マタイによる福音書4章1節-11節 『荒れ野の誘惑』

 マタイによる福音書4章1節-11節 『荒れ野の誘惑』

 主イエスが洗礼を受けられた、という出来事のすぐ後に、主イエスが誘惑に遭われたという出来事が起こります。この話はまた不思議な内容となっています。神の子が何故誘惑に遭わなければならないのか。この「悪魔」とは一体何なのか。悪魔と対話をしながら誘惑を受けるというのをどう受け止めればよいのか、という問題。そしてここでの最も重要なことは、ここでの出来事は、どのような誘惑であるのか。このような疑問が湧きあがってくるのであります。
 日曜学校のお話しなどで、度々選ばれるこの箇所は、この不思議さとは裏腹に、意外に有名でありまして、「荒れ野の誘惑」と呼ばれる出来事として知られているのです。
 例えば私たちは、日曜学校などでこれをどのような物語として聞いてきたでしょうか。私の経験から申しますならば、小学生の低学年の頃、日曜学校のお話の中でこの箇所の説教を始めて聞いた時、説教者がこのように説明しておりました。「イエス様は神様だから、石をパンに変えることも、どんな高いところから飛び降りることも、世界の国々を支配することも可能なのだけれども、悪魔の言う事に従わなかった。イエス様は誘惑に負けるような堕落した人ではなく、清く正しいお方だったのだ」。このような話をされたように記憶しています。子供心に、「ああ、そういうものなのか」と思っていましたけれども、今になって良く考えてみると、あの説教では何一つとして誘惑の意味について説明がなされていなかったなと思うのです。

 「誘惑」という言葉を聞くとき、皆さんは何をお感じになられるでしょうか。誘惑に駆られる人間は「堕落した人」だし、「心も体も魂も弱い人」、それが誘惑に負ける人である、と、こうお考えになるかもしれません。広辞苑で誘惑という言葉を調べてみますと、「人を迷わせて、悪い道へ誘い込む事」と書かれておりました。誘惑は「悪い道」であり、「堕落の道」であり、「低くされる道に誘われる事」である。それが誘惑だ、というわけです。今日はこのことに基づいて、聖書の言葉に耳を傾けたいと思うのです。

 イエス様と悪魔が対話するという形で話が進んでいくのですけれども、ここでは三つの誘惑を受けていることが分かります。最初の会話は3節~4節で、「石をパンに変えてみたらどうだ」という誘惑。二つ目は5節~7節で、「神殿から飛び降りてみたらどうだ」という誘惑。そして三つ目は8節~10節までで、「世界中の繁栄を与えるから悪魔を拝みなさい」という誘惑であります。
 このうち、三つ目の誘惑に対し主イエスが断固として聞き入れなかったため、悪魔は諦めてイエスから離れていき、イエスが悪魔の誘惑に打ち勝ったのだという、内容であります。

 しかし、これらの会話の言葉を、さらっ、読み飛ばしてしまうとあまり気が付かないのですが、よく読んでみると色んな事が疑問に思えてくるわけです。まず一番目の「石をパンに変える誘惑」についてですけれども、私たちはこの話を、「荒れ野の誘惑」として読みますから、その時点である種の先入観がはたらくわけです。つまりこれは「誘惑なんだ」という先入観。しかしその先入観を取っ払ってよく考えてみますと、何故これが誘惑なのでしょうか。イエス様は、空腹を覚えた弟子たちに対して、安息日であっても麦の穂を摘んで食べる事を許された方であります。ですからなぜパンを食べる事が誘惑なのか、という疑問が浮かび上がってくるのです。勿論悪魔が言っているから悪い事だ、という状況的なことは言えるかもしれませんが、しかしそんなに単純に考えてよいのでしょうか。

 まあ3番目は、権力・支配に対する事柄なので、これが誘惑であることは分かりやすいのですけれども、問題は2番目です。皆さんもお感じになるかもしれませんが、なぜ神殿の上から飛び降りる事が誘惑なのだろうか、別に飛び降りてもいいじゃないか、と感じるのです。

 しかしこの箇所は、「イエスは悪魔から誘惑を受けるために導かれた」と書かれていますので、この箇所は、押しも押されもせぬ「誘惑」がテーマの話であります。
ですからここで考えねばならないのは、これらの誘惑は、文字通りの誘惑と言うよりも、むしろ何かを象徴的に語っているという事であります。まして「悪魔が言っているから誘惑なんだ」と単純化してしまっては、聖書がここで語ろうとしている本質に全く触れる事が出来ないのであります。

 つまりこの箇所から分かるのは、「聖書が示す誘惑の本質について」であるということです。第一番目に示されているのは、誘惑というのは、「貧しさの中で湧き起こる誘惑について」示し、二番目に示されるのは、「宗教的・信仰的な誘惑について」を示し、そして三番目は、「富と権力についての誘惑」ということが象徴的に描かれているということです。

 聖書の中で人間が初めて誘惑に負けてしまったのは、どこでしょうか。創世記3章1節以下の、エデンの園での蛇の誘惑であります。神に食べてはいけないと命じられた善悪の木の実を、蛇に唆されて取って食べてしまうという、あの誘惑であります。今日の箇所でもそれと同じように、目に見える単純化された行為に対してではなく、神に対する誘惑の本質と闘っている、という事が出来るのであります。

 つまり結論から言いますならば、誘惑とは「良い事だと思われている事柄の中にこそ存在する」と言う事が出来るのです。すこし大胆な言い方をしてしまうと、「やってはいけないと知りつつ行なう事」は、実際は誘惑ではないのかもしれません。それはルール違反であったり、礼儀や人格を問われる問題であるかもしれませんが、しかしこの箇所で語られる「誘惑」は「良いことだと思われるような事をするように招かれる事」なのです。空腹だから石をパンに変える、それ自体は何も悪くはありません。政治的支配力を得る、それ自体も何も悪くありません。神殿から飛び降りる、それ自体も何も悪くはないのです。けれどもここで重要な事は、本当の誘惑というのが、「落ちていく事ではなく、自らが上昇して行くと思われる事の中に隠されている」という事であります。

