妊娠中絶を行なったというのです。それは悩みに悩み抜き、その時の自分に育てる事が出来ないから、という苦肉の決断であったという事でありました。しかし堕胎した事による罪の意識を何年経っても拭いきれず、毎日を苦しく過ごしているというのです。
 その方はクリスチャンではありませんでしたから、水子供養であったり、何らかのお祓いのようなものであったり、色々な民間信仰的な事を試してみたけれども、小さな命を人工的に奪ってしまった事への罪の意識が日に日に増すばかりであるというのです。そしてその女性は「誰もこの罪を赦してくれない」と、そう言って嘆いていたのでした。私はそれに対して、軽々しく赦される事を語る事は出来ませんでした。何故なら私自身に赦しの権威が
無いからです。又、もし私が神様の名において赦しを宣言したとしても、この女性が根本のところで赦しを実感する事は不可能だったと思うのです。

(②に続く)

 

マタイによる福音書8章28節-34節 『悪霊を追い払う主イエス』

 ≪①からの続き≫

 私たちは、最後の34節の「すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。」の一文だけを読む時、町の人たちは、主イエスの驚異的な力、神の権威に驚愕し、この人こそ私たちの主である、と告白しにやって来たに違いないと、とっさそう考えるでしょう。しかし状況は全く違っていました。彼らはイエスに出て行ってもらいたい、という事を依頼しに来たのでした。町の人たちにとってイエスこそが厄介者であると意思表示したのです。居てもらっては困る。邪魔だ。それが町の人たちが出した結論でした。

 それは、この町が異邦人の町であった事に原因があります。ユダヤ地方では豚は不浄な動物である為、家畜として豚を飼う事はありません。ですから豚が群れをなしていて餌をあさっている事から鑑みますと、これが異邦人の町である事が分かります。8章18節でイエスは、「舟に乗って向こう岸に行こう」と言っているように、イエス一行はガリラヤ湖の東側沿岸の町に来ているのであります。

 異邦人の町ですから、ユダヤの律法、特に食物規定が適用されません。つまり彼らは豚を食べても良かった。豚は彼らにとって大事な食糧であると同時に、財産でありました。ユダヤ人たちが羊の数によってその裕福さを誇示するるのと同じように、この異邦人の町にとって、豚をどれだけ所有しているかが、その人の裕福さを示すバロメーターになっていたのです。

 時に町の人たちは、人間の命よりも、豚の命を大切にしました。それは言い換えるならば、人間の裕福さの誇示と財産の所有が、人間の命よりも重たいという価値観の中に生きていた事を示しているのです。ですから町の人たちとしては、大量の豚が湖になだれ込むなどという事は、目を覆いたくなるような出来事であり、悪霊に憑りつかれた2人の命が救われるぐらいなら、大量の豚の群れが安全であったほうが良かったのです。

 聖書はこの物語で、人の救いは、例え財産を失っても何にも替えがたいものである、と伝えようとしているのかもしれません。あるいは、「神と富とに仕える事は出来ない」、というマタイ6章24節を敷衍する言葉として、これが読まれる事を望んでいるのかもしれません。いずれにせよ私たちは、この2人の男たちが、厄介者であるというレッテルを張られ、彼ら自身が加害者でありながら、被害者でもあるという非常に複雑極まりない状況の中で、彼らが必死に救いを求めている事を冒頭で確認しました。そのような混乱をきたした人間の心の状況や、もはや自分の力では如何ともし難く立ちはだかる内的な自己破壊的な暴力行為、それはまさに悪霊の仕業としか思えないような、人間の力の及ばないような自分の悪い行いに対して、福音は何を語り、何を伝え、福音は如何なる力をその者たちに及ぼす事が出来るのか、という事を示しているのであります。

 まさにそれは、人間の罪に対して、主イエスは何を語るのか、という事を示すのです。私たちの罪は主イエスによって取り払われました。ユダヤ人であろうとなかろうと、その力の及ぶ範囲は、異邦の地にまで広がっており、それはその人々が最も大事にし、価値あると考えている物(つまり豚の群れ)の価値を超えて、人の命、人の救い、すなわち我々の救いは如何なる価値ある物にも勝って価値ある物なのだ、という事をこの箇所は示しているのであります。悪霊の滅ぼし、罪の赦しと同時に、私たちを救おう救おうとなさる主イエスの力が象徴的に示されたのがこの物語なのであります・

