2018.01.14の説教から

114日礼拝説教から》
         『彼らのかたくなな心を悲しみながら』
          マルコによる福音書31節~6
                                牧師 三輪地塩
 
 蓮見和夫著『マルコによる福音書』には次のような話がある。
「オランダでの出来事。ある日曜日に大きな高潮があり、今にも堤防が決壊しそうな状態であった。オランダの国土の多くは海よりも低いところにあるため、堤防の決壊は、大惨事に繋がってしまう。オランダの警察はキリスト教会に対し、教会の信徒たちを動員し、決壊を防ぐための工事を手伝って欲しいと要請した。だが、この緊急要請に対し、ある保守的で戒律的な教会は、その要請を断ったという。その理由は「安息日の掟を破るわけにはいかないから」だったという。彼らは、「我々が礼拝を守るなら、神は奇跡をもって助けてくださるでしょう」と主張した。しかしその間も、堤防決壊の危機は増していった。そこにある信徒がマルコ3章「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」との言葉を引き合いに出し、教会員は皆説得されて工事に加わった」
このような話である。おそらく相当に脚色されているか、或いはフィクションかもしれないが、しかし戒律や規則と、実質との事柄を考える大変興味深い話しです。「保守的で戒律的な教派」と言われているのは、おそらくオランダ改革派教会のことであろう。この話は極端な描き方であるが、これに近い事は実際に起こり得る。我々日本キリスト教会にも、教会法(教会の憲法・規則)に固執するがあまり、似た事例がある。又、教会だけでなく行政の画一的なやり方でも似たことが起こる。
日常生活においては、堤防が頻繁に決壊するという事はないが、苦しんでいる人に無関心になる事は起こりがちであろう。「命を救うのと、殺すのと、どちらがよいか」というイエスの言葉は、我々の身の周りでいつもなされるべき問いである。この主イエスの問いかけに、我々がどのように答えるべきかは、一人ひとりに委ねられた課題である。信仰に「マニュアル」はない。その時、その場所で、主が与えられる「問いかけ」に、如何に耳を傾けるのか。そこに掛かっている。

2018.01.07 (新年礼拝)説教から

201817日(新年礼拝)説教から》
                『与えられる神』
             マルコによる福音書22328
                                 牧師 三輪地塩
 「安息日を覚えてこれを聖とせよ」という十戒(第四戒)の言葉は現代人に多くのことを伝える。出エジプト記2312節に「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やロバが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」とあるように、安息日とは、人間が生き、仕事をするための重要な休息の時間である。興味深いのは、イスラエル人だけでなく、奴隷や家畜たちを休ませよ、と言われていることにある。
当時は奴隷制社会であった。奴隷は、自分の命を主人に預けているので、生きるのも死ぬのも主人の胸三寸であった。今でいう「基本的人権の尊重」「生存権」はなかった。奴隷が死ぬと、また新しい奴隷が補填された。
 これは現代の労働環境問題にも通じる話である。ブラック企業などと言われる法定基準を無視した労働環境を従業員に強いる会社が増えている昨今。使役動物のように働き、会社の歯車として一生懸命に尽くしても、必要がなくなると新しい人が補填される。当時の奴隷の状況に似ている。だが視点を変えると、ブラック企業を作っているのは、我々消費者であるとも言える。「お客様は神様」などという決まり文句が1970年代に始まり、我々消費者は過剰なサービスを求め、客を神のように扱う事を当たり前とする風潮が出来上がってしまった。日本社会は歪な消費者至上主義社会であると言える。
 旧約聖書は、その最初(モーセ五書)から人間の尊厳のみならず、神の造り給う「すべての命」の尊厳が守られることを宣言している。
 神の御言葉(律法・十戒)は、すべての命が尊重され、神の被造物として生きる権利と「責任」を指摘する。或いは、神の愛された被造物として生き「させる」責任を指摘している、と言った方が正しいかもしれない。現代社会に広がる労働の環境は、私たちの罪が重ねられた結果であることを見つめ直し、共に社会を生きる隣人を愛し、尊厳を守り、我々は社会活動・消費活動を行うのである。

2017.12.31の説教から

              <1231日の説教から>
            新しいぶどう酒は新しい革袋に」
        マルコによる福音書218-22
                                                      
                                  牧師 三輪地塩
 ここには二つの譬えが語られる。一つ目は「新しい布ぎれを、古い服
に縫い付けることはしない」こと。二つ目は「新しいぶどう酒は新しい革
袋に入れる」こと、である。脈絡なしに書かれているように見えるがそう
ではない。着物とぶどう酒は、当時の結婚式に必要な物の象徴である。
 
 イエスは「新しさ」と「古さ」について教える。まださらしていない新しい
布切れは縮むため、古い布を引きちぎってしまう。新しいぶどう酒を革袋
に入れて発酵させる場合、すでに使い古して伸びきった皮袋に入れる
と、若いぶどう酒は発酵が進み、パンパンに膨れ上がり、しまいには皮
を破いてしまう。つまり、「布」も「革袋」も、新しい物に対して新しい物を
使うことが重要である。
 