 冒頭で、「誘惑とは堕落する事、落ちていく事だと考えるのが一般的であろう」と、申し上げました。けれどもこの箇所で示される、つまり聖書で示されるところの
誘惑は、一概に、落ちる事や堕落することだけが問題なのではないのです。
 エデンの園で、アダムとエバは蛇に何と言われて唆されたでしょうか。「この木の実を食べると堕落するよ」「これを食べると悪魔のようになれるよ」とは決して言われませんでした。これを食べて「神のようになりたくないか」「神と同じような知恵と判断力を持ちたくない」と言われたのであります。ここには堕落はありません。それをすると素晴らしいと思われる事の中に、上へ上がりたい、上昇したいという心の内に、本当の誘惑は潜んでいる、と、聖書は言うのであります。

 人間は誰でも貧しさの中にあると、そこから這い上がりたい、と願うでしょう。しかし富んでいても同じように、それ以上を願うのです。国民全員が総中流階級と言われた時代も今は昔、格差社会と言われる現代日本の状況です。しかしいずれにしても、貧しさの中にあってもそれ以上を望む誘惑があり、富裕層の中に生きても、それは同じなのであります。人間としてのプライドや自尊心の中に生きる事、自分の強さ、能力の中にのみ真実を見出す事こそが、神と人間との関係の根幹を揺るがす誘惑なのであります。誘惑とは弱さが試される事柄ではなく、強さが試される事であるのかもしれない。 強さの誇示、自尊心と誇り、才能と技術、その中で神を見失い、自分の強さと戦うことこそが、聖書の言う誘惑であるのです。悪魔は、主イエスの弱さに働きかけたのではなく、神の子である故に何でもできるという強さに働きかけでいるのです。

 宗教的な誘惑も同じであります。我々は信仰を持っています。これに支えられます。神の言葉によって生かされ、神の言葉によって安堵し、そこに平安を見出します。しかし今日の箇所をよく読んでみて驚いたのですけれども、神の言葉は悪用される事があるのです。主イエスを神殿の屋上に立たせた悪魔は何と言っているでしょうか。6節「神の子なら飛び降りたらどうだ。『神はあなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石にうち当たる事のないように、天使たちは手であなたを支える』と、詩編91編11節の言葉を引用しているのです。つまり誘惑者は、主イエスに対して、聖書引き合いに出して、自分の言葉の正しさを証明しようとしているのであります。これは大変な驚きであると同時に、信仰者として心しなければならない事でありましょう。宗教的な誘惑とは、自分の信仰心を誇り、他人の不信仰をあおる事ではありません。「これこそが忠実な信仰である」「私の信仰こそが正しいのだ。」という事の中にある誘惑が存在すると、聖書は言うのです。信仰者として神に強められている反面、それが自らの強さと混同してしまう時、信仰は誘惑に変わるのです。もしかすると信仰は迷いの中にある時の方がより堅固で、強いものなのかもしれません。自らの信仰を誇り、自信に満ち溢れ、聖書の御言葉を剣のように振り回すという、信仰者の誘惑が「信仰その物の中に潜む」のであります。

 このように見ていきますと、私たち自身には何の救いもないように感じてしまいます。けれども、それで良いのであります。何故なら私たち自身には救いは無いからであります。私たちの救いは、ただ一人、主イエス・キリストにのみあるのです。
 キリストは、全てにおいて神であり、強さであります。けれどもキリストは強くある事を望まず、強さを求めず、強さの中を生きませんでした。徹底的に弱さの中を生き、それは十字架の死に至るまで徹底的に自らを低くし、我々の罪を担うべく歩まれた方であります。私たちが如何に強さを求める誘惑される者であろうとも、キリストは、この誘惑される我々のために、弱く、低く生きて下さったのであります。私たちはキリストの歩みに従って、私たちの道しるべとして、生きるにも死ぬにもただ一つの慰めとしてこの方を追い求めるのです。すなわち、人はパンによって生きるにあらず、人はキリストによって生きるのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2011年10月9日)

使徒言行録28章1節-16節 『マルタ島にて』 2011年9月4日

 使徒言行録28章1節-16節 『マルタ島にて』

 3.11の東日本大震災が起きてから、来週でちょうど半年になります。この期間我々は多くのことを問い掛けられ、多くの事を考えさせられてまいりました。また信仰者という立場から、これが如何に承服しがたく、受け入れがたいものであったかを合わせて思わされてきました。東京の石原都知事が「これは我々日本人への天罰である」という発言をして、波紋を呼びました。この発言の良し悪しは別として、この天罰という考え方は、実に因果方法的であるなと感じさせられるものでありました。私たちは良く、「罰が当たる」という言葉を耳にします。この語源ははっきり致しませんが、恐らく仏教的なものがルーツになっていると言われています。それから、良い天気に恵まれた時などは「わたしは日ごろの行いが良いから」などと言う会話も聞こえてきます。とにかく日常用語的に私たちは、良い行いや良い人に対しては良い事が起き、その反対の人には悪いことが起こる、と考えられる傾向にあるわけです。ですからあの都知事をしてそのように言わしめたのは、まったく因果応報的な人間の価値感覚に由来するのであろうと思うのです。
 しかし一方で、このような因果応報の考え方は、肯定的に見るなら非常に純朴であるとも言えるのです。特にアイヌやイヌイットなどの土着の先住民族たちは、自然との因果関係の中で、アニミズム的な宗教観、つまり、動物や大木に神や精霊が宿ると考える信仰を持っていました。その中にある真理や、そこで発見される生命倫理を、キリスト教的ではない、という理由で排除することはできません。

 良い事に対して神は良い事を与え、悪い事をしたときには神は悪い事をその人に与える。これは一般的な感覚であり、また純粋、純朴な信仰の形なのでありましょう。今日の箇所で、パウロはマルタ島に着きます。この島は現在のイタリア領海内の小さな島でありますが、ここで出会ったマルタの人々はパウロと蝮の出来事を見て、彼への評価を180°変えているのであります。

 パウロがたき火に枝をくべようとすると一匹の蝮が彼の手に巻き付きました。それを見て現地の人たちは「あれは人殺しに違いない。だから蝮が巻き付いたのだ」「じきに死ぬことだろう」と言い合います。しかし全くパウロには全く変化が見られなかったため、今度は一転して「あの男は神様だ」と言ったのです。何とも純朴と言いましょうか、単純明快な判断と言えるわけです。