 豚の群れの中に、悪霊が入り込み、悪霊に取り付かれた豚が、崖から落ちて死んでしまう。何とも無残な光景です。しかしこの出来事が象徴しているのは、「この世の財産よりも、一人の苦しむ命の方が、価値が高い」「この苦しむ命が救われる事は何と素晴らしい事か」という事を示しているのです。この悪霊に取り付かれた2人は、この世の中から見捨てられ、町の中に住む事も許されず、手枷、足枷によってその自由が奪われ、彼の苦しむ命を誰も顧みる事もなかった状態にありました。だから屍のように墓に住む事を余儀なくされたのです。しかしイエス・キリストは、この誰からも見放された小さな魂の価値を認め、その価値が、この世の価値よりも遥かに高い事を示してくださったのです。町の人たちは悪霊に憑りつかれた2人に手を焼いていた事でしょう。この2人が困難で凶暴な事を誰もが知っていたはずです。しかしこの男たちが癒され、正気に戻っても、町の人たちは彼らが癒され救われた事に対して無関心であります。ただただ大切な財産を守るために、「出て行って欲しい」とイエスに告げているだけなのです。

 私たちの生きる世の中も、これと大して違いは無いという気も致します。この世の財産と、それに基づくこの世の価値観の中で私たちは生活しています。格差が更に広がりつつあると言われるこの社会にあって、この世の価値に縛られ、それを守ろうと必死になる中で私たちは生きています。しかし今日の箇所で主イエスは私たちに告げるのです。「どんなに小さな者であっても、どんな財産よりも価値高く、尊いのだ」と。
 この箇所を、私たちは第三者として聞いてはなりません。この救われた2人に対して言葉を掛けるとすれば、私たちは何というでしょうか。「救われて良かったね。」と、あたかも彼らと私たちの間に何の関係もないように語り掛けるでしょうか。しかし良く考えてみてもらいたいのです。
 彼らは自分の意志であるか否かに拘らず人に危害を加える、その罪の故に人々から厄介者というレッテルを張られると同時に、彼ら自身も罪の被害者である人たちです。彼らは墓という自らの殻に閉じこもり、人との関係を遮断して生きているのです。時に孤立し、時に人を愛する事が出来なくなり、彼らは自らのうちに籠ってしまう。

 つまり私たちは、この2人と無関係に生きているのではなく、ともすれば私たちはこの2人自身ではないだろうか、と思わされるのです。自らの罪に囚われる私たち。しかしここに書かれている恵みは、この私たちをも解放して下さる神の恵みがここにあるのだ、という事であります。この2人の絶望的な人生を、うちに籠った孤独な命を、主の御前に引き戻し、主と共に歩ませようとされるイエス・キリストがここにおられるのです。  この恵みによって、私たちは生かされているのであります。

マタイによる福音書8章28節-34節 『悪霊を追い払う主イエス』

 マタイによる福音書8章28節-34節 『悪霊を追い払う主イエス』
                  (日本キリスト教会浦和教会 主日礼拝説教 2012年8月19日)

 先日の夜中、「エクソシスト」という映画が放映されており、懐かしい思いを持って興味深く観てしまいました。これはカトリックの神父が悪霊払いをするというストーリーで、わたしとしては30年以上も前に幼少時以来でしたから、昔は怖くて画面を直視出来なかったな、という懐かしさと共に観たわけであります。1973年に公開されたエクソシストは、ホラー映画としては珍しくアカデミー賞の2部門を受賞しておりまして、当時のその反響の大きさが分かります。

 ある町に住んでいる少女が、突然原因不明の病にうなされます。母親は医者たちに色々な検査をしてもらい、原因を究明しようとしますが全く分かりません。その後、どんどんと奇怪な言動が続き、ある時には娘が寝ていたベッドごとガタガタと揺れているのを見た母親は、これは病気ではない、という事に気付きます。医者はカトリックの神父である、デミアン・カラスという司祭を紹介し、そこから悪霊を追い出す、つまり「エクソシスム」が始まり、壮絶な戦いが続いて行く、という事になるわけです。
 結局最後は、娘に憑りついた悪霊が、カラス神父に乗り移り、それと同時にカラス神父が高い石畳の階段を転げ落ちてしまい、悪霊も、神父も、両方一緒に絶命するという幕切れでありました。ああそんな終わり方だったかと、何となくしっくりといかない思いを抱きながら、調べてみますと、やはり世界各国、特にカトリック国では、この終わり方は、悪霊が勝利を収めたという印象を抱かせてしまう、という理由で、当時上映禁止になったのだそうです。正確には相打ちというか、刺し違ったという事ですから、それだけエクソシスムは壮絶な行為なのだ、という事なのでありましょうが、カトリック側としてはなかなか認める訳にもいかないのでしょう。

