2017.2.19の説教から

<2017.02.19の説教から>
『二人の”隠れキリスト者”』
               ヨハネによる福音書19章38節~42節
                                         牧師  三輪地塩
 ニコデモは、カクレキリシタンならぬ「隠れクリスチャン」であった。人目を忍び、表立ってイエスのシンパであることを公言することは無かった。だがイエスを信じ、彼の教え、行動、考えを支持していた。彼は「議員であった」。
 ニコデモはすでに3章と7章に登場した。7章では、ユダヤ教の宗教的指導者たちが勢揃いし、なんとかイエスを逮捕しできないものかと相談している場面で、ニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と、イエスの逮捕を見送るような発言をしたのがニコデモであった。3章のニコデモは、真夜中に人目を気にしてイエスへ近づいたのであるがそこから比べると、議論の中で公にイエスを弁護するような発言をするまでになっており、少しイエスに近づいたのであった。
 そのニコデモがイエスと関わる最終的な行動は、「十字架から降ろす」という大役であった。「隠れ」であった彼が、批判される危険を顧みず、議員という立場にありながら、当局の反逆者とされるイエスを十字架から降ろしたのである。ニコデモは、没薬と沈香を持っていた。没薬は主イエスが誕生した時に東の国の博士たちによって贈られた香料である。体に塗る事によって腐食を防ぐ効果がもあったところから、地位の高い人を葬るための香料とされていた。沈香(じんこう)というのは、日本では「伽羅」(きゃら)として親しまれ、重宝されている香木である。ニコデモは、このような最高級の没薬と沈香を携えて、イエスを丁寧に葬ろうとしてやって来たのであった。
 「議員」は、地位が高く、当時としては人間の誉れ、栄光、成功の証しであった。しかし当初人間の誉れを望んだ彼の人生は、キリストと共に生きる時、「十字架の栄光」という逆説的な神の恵みに触れ、福音の逆説に生きることを選んだのである。
彼はもはや、ユダヤ人を恐れず、公然とイエスと共に生きようとしたのだった。十字架の終わりが、全ての終わりではなく、キリストとの歩みの始まりでもあることを表している。彼は、夜に隠れず、ユダヤ人を恐れず、キリストの十字架の救いと共に歩み始めたのであった。

2017.02.12の説教から

<2017年2月12日の説教から>
『その骨は一つも砕かれない』
ヨハネによる福音書19章31節~37節
   牧師  三輪地塩
 
 十字架上で脇腹を槍で突かれたイエスの体から「血と水とが流れ出た」と聖書は伝える。大変興味深く不思議な箇所である。
 水と血の「霊による一致」は、それらに分かち難い繫がりを信じ、告白することであり、ここにキリスト教信仰の重要な点を見出すものである。日キの引退牧師である
蓮見和夫は、その著書『ヨハネによる福音書』の中で、次のように語る。
 「私は若い頃、浄土真宗に出会い、「キリストにしようか親鸞にしようか」というところまでゆきました。その時、一つの大きな経験をし、キリストの十字架が目の前に現れ、(所謂回心の経験をしました)。今思うと、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われるということでは、満足できなかったのでしょう。阿弥陀仏は、理想の仏で、地上に受肉していません。それゆえ、十字架にかかりもしません。そこには、神が血を流すまで闘い、苦悩することはありません。それなら、人間は安易になって、救いがあるからと言って、罪を犯すかもしれません。神は救いの重大さと、私たちの罪の大きさを知らせるために、御子を十字架につけ、その血のあがないによって、救われるようになさったのです」
 
 十字架の上から流れ出た血は、我々の「罪の血」であり、水は「罪の赦しの徴」である。だが同時に、槍で突いた兵士こそが我々自身、つまり「罪を犯した側に立つ我々そのものだ」という事でもある。十字架上で流された「血」と「水」は、この完全なる犠牲の子羊として捧げられたキリストの血を証し、洗礼による赦しの約束を示している。

2017.02.05の説教から

              <2017年.2月.5日の説教から>
               『「渇く」 「成し遂げられた」』
            ヨハネによる福音書19章28節~30節
                                    牧 師   三 輪 地 塩
 「成し遂げられた」とイエスは言う。このギリシャ語「テテレスタイ」の名詞形は
「テロス」である。「テロス」は「終わり」「目的」という意味を併せ持つ単語である。
 