 しかし聖書にはこのようなことは多く描かれておりまして、有名なのはヨハネ福音書9章にあります。生まれつき目の見えない盲人に対して、弟子たちがイエスに対して「あの人の目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、両親ですか」と問う場面がありますが、まさにあの因果応報の原理は当時の一般的な感覚であったと言えます。

 この話が広がった後、今度はマルタ島の長官プブリウスの父親が赤痢を患った時、パウロの祈りと、手当てによって長官の父は回復したという奇跡について記されています。これを聞いた人々は、パウロの癒しの祈りを受けるために大勢やって来たというのです。

 この一連の癒しの物語でありますが、これらの出来事は何を意味するのでしょうか。一方では純朴とも言えるマルタ島の人々が、パウロを受け入れたことを記していると言えます。しかしもう一方では、目に見える出来事を信じ、それを神だと信じるという偶像的な危うさを見ることもできるわけです。この記述を私たちは肯定的にも、否定的にも受け取ることができます。

 しかし私たちが注目したいのは、このマルタの人々、2節で「島の住民」と書かれていますが、この「島の住民」という言葉は、バルバロイと言う言葉が使われているということです。バルバロイとは一般には「未開の人」とは「土着民」というような少々侮蔑的な言葉としてしばしば使われてきました。しかし実際はそうではなく、「非ギリシャ人」「非ローマ人」という意味で用いられてきたようであります。このバルバロイたちがパウロの奇跡を見てどうしたかと言いますと、「彼らは考えを変え『この人は神様だ』と言った」とあります。この「考えを変え」という言葉の中には「ものの見方、考え方を180°転換する」という意味が含まれます。しかも継続的に行われる転換ではなく、一回的に起こる転換、それは「回心」に近い転換がここで起こっているということです。聖書がここで語るのは、癒しの出来事によって島の住民たちがパウロに対する思いをコロコロと変えているとか、蔑んだ人を目に見えることで神に仕立て上げる、という否定的なものではなく、むしろこのようなバルバロイたち、つまりユダヤ人にも、ギリシャ人にも福音が伝えられる、という以上の異文化習慣の中に生きる者たちにも、神の福音が伝えられている、ということであります。勿論このような伝わり方は、福音伝道としては正統的ではないかもしれませんが、しかしフィリピ書で彼が「不純な動機であれ、何であれ、キリストが述べ伝えられているのですから私はそれを喜びます」と言っているように、このような場所においてもパウロの目的は一切変わっていないのです。むしろ彼はまったくブレることなく、むしろ神を伝えることで周囲を変化させているのであります。

 パウロの目的は皇帝への弁明でありますが、それは御言葉を宣べ伝えるという一点に尽きるわけです。どのような相手に対しても、ひるまず、ブレず、「神だ」と持ち上げられようと、「呪われた人殺しだ」と蔑まれても、彼の所に来て癒してもらう目的でわんさと大人々が集まってきても、パウロはそこで出来る神の表し方をその場で行えるように行っているのであります。神の言葉の伝え方を一切変えていないのです。使徒言行録がこれまで伝えてきたように、パウロが囚人として護送されても、そうなる前も、順調に伝道が進んでいた時期も、全く変わらず、同じようにしてきたのであります。つまりは「神の奉仕者」としての自分自身の姿勢をブレずに行ってきたのでありました。

 11節には「パウロの乗った船はディオクロイを船印とする船であった」とありますが、ギリシャの最高神ゼウスの双子の息子カストルとポルックスの事を「ディオクロイ」と言っているのであります。これは船の航行の安全祈願の神様とされていたため、船に装飾されていたわけです。つまりパ
ウロのローマへの旅は、全くの異教の地で起こる出来事でありました。しかし彼はその本質を変えませ。まったくブレないのです。彼は皇帝に上告さえしなければ、ローマに護送されることなどありませんでした。回避することは可能でしたが、しかし彼は、自分の務めから逃れようとしませんでした。どこに行っても、どのような状況でも、彼は神の僕であり、神の奉仕者であり続けたのです。

 私たちは信仰者として、神に守られている時も、そうでないと感じる苦しみに苛まれる時も、全く同じ神を見続けて、ブレずに、ひるまずに生きることが出来ているでしょうか。蔑まれると落ち込み、持ち上げられると有頂天になり、状況や環境の変化と共に私たちはひるみ、ブレて生きることが往々にしてあるのではないかと思うのです。状況の変化は、自分自身の中の目的をも変化させ、信仰の捉え方や、神への思いすらも、その時々によって変えてしまうこともあるかもしれません。

 しかし今日の箇所が、パウロを通して我々に伝えるのは、神に与えられた務めを果たすとは如何なることであるのか、ということ。そしてその為の旅路は決して容易なものではない、ということであります。
 
 そしてもう一つ、重要な事が示されています。パウロがローマに入った後の15節「ローマからは、兄弟たちが私たちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた」このようにあります。この兄弟たちとは一体誰であるのかは分かりません。名前は書かれていないし、何名集まったのか、どのような立場の兄弟たちだったのかは不明であります。しかし誰がここに来たのか、ではなく、ここに兄弟たちが来た、という事実それ自体が重要であるのです。

 そもそもパウロはローマの教会の人々のことは知らなかったはずであります。ローマの信徒への手紙の中でも、「ローマの教会に書き送る」と書かれていません。ただ「ローマにいるあなた方にも、ぜひ福音を伝えたい」(ローマ書1章15節)と言われているのです。つまり彼らは、ローマにおける伝道所のような設立されたばかりの集まりであるか、もしくは家庭集会のような「教会の様相を呈する以前の状況であった」と思われます。しかしパウロはそこに信仰者がいることを聞きつけ、そこに行く事を熱望し、あの手紙を書き送ったのです。誰が読むのか分からずに、しかし希望を持って書き送ったのです。結果として、護送されるという形で彼の願いは、少々いびつな形でありますたが叶ったわけです。

 しかしこれまでの経緯を考えてみるならば、彼の事を出迎える人がいるとは考えられない状況にありました。船は難破し、マルタ島に打ち上げられ、その後、シシリアから南イタリアを通って、トレス・タベルネに着くという、経路も、スケジュールも、当初の予定からは狂いに狂いまくっていたはずであります。しかしどこからかそれを聞きつけて、信仰の友たちが迎えに来たというのです。そしてパウロはそこで「勇気づけられた」というのです。