 このような悪霊払いでありますが、映画や小説での話ではなく、現代の特にロシア正教ではこの行為は生き続けているという事です。有名なのは、19世紀のドイツメットリンゲン村のルター派の牧師をしていたクリストフ・ブルームハルトという人の悪霊払いは有名でありまして、このブルームハルトは、カール・バルトやブルトマンという著名な神学者にも影響を与えた事で知られています。

 このように、エクソシストにせよ、ブルームハルトにせよ、色々と世に出回っている出来事や証言の数々があるとは言え、いずれにしても、悪霊払いという行為が、私たち現代人にとってはそうそう身近なものではなく、むしろオカルト的な出来事として捉えられている事は間違いありません。
 その為、この箇所のイエスの行為は、馴染み深い話というよりは、むしろ私たちを困惑させる話であるのです。この2人の男たちとはどのような状況なのか。何故ここに豚が出てくるのか。そしてなぜ豚の群れが湖になだれ込んで落ちるはめになるのか。ここから聖書は、私たちに何のメッセージを伝えようとしているのか。などなどであります。

 ですから、現代的な解釈や、又、注解書などを紐解きますと、この2人は解離性の人格障害であるとか、統合失調症であるとか、何らかの精神疾患の分類の中に彼らの症状を当てはめて理解しようと致します。当時悪霊と呼ばれていたものの多くは、確かに精神疾患であろうと考えられていますので、間違った解釈ではないと思います。むしろ病理的な観点から言うと、正しい理解であるのかもしれません。
 しかし私たちが聖書を読むのは、それを科学の分野から説き明かす事ではなく、聖書がこのように自らを読めとする聖書の要求を汲み取って読む事であります。つまりここに出てくる悪霊に憑りつかれた人たちも、豚の群れも、町の人たちも、聖書の語ろうとする内容に沿って読む事によって、その意味が浮き彫りにされてくるのです。
 
 まずこの悪霊に憑りつかれた2人について考えてみましょう。この2人は、人に危害を加える町中の厄介者であると同様に、彼ら自身も又悪霊もしくは病気の被害者である、という事が言えると思います。彼らは墓場に住んでいました。現代の我々でも墓場に住むという事が尋常な住処ではない事ぐらいは分かります。墓は町の賑わいから遠く離れた場所に作られておりまして、人里離れたひっそりとした場所に、彼らがいた事が分かります。彼らは何故このような場所に住むことになったのでましょうか。それは「そこにしか住めなかった」、というのが正しい言い方であるかも知れません。つまり彼らは悪霊に憑りつかれていたがために、厄介者であり、人との交わりを遮断され、孤立し、人を人として愛する事の出来なくなった状態にありました。彼らは自らのうちに籠っていました。それは振る舞いにしても、住む場所にしても、孤立を選び、孤立せざるを得なかったのです。彼らに近づく者はいませんでした。彼らは非常に凶暴で、人が近寄れないほどであったからです。

 ここで主イエスが彼らの場所にやって来ます。誰も近寄れない彼らの下に主イエスは出向いて来たのです。そして悪霊たちはイエスに対し「あの豚のところに追い出してくれ」と唐突に願い出たのです。そして悪霊たちは豚の群れの中に追い出され、豚は驚きのあまり、湖になだれ込んで死んでしまうのであります。大変に奇妙であり、それ故に印象的な場面であります。
 しかし彼らはなぜ豚の中に入れてほしいと願い出たのでしょうか。そもそも豚には何の意味があるのでしょうか。この物語を難しくさせているのは、この「豚の群れ」、という奇妙な対象が現れているからです。これを解く鍵は、この物語の最後で町の人たちがイエスに会おうとしてやってきた事に示されています。 (②に続く)

マタイによる福音書8章1節-13節 『あなたがたが信じたとおりになるように』②

①の続きから

 しかし私はある二つの言葉に注目したいのです。
 それは最初の思い皮膚病患者の言葉です。彼はイエスに願い出るのですが、しかしこの彼の言葉が何とも奇妙に思えて仕方ありませんでした。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」この言葉を聞いて、おや?と思った方はおられるでしょうか。そうです「御心ならば、清くおできになります」という言葉それは一つの条件を提示して、ある一定の留保がなされているように思えるからです。
 この言葉は、素直に捉えるならば、全く揺るぎのない信仰的な告白であると言えるでしょう。「御心ならば」という神の御心によって全ての事が可能である神の御子イエス・キリスト、という告白であるからです。しかも多くの解釈者がこの言葉を「立派な信仰告白である」と理解しているのです。勿論そのように読むことが出来ます。それを間違いであると言えません。

