2017年3月12日の説教から

2017.03.12の説教から>
『主の晩餐』
マタイによる福音書2626節~30
              牧師 三輪地塩
 
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PO法人「駿河裂き織り倶楽部」という団体が「すいとん会」というのを行った記事があった。「すいとん」は、子供には馴染みがないが、浦和教会の大勢の年配者たちは、すいとんという言葉と共に、懐かしさを覚えるだろう。
 このNPO法人の代表者は、子どもの頃に終戦を迎えた戦争体験者の女性である。戦時中の味を再現し、豪華ではなく質素な食べ物を口にすることにより、昔を思い出し、戦時中の記憶を追体験する事を目的にしているそうである。理事長は「すいとんでさえ当時はごちそうでした。物が多くある現代の人たちに幸せとは何なのか感じて欲しいために、これを開催した」と語る。
食べ物は、その時の記憶を甦らせる。あの日、あの時に口にした食べ物、その香りが漂った瞬間、その記憶が甦り、その時の情景や空気も思い出される。食事とは味覚・嗅覚・触覚・視覚・聴覚の全ての五感を働かせて(人間の全ての感覚を使って)行うものである。
「「すいとんの会」に参加した若者たちや子供たちは、戦争を体験していません。しかし体験者と共に、その時の体験、ひもじい思いや、苦しく、辛い思い出と共に、それを一緒に食する時、その体験者の体験を、未経験者も共に体験することになるのです。」とNPOの理事長は語る。
 聖餐式の中でパンとブドウ酒を口にする時、(それは「すいとん」ではないけれども)そこに居る者たち全員が追体験として主の晩餐を味わう。教会の人たち(洗礼を受けた者たち)全員が、キリストの十字架と共に生きることを、幾度となく繰り返し追体験するのである。聖餐は単なる「記念」や、「形式」ではないし、「特効薬」や「魔術的な食べ物の摂取」ではない。我々の教会が行なう聖餐式は、マタイ福音書26章に書かれているような、「キリストの出来事」を、いつも心で受け止め、体で感じ、いつまでも忘れないために経験し続けるのが目的である。29節の言葉、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言うのは、未来に向かって語られた言葉である。「その喜ばしい日を共に迎えたい。すぐ近くまで迫っているのだから」という終末的な救済の確信を告げる言葉である。

<2017.03.05の説教から>【なぜ泣いているのか】

<2017.03.05の説教から>
『なぜ泣いているのか』
ヨハネによる福音書20章11節~18節
牧師  三輪地塩
 復活のイエスのもとに喜び駆け寄ったマグダラのマリアは
       冷たい言葉を掛けられている。「わたしにすがりつくのは よし
       なさい(17節)」と。こんなひどいことを言わなくてもいいじゃ
       ないか、と思ってしまう。しかしイエスは、その理由を「まだ父
       のもとへ上がっていない」というのは「昇天」をしめしている。
       イエスの復活は、イエス自身だけの復活ではなく、我々の終りの
       時の復活を示している。イエスは「わたしの父の家には住む所が
       たくさんある。…行ってあなたがたのために場所を用意したら、
       戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。」(ヨハネ14:2)
      と約束されている。つまり、マリアに「すがりついてはならない
      (「すがりつく」は英訳でholdと訳される」と命じるのは「ただつかまれたく
      なかったから」ではなく、抽象的な意味で「すがりつく・つかむこと」
      を禁じているのである。イエスにすがりつくことは、この場所に
      イエスの復活の栄光をとどめておくということが暗示されている。
      「山上の変貌」で、モーセ、エリヤ、イエスの光り輝く姿を目にした
      ペテロが「ここに3つの仮小屋を建てましょう」と提案し、この世に
      イエスの栄光をとどめようとした事に似ている。イエスの十字架を
      考えず、栄光だけに目を留めるペテロをイエスはお叱りになった。
      十字架を見失って栄光だけを留めることがあってはならない、と。
      神の計画は人間の思惑の中で進められるのではなく、目に見え
      て美しいことや、素晴らしい事だけをその場所に留めてはならない、
      と、イエスは言うのである。神の計画は神ご自身の主体的行為で
      あり、その主体的行為こそが、我々への救いをもたらすのである。
      救いに人間は関与せず、神のみが為し給う。
 