 キリスト教信仰においても似ている。古きものを重んじつつ、日々新し
くなっていくことによって信仰者は成長し、教会は成長する。「正しい信
仰者」は存在しないが、「ある特定の時代に限定された、正しい(と思わ
れる信仰者)」なら存在するかもしれない。人間の倫理観や正しさは、い
つも流動的だからである。つまり我々は、いつも時代と共に歩み、時代
の倫理観や文化的制限と共に、限定的・過渡的・暫定的な「正しい信仰
(者)」であることを求める。かつて、魔女裁判なるものが横行したが、当
yle='font-family:"serif";'>時の倫理観では、それは許される「(キリスト教)倫理的行為」であった。
今では考えられない。
 我々は、永遠から永遠に変わらないのが、三位一体なる神のみであ
ることを信じつつ、世の中の事象に目を凝らして歩む民である。決し
て、時代に迎合し、おもねって生きるのとは違う。信仰により日々新た
にされることは、時代を愛し、世界に関心を向け、隣人を大切にする事
によって、生活の中でそれがどう生かされるのか、自分がどう生きて
いくのかを見つめることである。
 イエスの教えは、人間生活を規則で縛るという古いものではなく、人
間に対し、愛を持って包み込むという新しさを、神の中に見出す教えで
ある。当然、その精神は、現在の我々の信仰にも受け継がれている。

2017.12.03の説教から 

      <123日の説教から>
            『医者を必要とするのは病人である』
     マルコによる福音書213節~17
                                牧師 三輪地塩
 
 徴税人レビと共に食事をしたイエスを見て、ファリサイ派は非難した。これに対してイエスは次のように言う。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。医者は求められるところに行く。それと同じように、私は魂の病んでいるもの、私を求める者のところに行くのだ」。これは非常に濃密な言葉である。
「義」(ディカイオシュネー)と「罪」(ハマルティア)が対照的に出てくるが、聖書が語る「義」(ディカイオシュネー)は、「神と正しい関係性にあること」を意味している。また「罪」(ハマルティア)は、「的外れ」という意味を持っている。
 義人と罪人の関係として、ローマ書310節には「義人はいない。一人もいない」とあり、またコヘレトの言葉720節には「善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない」とある。おそらくイエスもそう考えていたのだろう。つまり、ここで義人(正しい人)と言われているのは、「「自分は正しい人間だ」と、思い込んでいる間違った人」、すなわちファリサイ派の罪を問う呼び方である。
それまでの穢れた生活、悪い心、犯してしまった罪の数々、それらは消えないけれども、罪を自覚し、ただ主に願い求める事が出来るならば、その罪人は、罪赦された罪人として生きることが出来る。あのヨハネ15章のぶどうの木の譬えのように、「キリストに繋がっていなければ」、私たちは正しい者ではありえない。幹に繋がっていなければ、その枝は、善い実を結ばない、からである。
 この箇所で重要なのは「罪を持つ人は救われない」と考えていた当時の人々の固定概念を取り除いたことにある。そしてもう一つは、「求める者のところはどこへでも、イエスは近づき給う方である」ということも重要である。求める心を持たない者は、自らと主イエスとの間に隔たりを置いてしまう。だが求める者は、主イエスの復活の命と共に生きる者となる。

2017.11.26の説教から

   
    <1126日の説教から>
        『子よ、あなたの罪は赦される』
  マルコによる福音書140節~45
                       牧師 三輪地塩
「中風」とは、脳卒中などによって、手足のマヒが生じた状態、半身不随の状態を言う。この中風患者と、彼を連れてきた4人の仲間たちの物語は大変面白い。中風の男は、床から起き上がれる状態ではなく、床ごと担がれてイエスのもとに連れて来られ、イエスとの出会いが「屋根を剥がす」という強硬手段によって行われた。この4人はリスクを顧みずに中風の患者を治らせたい一心で連れてきたのだ。我々はこの4人の「信仰におけるファインプレー」であると言えるだろう。
だが一方で違う見方も可能だ。この中風の男が一言も言葉を発していないことから、病気の本人が、特に治癒される事を求めていなかったと考えることも出来る。とするならば、この4人の行為は単なるお節介を焼いたということになろう。治りたいと思っていない人に対する押し付けがましい行為であると。
我々がこの箇所で読み取りたいのは、この4人の男たち(おそらく中風患者の「友人」と思われる4人)が、なぜイエスのところに彼を連れてきたのか、ということにある。4人が中風患者の治癒を求めていたにせよ、患者自身が癒やされたいと思っていなかったにせよ、いずれにしても「4人」は、「患者」を「イエスに会わせた」という事がこの箇所で行われた出来事(行為)である。
ひょっとすると中風の患者は「生きることを諦めていた」のかもしれない。もう治らない、もう生きる価値はない、もう生きていても仕方が無い、と。そうであるならば、この4人の最大のファインプレーは、「イエスに「会わせた」」ということ自体にある。つまり「こちら側(人間の側)が何をしてほしい」という一方的な願いではなく、「イエスを知ること」「イエスと出会うこと」「イエスに相まみえること」こそが、「我々の生きる意味」そのものである、という神の捉え方である。
かつて16世紀欧州の神学者は「生きるにも死ぬにもあなたのただ一つの慰めは何ですか?」という問いをした。それに対する答えは、私が私自身のものではなく、~真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と答えている。神の恵みとは、我々の願望が叶う事にはなく、神の主権を求めることにある。