 ウィリアム・ウィリモンという神学者は、「我々が‥人生の困難と戦うに際して、教会の最大の賜物は、『教会』(それ自身)である」(現代聖書注解「使徒言行録」284頁)と言っています。つまり教会の交わり、信仰の友、思いを同じくする者の励ましというものこそが、教会のもたらす最大の恵みである、というのです。

 人間が集まるところには、諍いも起きます。軋轢も起きます。ねたみや嫉みも起こり得ます。しかしそれ以上に、共に生きる者の集いには励ましがあります。勇気が与えられるのです。箴言18章24節「友のふりをする友もあり、兄弟よりも愛し、親密になる人もある」。詩編133編1節「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と言われている、あの兄弟の交わりが、神の与え給う恵みであるのです。

(日本キリスト教会 浦和教会 2011年9月4日礼拝説教 )
 

出エジプト記2章1節-10節 (子どもとおとなの合同礼拝) 『モーセの誕生』

出エジプト記2章1節-10節(子どもとおとなの合同礼拝) 『モーセの誕生』

 先週の火曜日、日曜学校の子どもとおとな総勢20名によって、夏期学校が開かれました。東日本大震災や福島原発の問題等の事を勘案して、一泊ではなく日帰りの一日夏期学校となりました。少し物足りなかったかもしれませんが、充実した楽しい一日を過ごすことができました。テーマは「サムソン物語」でした。士師記に出てくる大士師サムソンの生涯を辿って、聖書のお話、紙芝居作り、オリエンテーリングといった、盛りだくさんのスケジュールで行われました。
 その中でのサプライズは、出産のために暫くお休みしている、加藤先生が、一ヶ月検診の帰りに教会い立ち寄ってくれたことでした。小さな命が与えられる嬉しさ、命の輝きの素晴らしさを共にすることができ、本当に嬉しい時がもてました。赤ちゃんが生まれることは、その後にある成長を期待し、将来の希望をもたらすということです。夏期学校のテーマであった「サムソン」が誕生した時も、希望と共に生まれてきたことを共に学びました。

 サムソンの父マノアと母は、子が出来ずに苦しんでいました。その中で天の御使いが現れて、子が生まれることを宣言したのです。イエス様の誕生と同じような、驚くような仕方で、天使の宣言通りにサムソンは生まれたのでした。彼はナジル人として、つまり神様に約束された、聖別された人として生まれました。彼は髪の毛を剃らなければ大きな力を出し続けることが出来る、と約束された者として成長しました。サムソンは素手でライオンを引き裂いたり、ロバの顎の骨で1000人のペリシテ人を倒したりと、それは凄い力を与えられた若者として成長したのでした。

 このようなサムソンの話がありましたが、今日の箇所でも、今度もまた小さな赤ちゃんが生まれています。今度の赤ちゃんはどんな若者に成長するように約束されたのでしょうか。サムソンのような屈強な戦士として成長するのか、それとも心優しい穏やかな人として生きることを予定されていたのでしょうか。またモーセの父と母はこの子供が生まれた時にどのような希望を持っていたのでしょうか。

 今読んだ聖書の箇所だけではよく分からないかもしれませんので、その前のところも読みたいと思います。1章7節~10節「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフの事を知らない新しい王が出て、エジプトを支配し、国民に警告した。イスラエル人と言う民は、今や、我々にとってあまりに数が多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。」そして22節「ファラオは全国民に命じた。『生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め。女の子は皆、生かしておけ』。」

 このように書かれています。つまりイスラエル人の男の子が生まれたら全て殺してしまえ、という命令が出されたということです。ですからモーセが生まれたときは、希望に満ちた、将来を約束された状況なのではなく、むしろその正反対であり、希望ではなく絶望、生きることではなく死ぬことが目の前に広がっており、サムソンのような約束されたナジル人として力を振るうどころの話ではなく、生まれたらすぐに殺されてしまう状況の中で、この小さな存在を今にも押し潰してしまおうという力に取り囲まれていたのでした。天使の力ではなく悪の力が幼子モーセを覆っていたのです。1章16節にはこうあります。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子なら殺し、女の子ならば生かしておけ」。そしてモーセは男の子だったのです。
 
 ナイル川は繁栄と豊穣の象徴です。栄えることと、たくさんの作物が取れる場所です。けれどもこの場所に「男の子を放り込め」と命じられたのです。そして多くのイスラエル人の男の子が命を失いました。沢山の尊い命が奪われたのです。しかしそれがファラオの行ったことでした。増えて脅威になるから殺してしまおう。邪魔だから捨ててしまえ。それが権力者の罪であり、ひいては私たち人間の罪であるのです。
 繁栄と豊穣の徴であるナイルは、今や、死と、絶望の徴となったのです。そもそもナイル川は、一年に一度は氾濫し、人間の手の付けられない力で水が押し寄せ、その力の中では人間はなす術なく漂うだけであるのです。まさに水の氾濫が押し寄せるかのように、幼子たちはひとたまりもなく命を落としていったのでした。

 そのことはモーセのお父さんお母さんを悩ませました。ようやく生まれた愛する子が、近いうちにエジプト人の兵士に見つかって、殺されてしまう。そのような死と破滅の中をさまよっていたのでありました。何とか3か月間は隠して育てたけれども、だんだん大きくなる子を隠しておくことが出来なかった。そこで彼らは考えました。パピルスという草を乾かしてそれを籠状に編み込んで小さな舟を作りました。それは生まれたばかりの赤ちゃんが一人だけ入れる小さな舟でした。そこに生後三か月の小さなモーセを入れてナイル川に流したのです。モーセにはお姉さんがいましたが、このお姉さんが流れる籠を追い掛けて、どうなっていくのかを密かに見守って着いて行きました。お父さんもお母さんも心配していたことでしょう。このパピルスの舟で流すことは、言ってみれば神様にその身を委ねたことを意味するでしょう。それはあのノアの箱舟が、動力も舵も何も持たずにその身を流れに委ねたように、モーセの家族にとってこのパピルスの舟はまさしく祈りだったのです。これからどうなるか分からない。どんな人に拾われるか分からない。もしかするとひどい人に拾われて、可哀そうなことになってしまうかもしれない。誰にも拾われなくて、本当にファラオの命令の通りナイル川に放り投げるだけのことになるかもしれない。それは分からないけれども、しかしその身を委ねたのでした。