2017.02.26の説教から 

<2017年2月26日の説教から>
『見て、信じた』
ヨハネによる福音書20章1節~10節
牧師  三輪地塩
 ここに消息が途絶えていた弟子が再登場する。シモン・ペトロである。イエスの裁判が行われていた大祭司邸の庭で、彼は3回も弟子であることを打ち消し、その時「鶏が鳴いた」のであった。聖書はその後の彼の行動について何も伝えていない。そのペトロは十字架の後になってやってくる。我々は彼が悔い改めたのだと信じたい。彼はマクダラのマリアの証言に促され、愛弟子と共にイエスの墓に急行する。
  
 墓につくと「石」は「取り除けられて」いた。「取り除け「られていた」」と、慎重にそして的確に聖書は語っている。これは「神的受動態」(Divine Passive)と呼ばれる、「行動する主体」を明示せずに神の存在を示すよう用法である。マクダラもペトロも愛弟子も誰も動かしていない。誰が動かしたのでもなく、石が自然に動いたのでもない。ここには「誰か」の存在が明確に表れるように記されている。
 この時、「まだ暗いうち」であったという。「人間が活動を始める前」「人間が関与する事が出来ないときに」「活ける神は自らの主体性をもって」この石を動かした、という意味で「まだ暗いうち」は重要である。人の思いに先んじて、人間の思いを超えて神は働かれる。神の先導性、神のイニシアチブ、先行する恩寵を、「空虚な墓」は示すのである。つまり、復活は、徹頭徹尾「神の行為」である。
 ペトロも愛弟子も「二人はまだ理解していなかった」(9節)との言葉は、「まだ〰していなかった」という意味のギリシャ語「ウーデポー」が使われている。「まだ理解していない」という翻訳語はネガティブに聞こえるかもしれない。だが「ウーデポー」は「今のところはまだ理解していない」という意味を持っている。それは「完全な理解」ではないが、「今後に希望を持ちうる無理解」であり、今はまだ理解していないが、今後はっきりと理解する事が出来る「ようになるであろう「希望的観測」を含んだ、ポジティブな否定詞である。
 我々の信仰においても同じことが言える。我々もまた「ウーデポー」の信仰なのかもしれない。今はまだはっきりとは見えない、いつも信仰の途上にある「希望に向かう民」である。神の主権と支配の中で、共に成長し、歩んでいきたいと願う。

2017.2.19の説教から

<2017.02.19の説教から>
『二人の”隠れキリスト者”』
               ヨハネによる福音書19章38節~42節
                                         牧師  三輪地塩
 ニコデモは、カクレキリシタンならぬ「隠れクリスチャン」であった。人目を忍び、表立ってイエスのシンパであることを公言することは無かった。だがイエスを信じ、彼の教え、行動、考えを支持していた。彼は「議員であった」。
 ニコデモはすでに3章と7章に登場した。7章では、ユダヤ教の宗教的指導者たちが勢揃いし、なんとかイエスを逮捕しできないものかと相談している場面で、ニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と、イエスの逮捕を見送るような発言をしたのがニコデモであった。3章のニコデモは、真夜中に人目を気にしてイエスへ近づいたのであるがそこから比べると、議論の中で公にイエスを弁護するような発言をするまでになっており、少しイエスに近づいたのであった。
 そのニコデモがイエスと関わる最終的な行動は、「十字架から降ろす」という大役であった。「隠れ」であった彼が、批判される危険を顧みず、議員という立場にありながら、当局の反逆者とされるイエスを十字架から降ろしたのである。ニコデモは、没薬と沈香を持っていた。没薬は主イエスが誕生した時に東の国の博士たちによって贈られた香料である。体に塗る事によって腐食を防ぐ効果がもあったところから、地位の高い人を葬るための香料とされていた。沈香(じんこう)というのは、日本では「伽羅」(きゃら)として親しまれ、重宝されている香木である。ニコデモは、このような最高級の没薬と沈香を携えて、イエスを丁寧に葬ろうとしてやって来たのであった。
 「議員」は、地位が高く、当時としては人間の誉れ、栄光、成功の証しであった。しかし当初人間の誉れを望んだ彼の人生は、キリストと共に生きる時、「十字架の栄光」という逆説的な神の恵みに触れ、福音の逆説に生きることを選んだのである。
彼はもはや、ユダヤ人を恐れず、公然とイエスと共に生きようとしたのだった。十字架の終わりが、全ての終わりではなく、キリストとの歩みの始まりでもあることを表している。彼は、夜に隠れず、ユダヤ人を恐れず、キリストの十字架の救いと共に歩み始めたのであった。