 しかし私は、この言葉にどうしても引っかかってしまうのです。なぜ「御心ならば」と言ったのか、であります。つまり、ただ盲信的に、盲従的に主イエスを信じるならば、「主よ、あなたには癒す事がお出来になる事を信じています。」という言葉で良かったのではないか、と思うからです。しかしここで彼は「御心ならば」と仮定法を使い、「そうであるならば、出来るのですが‥」というニュアンスが込められているように思います。ですからここに示された「御心ならば」というのは、この患者が「自分はその癒しに価しないかもしれない」という気持ち、もしくは「主イエスの癒しへの少なからず起こる疑問」が示されているのではないかと思うのです。読み込み過ぎかもしれませんが、もしかすると彼は、癒されなかった事を考えているのかも知れません。彼は自分の体が重い皮膚病に罹り、絶望的になっていました。どれだけの年月の間、病に侵されていたかは分かりません。しかし彼は希望を持って主イエスの下に来た、と言うよりも、ある種の希望と共に、「もし主イエスでも駄目ならば、もう絶望的である」という彼の思いの表れがこの言葉に込められているのではないかと思うのです。ここに全幅の信頼を置いてしまうと、それが駄目だった時のショックの大きさ、絶望的な気持ちを、担保するように、そのような辛い気持ちが起こるかもしれない、というある種の疑いを捨てきれず、どん底に陥るかもしれない事から身を守るように、彼は「もし御心ならば‥」と言ったのではないかと思うのです。もし駄目なら、「主の御心ではなかったから、主イエスに癒されなかったのだ」「他の癒しの手段はまだある筈だ」というように、であります。この患者の躊躇いこそが、ここに示されているのであります。

 そしてもう一箇所、注目したい言葉は、百人隊長の依頼を受けた主イエスが言った「わたしが行って、いやしてあげよう」という言葉であります。日本語訳の聖書は数多くありますが、どの聖書を見てもこのような訳がされています。文語訳でも同じように「われゆきていやさん」と訳されています。もちろん文脈から考えてそのように読むことが順当かもしれません。

 しかし一方で、ある違った読み方をしますと、これを疑問文として理解する事も出来るのだそうです。つまり「私が行って癒すのか?」という疑問。もう少し付け加えますと「私が行って癒すべきなのか?」「私が行かなければならないのか?」という疑問文であります。これは大変面白い読み方ですが、辻褄が合うのです。つまり相手はローマ人ですから、宗教共同体の外側に属する者たちでした。ローマにはローマの伝統的な医療が発達しています。それはイスラエルのそれよりも明らかに進歩した当時の最先端の科学技術であったと思われます。ですから百人隊長の特権を使えば、イエス・キリストの癒しではなく、ローマの技術と財力でしもべを癒す事は、選択肢として最も順当なものであると言えるのです。

 ですからイエス様は、「え?私が癒すのか?」という意味でこのように言ったとしても、これは考えすぎと言うよりも、むしろ辻褄が合うと思うのです。人を癒す事に気の進まない主イエス、というのは、何となく受け入れがたいように思われるかもしれませんが、それは私たちがイエス・キリストの形を固定化しているからに他なりません。福音書の他の箇所には、シドン・ティルスの異邦人女性の懇願に対して「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」という言葉があるように、癒す事に気の進まない主イエスの姿は、聖書はいくつも報告しています。このように考えると、このローマ人への躊躇は、あって然るべきであると思うのです。

 しかしここで重要なのは、この百人隊長の信仰です。それは単に「信じています」という上辺だけの言葉ではなく、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」という告白です。これは自分が異邦人であり、ユダヤ的な救済や、恵みの中に居ない事をみずから宣言している言葉です。アブラハム・イサク・ヤコブの神、すなわちイスラエルの神の恵みは、私たちにないかもしれない。しかしこの神の救いの権威を主イエスが持っている、という事を宣言しているのです。ですから軍隊の上司が部下にトップダウンで命令系統が繋がるように、あなたの持つ権威が、あなたの命令によって、トップダウンで私の身に、すなわち私のしもべの身に起こるでしょう。という事であります。主イエスはこの大胆な告白を認めました。そしてそれを彼の信仰と捉え、受け入れたのであります。