 この時はファラオが国中を支配していました。しかしファラオの支配にではなく、神様の支配に任せたのです。それは簡単そうで実は大変難しい事です。サムソンのような約束のないところで、何も保証のないところで、幼子の身を預ける。それは信仰の大切な部分なのです。

 さて、この舟は誰に拾われたでしょうか。ここには「ファラオの王女」と書かれています。つまりファラオの奥さんです。王女はモーセを
見て可哀そうに思います。そこに幼子のお姉さんがやってきて、その子に乳を飲ませる乳母を連れてきます、と言ったところ、王女は「そうしておくれ」ということになり、この幼子は自分の母親に育てられることになったのでした。結果として、一度捨てる覚悟をした両親のもとに、この子は戻ってくることになったのです。
 神様の計らい。それは神様が最も必要なところに必要なことを与えてくれるという意味です。この時も、神様の計らいが、あたかも大きなうねりのように押し寄せて来たのです。

 拾われた男の子は、「引き上げた」という意味のヘブライ語「マーシャー」から、「モーセ」と名付けられることになりました。モーセは、ファラオの王女に拾われたのですから、「ラムセス」とか「トトメス」という名前を付けられて、エジプト人として生きることもあったかもしれません。しかしヘブル語名の「モーセ」が与えられたのでした。ここには、彼が誰に支配され、誰に従っていく人として成長するかが示されているのです。つまり国家権力者のもとに生き、ファラオの権力を大事にし、ファラオ的な権力を振るって生きる人生ではなく、そこから抜け出し、ファラオという人間のもたらす人間の支配から解放される生き方、ファラオから脱出する生き方を与えられたのです。

 最初にも言いました。ファラオとはここでは悪魔の力の象徴と言えるかもしれません。もちろん良いファラオもいると思いますし、ファラオも国民のために一生懸命政治をおこなったのかもしれません。しかしここでは、幼子を虐殺する象徴として、権力と支配の象徴として描かれています。それは私たちに逃れられない権力と、悪の力を思い起こさせます。大量虐殺。それは私たち人間の歴史の中で、幾度となく行われてきたものですし、私たち人間はそのような残忍な歴史を何度も刻んできました。
 
 昨日、8月6日は、広島に原子爆弾が投下されて14万人もの命が失われてから66年目に当たる日でした。原子爆弾はやめにしよう、平和な未来を築いていこう、と言うスローガンが立てられてから66年目のこの年、3分の2世紀が経ってこの記念日を迎えたのです。しかし今度は、原子爆弾の理論を平和利用しようとした結果、人間の犯した大きな災害が起こっていることも併せて覚えたいのです。私たちはその現実から逃れ得ないのです。原爆は悪であり、原発は善である、とアピールしてきたこの国のどこかに、ファラオ的な支配の臭いが漂っているようにも感じられます。そして私たちは1発で10万人以上もの死者を出した原爆を嘆く一方で、その原理を「平和利用」と称して、その恩恵に与っているのも又私たち自身であるという矛盾に気付かされるのです。

 ファラオの大量殺戮と言う出来事は、ファラオの側の言い分では間違ったことなのではないと言えるのかもしれません。ヘブライ人が力を持つとエジプト人が支配される恐れがある。だからこれが必要なのだ。それは政治的にはあり得る理由なのかもしれません。けれどもこれが意味することは、人間の善意や悪意を超えて、人間の手による業というものはそれ自体が限界性を持っている、ということであり、ファラオも、原爆も、原子力も、その証拠として、人間の業の結果として私たちの前に大きくたちはだかるのであります。

 しかし神様は、このモーセを救いました。絶望、死、殺戮、支配という言葉の只中で、神様は、この小さな幼子を救いました。そしてこの幼子モーセに隠された働きは、単にモーセ一人の命ではなく、何千何万というイスラエル人たちの救いにもなっていったということです。

 モーセは、自分の力によらず救われました。この幼子が出来ることは、ただパピルスの舟と川の流れに身を委ねること、それ以外には何もなかったのです。お父さんお母さんの愛があったかもしれません。何とかしたいと尽力したお姉さんの力の功績は大きかったかもしれません。たまたま偶然にファラオの王女がいた、と言う運命的なことを思うかもしれません。しかしそれらすべてが神様に身を委ねた祈りと神さまの計画の行わしめたものであるということです。その結果として、死と氾濫は、生と解放に向かうのです。奪われる命は生き返り、捨てられるはずの命は回復したのです。捨て入れられたナイル川から、拾い上げられる生命が広がり、諦めていた幼子が希望の徴に変わるのです。それが神様の計らいです。それが神様のなさる業です。人間が一生懸命にこれを抹殺しよう、放り込もうとしても、その人間の計画を断ち切り、神様は神様のご計画の中で、最も良い事をお与えになられる方なのです。
困難な時、苦しい時、神様への信頼を固くし、神様に身を委ねる信仰を、持ち続けたいと思います。

(日本キリスト教会浦和教会 2011年8月7日 主日礼拝説教)
 

 使徒言行録26章1節-32節 『主よ、あなたはどなたですか』 2011年7月31日

 使徒言行録26章1節-32節 『主よ、あなたはどなたですか』

 私たちは、プロテスタント教会に属していますが、その発端となった宗教改革という運動は「原点に立ち返る」ということがその最初の目的でありました。最初にそれを行ったのは言わずと知れたマルティン・ルターでありまして、彼はカトリック教会に対して95箇条の提題と呼ばれる質問状を掲げたことから、それが問題となり、カトリック教会との決裂を余儀なくされ、プロテスタント教会の成立へと流れていくのであります。
 ルターは最初からプロテストしていたわけではありません。当然最初はカトリック教徒でした。しかも聖アウグスチノ修道会の修道士として研鑽を積み、司祭となって教会に奉仕をしていた立派なカトリックでした。ルターは大変に優秀な人物であったと云われていますが、それは彼の父親が大変厳しい教育者であったからだそうです。その厳しさは並大抵のものではなく、もともと農夫から身を起こした彼の父は上昇志向が強く、子供たちにもさらに上を目指すよう常に要求し、教育をしていたと言います。その教育は時に厳格を極め、その父の姿は、ルターに「冷酷で厳格な神」というイメージを持たせる強い影響を及ぼすことになったのです。父なる神、という事は、神は父のようである。ならば神は厳格であり、厳しく、悪い事には妥協せず、時には鞭で打つような裁きを行うこともある。それがルターの神のイメージでありました。