2017.02.12の説教から

<2017年2月12日の説教から>
『その骨は一つも砕かれない』
ヨハネによる福音書19章31節~37節
   牧師  三輪地塩
 
 十字架上で脇腹を槍で突かれたイエスの体から「血と水とが流れ出た」と聖書は伝える。大変興味深く不思議な箇所である。
 水と血の「霊による一致」は、それらに分かち難い繫がりを信じ、告白することであり、ここにキリスト教信仰の重要な点を見出すものである。日キの引退牧師である
蓮見和夫は、その著書『ヨハネによる福音書』の中で、次のように語る。
 「私は若い頃、浄土真宗に出会い、「キリストにしようか親鸞にしようか」というところまでゆきました。その時、一つの大きな経験をし、キリストの十字架が目の前に現れ、(所謂回心の経験をしました)。今思うと、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われるということでは、満足できなかったのでしょう。阿弥陀仏は、理想の仏で、地上に受肉していません。それゆえ、十字架にかかりもしません。そこには、神が血を流すまで闘い、苦悩することはありません。それなら、人間は安易になって、救いがあるからと言って、罪を犯すかもしれません。神は救いの重大さと、私たちの罪の大きさを知らせるために、御子を十字架につけ、その血のあがないによって、救われるようになさったのです」
 
 十字架の上から流れ出た血は、我々の「罪の血」であり、水は「罪の赦しの徴」である。だが同時に、槍で突いた兵士こそが我々自身、つまり「罪を犯した側に立つ我々そのものだ」という事でもある。十字架上で流された「血」と「水」は、この完全なる犠牲の子羊として捧げられたキリストの血を証し、洗礼による赦しの約束を示している。

2017.02.05の説教から

              <2017年.2月.5日の説教から>
               『「渇く」 「成し遂げられた」』
            ヨハネによる福音書19章28節~30節
                                    牧 師   三 輪 地 塩
 「成し遂げられた」とイエスは言う。このギリシャ語「テテレスタイ」の名詞形は
「テロス」である。「テロス」は「終わり」「目的」という意味を併せ持つ単語である。
 
 イエスは地上の生涯を「終えた」のであるが、むしろ我々は「終わりによって始まったこと」を読み解かなければならない。「テロス(テテレスタイ)」とイエスが語る時、第一に、「人間的な事柄の全ての終わり」が意味される。死が人間の生涯を終わらせるように、この世の可能性が終ったことが示される。十字架において、人間は弱い存在として、暴力と痛みと苦しみの中で「終わる」のである。
 
 だが一方で「テロス(テテレスタイ)」には「目的が果たされる」という意味もある。
「終わり」は神の視点から見ると「目的の成就であり、終わりではない」。つまり「目的が果たされる」という意味もある。「終わり」は神の視点から見ると「目的の成就であり、終わりではない」。つまり「人間の可能性」の観点からは終わりを告げるが、神の観点からは終わっておらず、ここから「神の確かな命の開始」が告げられるのである。それが十字架である。
 我々は歴史の中を歩んでいる。歴史は、人間がこの世に生を受けてから死ぬまでの間に「何があったか」「何を成し遂げたか」が記録されるのである。だがどんなに偉大なことをした偉人、有名人、時の権力者であったとしても、人の命には限りがあり、時間と空間の制約を受けた中で、私たちはその命の終焉を迎える。これが肉の限界である。
人間の命、人間の歴史というものは、命から死へ、誕生から死に向かうプロセスを通って、紡がれていく。
 だが、キリストの十字架において起こった事柄は、「死から命へと移っていく」という、歴史の倫理の逆転が起こっている。それがイエスの言葉「テロス(テテレスタイ)」に示されている。我々は、この世の常識、「命から死へ」という順序から、「死から命へ」という神の新しい順序へ開かれている。それは我々の常識的な時間や空間、歴史の秩序を無視した展開である。神学者の深井智朗は次のように言う。「すべてが終わった後に始まったこと、これが福音の論理である。つまり人間のあらゆる可能性が終わり、そこから神の可能性が始まるところに説教者と会衆は立っているのである。」と。