 重い皮膚病の患者は、自分自身が疑いの中にありました。大丈夫か、本当に自分は神様の御心に適うのだろうか、という癒しに対する躊躇いがありました。そしてローマ兵の方では、主イエスの方に、躊躇いがあったように読む事が出来るとお話ししました。しかしこのいずれにしても、これらの躊躇いを打ち破ったのは、信仰でありました。重い皮膚病の患者は、これだけ躊躇しているにも拘らず、大胆に主イエスに近づきました。自分が社会的に排除される民である、という当時の社会通念や倫理を超えて、主イエスへの信仰を大胆に表したのです。「御心ならば‥」と自分の立場を留保していたにも拘らず、彼の行動はストレートなものでした。もしユダヤ当局に見つかっていたら、捕まってしまうかもしれません。しかしその障害を越えて彼は主イエスに近づいたのです。
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 同様に、百人隊長も同じく疑いがありました。それは神の側の疑いであります。言い換えるならば、この恵みが異邦人である自分にとって何の意味があるのか、どのようなものをもたらすのか、に対する疑問であると言っても良いかもしれません。彼はローマ兵ですから、このような自分が、神を信じるなど意味のある事名のだろうか、と神の側が思っているに違いない、とする疑いと理解することも出来るでしょう。

 しかし彼らの姿を見て思うのは、神を信じる事、神への信仰とは、まさにこのような歌がと迷いの中で起こる、動的な、ダイナミックな営みなのではないかという事であります。私たちは信仰を、見切り発車の出来事として捉える事は出来ず、固い信念に基づいて、ゆるぎない神への信頼が無ければ信仰者になる事は出来ないと考えがちではないでしょうか。
 でもそうではないのです。あの思い皮膚病患者や百人隊長のように、多くの疑問や疑念を超えて、「信じる」という一点においてのみ可能とされる営みなのであります。「信じる事」と「疑う事」は、信仰において相反する事ではありません。むしろあのイエスの12弟子のトマスが信じて疑ったように、あのヨブが、信じて疑ったように、預言者エレミヤが信じて疑ったように、私たちは疑いの中でさえも、神を信じる事が可能であるし、そうする事も又、信仰なのであります。
 今日の聖書には、信じた者たちが癒されました。それは単に医療的な治癒行為が成就された、という事だけではなく、神を信じる思いが、一つの姿をとって、その人の信じた、最も必要な形として与えられる事を示すのです。
 「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」。この言葉を信じて、この言葉に導かれて、ここに集うもの全てが、あなたの信じたとおりになるように、という主の宣言を受けるような信仰を持ちたいものであります。  