 しかしある日、聖書の学びをしているとき、突如光を受けたような新しい理解が与えられた経験をします。それは聖書を読んでいると「神の義」という言葉が目に飛び込んできたと言う事です。神の義とは厳しく裁く義であるだけでなく、神の方から与えられる恩寵の神であり、人間の悪い行いにも拘らず、神は「信仰によってのみ」救われる神であることに彼は初めて気づき、ようやく心の平安を得ることができた。これが「塔の体験」と呼ばれるルター大きな転機であったということであります。因みに塔というのは、ヴィッテンベルク大学学生寮の図書室が高い塔になっていて、そこで心が開かれる思いをしたことにより「当の体験」と後に言われるようになったわけです。とにかくここでルターが得た神学的発想は、のちに「信仰義認」と呼ばれることになり、これが宗教改革の原点になるのです。ルターは、神の恵みというものは、修道士や司祭など、ある特定の聖職者だけのものではなく、万人が「信仰義認」という神の恵みを享受することが出来ると考えます。そのため彼は聖書の翻訳をするわけです。当時の聖書はウルガタ訳と呼ばれるラテン語聖書しか使われておりませんでした。それを読めるのは聖職者だけでありました。しかしルターは誰でも聖書を読めるように、つまり母国語で神が語りかける恩恵は、誰にでも与えられる当然の権利であると考え、彼はラテン語をドイツ語に翻訳にして広く一般の信徒たちにも読めるようにしていったのであります。

 とにかく、ルターという宗教改革者の原点には、神の言葉との突然の出会い、そして神からの語りかけによる「信仰義認」への気付き、そして母国語で御言葉が語られることを分かち合うことなどが、その根本にあったのであります。

 皆さんの信仰の原点はどこにあるのでしょうか。信仰生活の長い方、あるいは始まったばかりの方もおられると思いますが、その中での信仰の原点を、自らの自己理解として、何をもって自分自身の信仰の原点であると言い得るでしょうか。
 使徒パウロは、ダマスコ途上の回心の出来事であったと言います。今日の箇所12節以下では、そのことが克明に記されています。パウロは迫害者でした。それも筋金入りのファリサイ派であったと言われます。ナザレ人イエスに大いに反対するべきと考えるほど、そして多くのキリスト信者を牢に入れ、死刑の意思表示をし、時にはイエスを冒涜するように強制し、迫害していたと言います。それがパウロのそれまでの歩みでした。

 しかしダマスコ途上にて主イエスの言葉を受けるのです。使徒言行録はこのことを3度に渡って述べています。9章、22章、そして今日の26章と、事細かくその時の状況を述べています。ですからパウロにとってこれが信仰の立ち返るべき場所であった、ということなのでしょう。彼の信仰の原点がここにあるという信仰告白をこの箇所に見出すものであります。ちょうどルターにおける「塔の体験」のように、そこからその人の信仰が始まった、最も大事にしている事柄。常にそこに帰っていく場所。それがダマスコの経験なのでしょう。

 回心の出来事は私たちの計画によるものではなく、神の側から来るものであります。神が与えようとして与える「ただ上からのみ来る出来事」なのです。パウロはイエス・キリストを否定し続けました。神に抗い続けたのです。そんなものは信じない。嫌だ嫌だと、キリストを排除し続けようとしたのです。神を否定し続けたのです。それに対する答えが、ダマスコで与えられたのであります。

 14節にある「とげの付いた棒を蹴ると、ひどい目に遭う」という諺が意味するのは、唐突なおかしな言葉に感じられます。当時の農夫たちは牛などの家畜を動かすとき、とげの付いた鞭のような棒で打って御したわけですが、しかし中にはいう事を聞かない牛がいて、農夫に抵抗して鞭を蹴ってくることもあったと言います。しかしその牛は遂げに刺さってしまい、痛みに耐えきれず、最終的には抵抗しても無駄だ、ということを覚えていくのだそうです。そのような抗うことが出来ないという意味の諺として当時使われていた言葉がここにあるわけです。

 つまり主イエスが言っているのは、パウロが一生懸命に主を否定しても主が上から与える力に対しては、それに抗うことが出来ないのだということです。否定しても、否定しても、何度も否定しても、否定しきれないものがある。それが神の業なのだと。神を否定し続けても、しかしそこには神がおられるという事実が立ちはだかるのです。

 主イエスは言います「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起き上がれ、自分の足で立て」というのです。この語りかけが神であります。
パウロは主に言います「主よ、あなたはどなたですか」。パウロは「誰ですか」と質問しておきながら「主よ」と既に彼自身の中に答え
があるかのようであります。あなたは誰ですか。あなたの事を教えてください。あなたが私に何を与え、何を成し、何を語られるのか分かりません。何よりもまず、あなたは誰なのか分かりません。と。

 これはモーセに対して神がご自分を啓示なさった時のことを思い浮かばせます。モーセは自分に語り掛ける声の主に言います。「あなたの仰ることは分かりました。民を導けという命令に関しても分かりました。しかしイスラエルの民を納得させるためには、それを語ったあなたが誰であるのか分からないといけません。あなたは誰なのですか」これがモーセの質問でありました。それに対する神の答えは明確です。「わたしはあるというものだ」つまりここには「存在する」という名の神が存在することを、神ご自身が開示なさったということであるのです。「私はある、私はあるという者だ。」。

 この出エジプト記3章は、大変不思議な神顕現の箇所、奇跡の出来事であります。しかしここで言われている最も重要なことは、神は「ある」ということです。
 神なしの世界と言われる現代社会において、この殺伐とした世の中で「生きる」とは、すなわち何を意味するのだろうか。人はそのことに悩み、苦悩し、痛みと苦しみを受けるのです。生きることの意味を見失った若者たちにとって、この世の中で生きることは何の価値があるのだろうか。仕事をリタイアして生きがいをなくし、生きる意味を失った者にとって、また、老いを迎えて、弱る心と弱る体を身に受けて、生きるとは一体何の価値があるというのか。私たちは老いも若きも、いつもこの問いを受け、その答えを探し続けるのであります。私たちの生涯のほとんどが、ここに費やされていると言っても過言ではありません。なぜ生きるのか。なぜ存在するのか。なぜ苦しむのか。なぜ生きねばならぬのか。なぜ悩まねばならないのか。そのような如何ともし難く、答えの見えない問いを受けて歩まねばならない。それが私たちの生涯の多くを占めるのであります。 