 イエスは地上の生涯を「終えた」のであるが、むしろ我々は「終わりによって始まったこと」を読み解かなければならない。「テロス(テテレスタイ)」とイエスが語る時、第一に、「人間的な事柄の全ての終わり」が意味される。死が人間の生涯を終わらせるように、この世の可能性が終ったことが示される。十字架において、人間は弱い存在として、暴力と痛みと苦しみの中で「終わる」のである。
 
 だが一方で「テロス(テテレスタイ)」には「目的が果たされる」という意味もある。
「終わり」は神の視点から見ると「目的の成就であり、終わりではない」。つまり「目的が果たされる」という意味もある。「終わり」は神の視点から見ると「目的の成就であり、終わりではない」。つまり「人間の可能性」の観点からは終わりを告げるが、神の観点からは終わっておらず、ここから「神の確かな命の開始」が告げられるのである。それが十字架である。
 我々は歴史の中を歩んでいる。歴史は、人間がこの世に生を受けてから死ぬまでの間に「何があったか」「何を成し遂げたか」が記録されるのである。だがどんなに偉大なことをした偉人、有名人、時の権力者であったとしても、人の命には限りがあり、時間と空間の制約を受けた中で、私たちはその命の終焉を迎える。これが肉の限界である。
人間の命、人間の歴史というものは、命から死へ、誕生から死に向かうプロセスを通って、紡がれていく。
 だが、キリストの十字架において起こった事柄は、「死から命へと移っていく」という、歴史の倫理の逆転が起こっている。それがイエスの言葉「テロス(テテレスタイ)」に示されている。我々は、この世の常識、「命から死へ」という順序から、「死から命へ」という神の新しい順序へ開かれている。それは我々の常識的な時間や空間、歴史の秩序を無視した展開である。神学者の深井智朗は次のように言う。「すべてが終わった後に始まったこと、これが福音の論理である。つまり人間のあらゆる可能性が終わり、そこから神の可能性が始まるところに説教者と会衆は立っているのである。」と。

2017年1月29日の説教から

 
 
 

      <129日の説教から>
        ゴルゴタにて
    ヨハネによる福音書1916b27
                 牧師 三輪地塩
 「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と十字架の上に罪状書きされた言葉
(文字)が重要である。これはラテン語では
IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」であり、頭文字4つを取って
INRI」となる。イエスの十字架を描く絵画や映画などでは、こう書かれた
看板が掲げられるのを目にするだろう。「ナザレのイエス」は、当時沢山いた
「イエス」という名に、町の名「ナザレ」を付け、バラバ・イエスでも
バル・イエスでもなく十字架に掛かったのは「ナザレのイエス」であると
 個人を特定をしている。「ユダヤ人の王」とはイザヤ書53章の「主の僕」を
想起させる弱々しさの象徴である。
しかしヨハネ福音書は、ラテン語以外にギリシャ語とヘブライ語の表記も
掲げられていたとしており、これは実は大変重要である。
ギリシャ語では
ησος Ναζωραος Bασιλες τν ουδαίων
(イエスース・ホ・ナゾーライオス・ホ・バシレウス・トーン・イウーダイオーン)と書かれていたと
思われる。注目すべきはヘブライ語であり、恐らく、
ישוע הנצרי מלך היהודים
(イェシュアー・ハー・ノツリー・ウーメレク・ハー・イフーディーム) と書かれていたと
考えられる。イェシュアーの頭文字はアルファベットで「Y」に相当し、
「ハーノツリー」は「H」、「ウーメレク」は「W」、
「ハーイフーディーム」の頭文字は「H」に相当する。
これらを合わせると「YHWH」となり、読み方は「ヤハウェ」=「主」
となる。主イエス・キリストの「主」「Lord」である。つまり、ラテン語で
INRI」と書かれていたあの罪状書きは、キリストの弱々しい姿の象徴であ
り、無残な姿を象徴するものであったが、これをヘブライ語にすると、
口に出して読む事さえも躊躇われるほどの聖なる呼び名「YHWH
(ヤハウェ)を表し、この十字架の人が「弱々しく捨ておかれる犯罪者」
ではなく「主にして聖である、メシア(キリスト)なのだ」と言い表わして
いるのである。この「主なる方」によって救いは到来したのである。
 