マタイによる福音書8章1節-13節 『あなたが信じたとおりになるように』①

マタイによる福音書8章1節-13節 『あなたが信じたとおりになるように』 2012年7月15日


 イエス・キリストが語った「山上の説教」と呼ばれるものがありました。それは文字通り山の上で話された説教、訓話でありました。山の上では、たくさんの人たちがその話に聞き入っていたようです。お話しが終わると主イエスは山を下りました。しかしその教えに共感した人たちは、その後も一緒にぞろぞろとついて来たようです。
 マタイ福音書にとって「山」というのは特別な場所と考えられていました。山上の説教を語る場所としての「山」、そして主イエスの顔が光り輝いて、モーセやエリヤと山の上で話し合っていた、という事も又山の上で起こった出来事でした。このような非日常の出来事が山の上で起こったのです。
 しかし反対に、山を下るとそこは日常であり、日々の生活の場であります。人間同士の語り合い、支え合いなどの喜びと共に、人間関係のもつれや、厄介な日々の労苦が交錯する場でもあるのです。そのような日常の中で主イエスが一番最初に出会ったのは「重い皮膚病を患っている人」でありました。この人から病気を治してほしいという願いを受けるのです。この病気の症状や対処法はレビ記13章~14章に詳しく示されております。
 昔のユダヤ人たちの律法に従うと、「重い皮膚病」の患者は「伝染病の保菌者」と考えられておりまして、人と交わる事が厳しく禁じられていました。しかし実際、この「重い皮膚病」という病気が何を意味するのかは分かっていません。かつてこの言葉は「らい病」と訳されてきましたが、ここ数十年の研究で、これが我々の意味するところの「らい病」つまりは「ハンセン病」ではないという事が分かってきました。それで「重い皮膚病」と言い換えるようになったわけです。では現代的にはこれがどういう病気であるのか、という事は興味のあるところかもしれませんが、その辺りは不明であります。感染力のある皮膚病も、そうでない軽度の皮膚病も「重い皮膚病」に含まれていたようです。つまりここで言われているのは、単に感染力があるかどうか、病気の重さ、その症状が悪化しているかどうか、というよりも、もっと社会的な問題がこの患者を悩ませていたのではないかと考えられます。彼らの悩みを深くさせていたのは、肉体的な苦しみのみでなく、宗教的に「不浄な人たち」と呼ばれ、社会共同体から排除されて生きる事を余儀なくされる事でありました。つまり彼らは排除された者たちであり、アウトカーストでありました。社会の最下層民として生きる人、それが「重い皮膚病」の患者であったわけです。
 その最下層民に対して主イエスは、彼の懇願を聞き入れ、本来隔離されている筈の彼の体に触れ、「よろしい清くなれ」と言って、その病気を癒してあげたと記されています。不浄の民に御自ら近づいて、手を差し伸べる。それはあたかも、赦されざる罪を犯した我々のもとに近寄り、十字架によって「死に至る病」を取り払って下さった主イエスの姿を予期させるものでありましょう。
 このように一人の病人を癒した主イエスでしたが、その癒しの働きは次の話にも続きます。今度は百人隊長がでてまいります。百人隊長という事によって彼がローマ帝国の軍隊制度の中にあるという事が分かります。ローマの軍隊には10人一組の小隊である、十人隊、その上には100人一組の百人隊、その上には1000人隊、というのもあって、それを統率するリーダーがそれぞれおり、それを十人隊長、百人隊長、千人隊長と呼ばわれていたわけであります。つまりここに出てくる百人隊長は、位の決して低くない軍人であり、反対に、それほど高いともいえない、言わば「中間管理職」でありました。
 この百人隊長が、「わたしのしもべが中風で寝込んでいる」と言って、癒される事を懇願しています。この「しもべ」とは誰を指すのかは明らかではありません。これは「若者」や「青年」と訳される事も可能な言葉であります。ですから彼の身内や使用人である可能性も無くもないと思います。しかしここで「中風」になっているという事から考えますと、若者と言うよりも、もう少し大人の「百人隊に属する兵士」と考えた方がよさそうです。
 いずれにしてもこの百人隊長は部下思いの人であり、おそらく人望の厚い人であったように思います。この隊長の命令に従い、命を懸けて戦う一人の兵士の命に関して、この隊長はこれを放っておくことは出来なかったのでありましょう。
 そこに主イエスが通りかかります。この百人隊長は、最初に出てきた「思い皮膚病患者」のように社会から排除される者ではなかったのですが、しかしローマ人でありました。イスラエルの律法においてローマ人、つまり異邦人を宗教的共同体の中に入れる事はありませんでしたので、支配者であると共に「嫌われた者たち」であり、言い換えるならば自分たちの共同体から排除したい人たち、という事でありましょう。支配者でありながら近づかせたくない、というのは、不思議な感じもしますが、しかし支配者であった頃の日本軍に対する被支配者の思いや、在日米軍に対する複雑な感情を持つ沖縄の人たちなど、現在でもこのような複雑な感情は起こり得ます。
 とにかく、このような共同体外の彼の訴えを主イエスは聞き入れたのであります。百人隊長はこう言いました。「百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
 イエスはこの言葉を「立派な信仰である」と見做し、彼の願いを受け入れたのです。そしてその信仰の故に、しもべの病は癒されたのです。
 このような一連の癒しの出来事であります。主イエスの治癒行為、奇跡物語は聖書の中、とりわけ福音書の中には数多く出てまいります。そして私たちは今日の話を、「病を癒された」という事柄に関しては、何の疑問も無く受け入れる事が出来るのではないかと思うのです。
 
(続く)