 しかし私たちが例え自分の生涯を見失っても、何を見つけられなくても、「神は存在する」のであります。それが私たちに与えられた答えなのであります。「あなたは誰ですか」に対 し「わたしは『ある』」と答えられる方が、私たちの神であるのです。神は「ない」のではない。「ある」のであると。

 これはパウロの前に主イエスが現れたことによって、より鮮明に我々に迫ってきます。つまり彼は神の言葉をどのように聞いたのでしょうか、それは「ヘブライ語」で聞いたのであります。神の独自の言葉や、人間には解読不可能な言葉でではなく、パウロが分かる言葉で、理解可能な言葉で語られるのです。言葉は文化であります。言葉は思考であり、言葉は民族であり、言葉は意志であります。つまりその場所に神が下りてくださったということであります。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました」と言われている、あのへりくだり、そして神の降下。それが私たちの分かる言葉で語られる神の本質なのであります。

 マルティン・ルターは、神の言葉が分からない言語ではなく、母国語のドイツ語で語られるものであることを望み、翻訳をしました。それは神のなさろうとしたことに一致します。神は私たちに語られます。分かる言葉で。分かる仕方で。それが私たちの神なのです。
 私たちはこの神の言葉に真剣に聞かねばなりません。ご自分を開示なさる、私たちに近づき、神の側から、分かる形で迫って下さる神の手を、掴みにいかねばなりません。パウロは神に捕えられました。主イエス・キリストという永遠から永遠にいまし給う神ご自身が、神の側から現れた。その恵みに気付いたのであります。私たちが如何に抗おうとも、神は神の側から、私たちのもとへと来て下さる方なのです。だからインマヌエル(神、我らと共にいまし給う)と言われるのです。神なしの世界と言われるこの現代社会において、しかし神はご自分を開示なさります。苦しむ我々に神がご自身を表されるのです。この神に従って歩みが強められたいと思います。

(日本キリスト教会浦和教会 2011年7月31日 主日礼拝説教)

使徒言行録23章12節-35節 『ユダヤ人の陰謀』 2011年7月10日

 浦和教会主日礼拝説教 使徒言行録23章12節-35節 『ユダヤ人の陰謀』

 先週私たちは、「勇気を出せ、力強く証しせよ」と主がパウロに語りかけた励ましの言葉についてみたわけです。このような勇気の出ないとき、証しできないような心の萎えた状態にありながら、しかし神はこのような我々であるからこそ、勇気を出すことを宣言なさる。ということです。もっと進んで言うならば、神はどのような時においても勇気を出すに足る状況を与えてくださるという事が言えると思います。つまり単なる気休めの言葉として語られるのではなく、それが真実の言葉であるように神はご自分の手で、すべてを計画なさり、そのとおり行わしめるということであります。

 この勇気を出せという言葉は、今日の箇所にもかかってきているのですが、しかし12節では、おどろおどろしい内容から語り始められています。「夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた」このような恐ろしい計画を企むところから始まるのです。しかもこの企みに加わった者は40人もいたと言います。このような彼らユダヤ人たちの行動を見ていますと、ユダヤ人という民族に対するイメージが、好戦的で、恐ろしく、手段を選ばないというような印象を受けると思います。しかしそれは少し事実とは異なるようです。

 つまりこの40人をメンバーとするグループは、秘密結社的集団で、シカリ派という政治的超過激派に属するメンバーであったと想定されるのだそうです。つまりすべてのユダヤ人がこのように怒りに燃え、計画的殺人を実行しようと企んでいたのではない、という事を彼らユダヤ人という民族に対するフォローとして入れなければなりません。

 しかしながら、ここでの事実は、パウロを亡き者にしてやろうという強い決意と、周到な準備が行われていた、ということであります。とにかく彼らがやろうとしていることは、パウロを消す、というこの一点のみでありました。このような極限の緊張状態の中で、さて神の約束「勇気を出せ、力強く証しせよ」という言葉が、本当に意味ある言葉となるのか否か。むしろ空しく響く現実とは程遠い偽りの言葉となるのか。そのことを考えつつ見ていきましょう。

 このパウロの様子は、あまりにも尋常ではありません。このような恐ろしいことは、私たちはめったに会うことはないと思います。しかしもっと卑近な問題に照らして考えてみますと、実際に起こり得ることでもあります。つまり意図して陰謀が企てられ、計画が組まれ、それを実行しようとする。そのようなことは、ことの大小こそあれ、意外と多くの場面で起こり得る事柄であります。

 このパウロ暗殺計画は、ある意味で人間の英知を結集した緻密な計画であると言えます。暗殺計画に英知を結集した、というのは不適当な表現かもしれませんが、しかし彼らは、物理的に自分に加担してくれる人を40名も集め、彼らはそこで固く誓いを立て、宗教的行為としてこれを正当化し、祭司長、長老たちに対してこれを実行する宣言し、そして標的を連れてくる裏工作を示し合わせておく、という用意周到でよく考えられた計画を立てていることは間違いありません。そういう意味でこの計画は人間の知恵を振り絞ったよくねりあげられた暗殺計画と考えることができるのです。

 しかし旧約聖書、箴言19章21節にはこうあります。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」。このように書かれてあります。つまり「人間にはたくさんの計画や策略がある。しかし神の御心のみが実現する」という意味であります。人間の計画がどれだけ周到なものであっても、どれほど完璧なものであっても、神の御心がそこになければ、成し遂げることはないのだということであります。

 ここには40人の暗殺者が鼻息を荒くして待ち構えています。大祭司にも承認されました。長老たちも認めています。あとは実行に移すだけでありました。しかしそれは叶わなかったのであります。実現されなかったのです。結果的にパウロへの陰謀はローマ側に察知され、カイサリアに逃れることとなったのであります。これもまた箴言の21章31節を見てみますと、「戦いの日に馬が備えられるが、救いは主による」とあります。つまり「戦いの日のために戦う道具や武器を備えても、勝利させて下さるのは主である」ということです。ユダヤ人の陰謀は勝利しなかった。彼らがどのように用意周到に陰謀を企てたとしても、それは戦争の馬の備えをしただけであり、そこに勝利が伴うか否かは、主の御心によるのである、ということであります。
 