2017.01.22の説教から

<1月22日の説教から>

『民衆のシュプレヒコール』
ヨハネによる福音書19章8節~16節a
牧師  三輪地塩
 この時彼らが叫んでいた「殺せ、殺せ」というのは、悲惨な出来事を予測させる言葉である。まさに我々人間そのものをを象徴するかのような、悪と憎しみに満ちた要求である。ここにはキリストヘイトが示すのは、人は憎しみに先導され、憎しみに我々の目は眩み、憎しみと殺意が我々の原動力になってしまうことである。残念な事に、善意や、愛の力に勝って、我々人間、はヘイトの力、悪の力、敵意の力に屈してしまう、あるいは、屈し易いと言わねばならない。
 2017年になり、我々人類は大きなチャレンジを受けている。憎悪と偏見と蔑視に扇動される人間の姿が世界各地で確認されているからだ。ヨハネ福音書は、このような、新しい時期を迎えた我々に、今日の箇所を示す。「殺せ、殺せ」と一斉に叫ぶユダヤ人の言葉は、ギリシャ語の原文では「アローン、アローン」である。
「アローン」とは、「殺す」「片づける」「取り除く」という意味の「アイローン」の命令形。
「殺せ、殺せ」と言い、神の子イエスを十字架に架けようとしている。殺してしまって、
この厄介な「神の子を自称する者」を「取り除いて」しまおう、という民衆の心理がこの言葉に示される。
 しかし我々は、ヨハネ福音書1章29節の、洗礼者ヨハネの言葉「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見ていった。見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」に
注目しなければならない。「この世の罪を取り除く」、と宣言されたキリストは、
自分自身が取り除かれるシュプレヒコールと共に人類の罪を取り除かれたのであった。

2017.01.15の説教から

<2017年1月15日の説教から>
『わたしはあの男に何の罪も見いだせない』
ヨハネによる福音書18章38節b~19章7節
                               牧師  三輪地塩


ピラトはユダヤ人たちに問いかけた。「ところで、過越祭にはだれか
一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の
を釈放してほしいか。」

 ピラトははイエスを解放しようとしたがユダヤ人たちの答は「その男だ

ない。バラバを」であった。バラバは十字架の「赦免」の場面にしか出

てこないが、キリスト教界では有名な人物となった。マタイ福音書ではバ

ラバの罪状については触れず、マルコは「暴動時の殺人」と伝える。

ルカ福音書は「殺人」ヨハネ福音書は「強盗」と書かれている。おそらく

は、ローマ帝国への武力抵抗を訴えた熱心党(ゼーロータイ)の一員

だったのではないかと考えられる。

 「バラバ」という名前、「バラッバース」というのが言語での読み方であ

が、「バル」(誰々の子)、「アッパース」(人物名)で「アッパースの子イ

ス」という事になる。

 これは大変興味深いことである。19章7節で「わたしたちには律法があ

ます。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称した

からです。」と言われているように、「神の子と自称した」ことを罪状にし

ているからである。

 つまり、ピラトはユダヤ人に二つの選択を迫っているのである。「アッ

スの子イエスを釈放するか」それとも「神の子イエスを釈放するか」の

選択である。民衆は、神の子と━どこの馬の骨とも分らない輩である━

アッパスの子のうち、後者を選択したのである。何と愚かなチョイスであ

ろうか。

 ピラトはイエスを民衆の前に引き出し、「これで勘弁したらどうだ」という

意味を込めて「見よこの男だ」といった。由木康作詞の121番の讃美歌

は「~この人を見よ」が1~4番の全てでリフレインされる。特に4番は「

この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は、あらわれたる。この人を見
よ、この人こそ、人となりたる、活ける神なれ」と歌われ、「この人を見

よ」何度も繰り返される。「この人」とは、決してアッパスの子などでは

く、真の神の子である、という信仰告白をこの讃美歌の中に見いだす。