マタイによる福音書7章1節-6節  『目の中の丸太』 2012年6月3日

 マタイによる福音書7章1節-6節 『目の中の丸太』 2012年6月3日


 今日の箇所を初めて読んだとき、最も印象的な言葉はどれでしょうか。読む人によって印象と言うのは様々でありますが、特に「目の中のおが屑、目の中の丸太」という言葉に驚かせられるのではないでしょうか。
 以前この教会にも伝道礼拝でお呼びした事がありますが、宮田光男という先生がおられます。この方の専門は法学と政治学なのですけれども、キリスト教神学の研究者としても知られております。その著作の中に、「キリスト教と笑い」という本がありまして、その中で彼は、このように述べております。「主イエスが涙を流したという事は書かれているけれども、イエスが笑ったという事は書かれていない。しかし聖書の中にもユーモアや笑いが隠されている」。このように言うわけです。そして新約聖書の中にあるイエスのユーモアの一つとして、実は今日の箇所の言葉が示されております。それこそが「目の中の丸太」という言葉であります。その著書の中でこのように説明しております。「目の中の丸太などという、ありえない事柄が譬えとして誇張されて語られ、それを聞いた民衆は、自分の罪に気付かない自らを省み、自己アイロニー的な笑いを浮かべただろう」、と、このように解説しているわけです。
 確かにこの箇所の言葉は、譬えとしてやや誇張された感があります。自分というのは、もっとも自分が見えていない。自分の罪などは全く見えていない。目の中に丸太ん棒のように大きい罪があったとしても、それにすら気付かない。そのような意味をもって主イエスはこの譬えを語っております。ですから聞いた人の中には少なからず笑った人がいたのでしょう。確かにその通りだな、と感じながら、自分の罪深さを皮肉って笑ったのでしょう。しかし内容的には非常にシュールであります。

 ここには「『あなたの目からおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えようか」とありますが、ルカによる福音書では、「『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えるだろうか」とあります。この「さあ」というのは丁寧語でありまして、いかにも親切心や兄弟愛から出ているような、そういう感じが強められている、そのための「さあ」という言葉であります。つまり今日の箇所においても、同じように、親切心を装いながら、実は慇懃無礼なほどに、自分が絶対であるという思いと共にこの言葉が語られるろいう事が伺えます。
 「『あなたの眼の中のおが屑を取らせて下さい』という人は、物腰穏やかに、親切心からそれを言っているように思えるけれども、実はそうではない」と主イエスはいうのです。私たちがこの世の中で最も分からないのは、自分自身であります。一番近くにいても、誰も見る事の出来ないのが自分自身であります。人を裁き、人の欠点にばかり気づき、そこに目をやり、赦す事の出来ない私。それが人間であるのです。

「人を裁くな」という教えは、私たちも度々聞いているところであります。特に教会の中でよく、本当によく聞く言葉であります。しかし度々この事が問題になる。それは教会で度々言われているけれども、この世から一向にそれが無くならない、という事を示すのです。
人を裁く、という事は、そもそも私たちの関心がどこにあるのかを示しているように思います。つまり、「人が何をしているのか」。という事です。人に関心がある。人のやる事に関心を持つ。それだけをとれば、決して悪い事ではないと思います。しかしそれは、人のやる事に、評価を含む、という事に繋がり、そしてその評価の優劣をつける、という事になっていく。つまり人が行う事が、「その人に適っているか」ではなく、「自分に適っているか」という事によって、判断を下すのです。それが人を裁く事であります。結果として人への関心は、自分の考えと異なる点を見つけ、そこを糾弾するという事への関心となっていく。それは主イエスの言われる「人を裁くな」という事なのです。

 では、人が罪を犯していた時はどうなのでしょうか。人が罪を犯しているのを横目でみながら、「人を裁くな」と言われているから何も言うまい、といって、その罪を放置する事はどうなのでしょうか。しかしそれは「無関心」となってしまいます。その行為を指摘する事から逃れている無関心であります。ですからこの違いが大変難しいのではないでしょうか。裁くな、と言われているけれども、何が裁く事であり、何が裁く事でないのか。その判断が難しいのであります。

 ある説教者は、裁くという事に関して次のように言います。
「たとえキリスト者であっても、一人悦に入り、自分こそキリストに従っている唯一の者だと誇っているなら、それは人と自分を分離するだけでなく、キリストと自分を分離しているのです。イエスに従う者は、イエスと結びつきます。それはイエス・キリストを私たちを裁かず、私たちの罪を負って下さったからにほかなりません。それで私たちも、兄弟や隣人に距離を置いて、その観察者となるのではなく、兄弟の罪に対しても、自分の責任を感じ、その兄弟としっかりと結びつくのです。そうでないと、私たちは、イエス・キリストの観察者になり、その結果、隣人をうがって観察し、人の批評の対象とします。」(蓮見和夫『マタイによる福音書127頁』)とあります。

 人への関心を持つ事は素晴らしいことであります。マザーテレサの言うように、愛するとは「関心を持つ事」に他ならないからです。しかし関心が観察になるとき、私たちはそこに責任を持たず、批評家になっていきます。批評は責任を持ちません。愛があっても無くても出来るのです。自分の子どもを叱る時、そこには責任が伴います。その子の成長を願い、良い事悪い事の判断が出来る子になってほしいと望むから叱るのです。しかし叱る自分にも責任が伴います。今叱っている自分が、もし自分の気分や感情によって叱っているなら、無用な叱りになる、そのような事を考えて、自分の行動にハタと気付かされる事もあります。つまりそこには、子どもを観察する親ではなく、子どもに責任を持って関わり愛する親が存在するのです。関心は責任を伴います。責任は愛を伴います。しかし関心から愛が抜け落ちれば、その関心は、単なる「観察」になり、そのとき私たちは「傍観者」となってしまうのです。

 隣人と距離を置き、隣人を観察するとき、その隣人を愛
せよ、と命じられたイエス・キリストを傍観する事になります。キリストを傍観し、あの教えも、あの受難も、そしてあの十字架と流された血をも、私たちの観察対象となっていくのです。その時、私たちは、キリストの救いを傍観します。この救いは私たちには関係ないと。この救いは、人類の罪のためとは言うが、しかしそこには自分の罪はない、と、十字架を観察するのです。もはやそこにいる「私」という存在は、「キリストの第二者」ではなくなり、第三者として、傍観する「私」となるのです。つまり人間とその罪を贖うキリストの繋がりとは、無関係なところに「私」を置く時、それは、「私」の罪を傍観する事になるのです。

 「人を裁くな」という命令は、他者に対する命令でありつつ、しかしそこに立っている自分自身を省みること、もう少し付け加えるならば、そこに立っている自分自身の「罪」を省みる事に他ならないのであります。あなたの罪を見ずして、他者の罪ばかりを見ようとすること。その事を言っているのです。だからこそ、自分の罪を棚に上げて人の罪ばかり見ようとする事に対して、主イエスは、目の中にある、大きな大きな丸太に気付かず、もしくはそれを見ずして、他者の小さな罪を指摘するな。「そのおが屑は、ああであり、こうである。」と述べる事はするな。と、主イエスはおっしゃっているのであります。
 人間の罪と、その罪が贖われるということが、まことに自分の問題であると感じるならば、人の罪ではなく、自分の罪を意識せずにはおれないと思うのです。

 ドイツの神学者カール・バルトが、晩年、刑務所で説教していた時、人にこう言ったそうです。あそこでは「あなた方は罪人です」と言う必要はありません。彼らはその事をよく承知しているからです。あそこで必要なのは、「皆さんに説教している、この私も罪人です」ということなのです、と、このように言ったといいます。(蓮見和夫、前掲書、129頁)
 ここに示されているのは、人間の間にある罪の問題は、神の前ではどれも等しく、罪人である、という事実だけが私たちの実存的な存在として立ち上がっているという事であります。それは、多かれ少なかれ、私たちは罪を犯すし、その違い、その差異に関して、どちらがどうであると罪の度合いを批評し合う事は、そこに神不在の状況を作り出す事になってしまう、という事なのです。私たちは全てが罪人です。しかしあの人の罪は大きい、しかし私の罪は小さい、というやり取りは、そこに神の恵みが立ち上がる事を拒む営みとなるのです。
 すなわち、私たちには、私たち人間という存在には、神の救いが必要なのであると祈り合う事。そして私たちの間には、キリストの罪の贖いが無くては、私たち自身が存在し得ない事を、共に認識し合う事。それなくして、我々人間同士の、本来的な交わりと、関係性は、築きえないと思うのです。

 人を裁く事は、裁き合う事の中には、イエス・キリストの十字架は立ちません。相手を愛し、その罪の中に共に生き、その罪が私の罪と共に贖われている事を、その相手と共有し、共にその恵みを受け取り合う時にのみ、そこにキリストの赦しと贖いの十字架が立ちうるのです。
 私たちは、人を評価し、批評し、主イエスと切り離された生き方を選び取るのではなく、主イエスと結び合わさっている時にこそ、真の意味で他者とも結び合わされる事を、今ここに覚えたいのです。隣人との繋がりは、キリストとの繋がりの中にこそ成り立つのであります。

 (浦和教会主日礼拝説教  2012年6月3日)