 結果的にパウロの姉妹の子供、つまりパウロの甥がユダヤ人の陰謀を察知し、ローマの兵営の中に入り、それを伝えたのです。パウロの肉親について語られている非常に珍しい箇所の一つなのですけれども、おそらく彼らはタルソスから引っ越してきて、ここエルサレムに住んでいたのであろうと思います。その甥が陰謀をローマに伝え、事なきを得たのでありました。この甥は、何歳ぐらいだったのでしょう。名前も出てきません。年齢も出てきません。これ以外の箇所に何か大きなことを行ったとも書かれていません。つまり歴史的には小さな働きなのです。人物としても取り立てて素晴らしいという事が出来ないほど情報の少ない人です。しかしこの小さな働きが、神の計画に参与していたということであります。

 私たちは、大きなことを成し遂げようという願望や、歴史に名を刻みたいというような願い駆られることがあるかもしれません。そしてその時自分に何が出来るだろうと考えたりすることもあるでしょう。しかしそれはあくまでも人間の思いから離れ得ない場所での願望であって、神の場所からの行動にはなりえないのです。大事を成したいという大きな野望を抱くことは大切かもしれませんが、しかし本当の意味で神の真実に参与するというのは、このパウロの甥のように、名も知れぬ小さな働きが、神の計画の中では重要な位置を占め、それがなければすべては繋がらなかったという非常に複雑で繊細な神の計画の一端を支えることになるのです。もちろんこの計画を支えるのは神です。一貫して揺るがぬ決意のもとで行われる神です。私たちが神の計画を変更することなどありえません。しかし「戦いの日のために、馬を備える、しかし勝利は主による」というのであれば、
戦いの日のために、主の勝利のための馬の備えでありたいと思うのです。人間には多くの計画がありますが、しかし主の御旨のための計画や行動でありたいと思うのです。それがどんなに小さな働きであっても、このパウロの甥のような名も知れぬところで行われる行為であっても、これが神の勝利の側の働きであるなら、なんと嬉しいことであるでしょうか。

 イザヤ書8章10節には「戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられるのだから」とあります。戦略を練っても挫折し、策略を決定しても実現しない。それは神が誰にとって、何にとってのインマヌエルであるのかによるのだ、ということであります。神は誰の側でもありません。異邦人の味方とか、ユダヤ人の味方、というのでもありません。そこに神の真実があるところに神が共にいまし給うのであります。
 
 しかしながら、これまでの話を真逆に考えることもまた必要なのであります。つまり勝利と神の御心、という問題であります。ともすれば、私たちは形の上で神の勝利が実現した側に神がおられたと考えることが多いかもしれません。「勝利」。それは人間のとって非常に魅力的であります。勝利したものには発言権が与えられ、敗北したものに対する処分の決定権も与えられる。神の名の下では、勝利は神がおられたからという根拠にもなり、敗北したのは、神が見捨てたからだと考える。そのようなことが多いと思うのです。

 しかしそうだとするならば、人間の行為が神の御心になり、神の御心が強者の論理の中にあることになります。勝つ者は、得てして物質的にも、人的にも、能力的にも有利であり、経済的な優位に立つ者であることが多い。だから勝つ。しかし私たちは、勝つから神の御心があるのではなく、神の御心があった方が結果的に勝つことがある、という論理で考えねばならないのです。

 つまりこういう事です。たとえば、ビンラディンは殺されました。しかしそれはアメリカに神がついていたからなのであろうか。アメリカがここ10年来行ってきたことは、神の名によって正当化されるのであろうか。もちろんテロリズムは正当化されません。しかし一人のテロ首謀者を暗殺するために何千人という民間人の犠牲者が出たことは、神の名に正しいことなのでしょうか。そうではないと思うのです。物的にも、人的にも、技術的にも勝っていたからアメリカはこの首謀者を暗殺できたのであります。

 そうであるならば、勝利者の側に神がおられるというのは、必ずしも正しいこととは言えないのです。そのことを忘れてはなりません。むしろ今日の箇所から鑑みますならば、もしこのとき、パウロが暗殺されたとしても神はパウロの側におられた。パウロは死ぬまで神の側で、暗殺される陰謀の論理のもとに晒されつつ、神の御心を行おうとして、神の下で死んでいったということになりはしませんでしょうか。

 そんなおかしなことがあろうか、と思われる方もいるかもしれません。しかしインマヌエルと呼ばれたあの方は、最終的な勝利の仕方をいかなる形で成し遂げていったのでありましょうか。敵対者を駆逐し、ぐうの音もでないほどコテンパンにやっつけた結果、勝利がもたらされたのでしょうか。そうではありませんでした。イエス・キリストの勝利は「十字架」でした。あの痛々しく、苦しみ悶え、見るも無残な形をとって、神はキリストに復活という仕方で勝利を与えたのです。無残な死が、神の下で復活の命を以
て、この方こそがインマヌエル、神我らと共にいまし給うことを証言なされたのです。

 私たちはこのことを忘れてはなりません。あの神の勝利は物質的に勝った負けたという意味概念で受け取られるものではなく、神の中で敗北が勝利とされるというロジックの中で、行われるのです。パウロに与えられた「勇気を出せ」という神の約束は、この約束であったのです。つまりパウロは、決して命が助かることを求めていたのではなく、神の真実を伝えることの中にある命を求めていたのでありました。それが成就されるならば、たとえ肉体の死を伴っても構わない、という覚悟の下で、そしてそれでも尚も主は私を述べ伝えさせるために生かすに違いないという確信の中で、神に与えられた「勇気」を以て、彼はこの時を過ごしたのではないかと思うのです。
 ユダヤ人の陰謀という、私たちにとっては決定的悪としか思えない事柄を通してさえも、神は一人の信仰者を真の命に生かし、用い、歩ませ、力を与えるのであります。そうであるならば、同じく私たちも。このことを覚えたいと思うのです。

(日本キリスト教会 浦和教会主日礼拝説教)

使徒言行録22章22節-23章11節 『勇気を出せ。力強く証しせよ』

使徒言行録22章22節-23章11節 2011年7月2日 『勇気を出せ。力強く証しせよ』
 
 先週の木曜日祈祷会の中で、「ユダは赦されたのか」という質問がありました。皆さんはどうお思いでしょうか。イエス・キリストを銀貨30枚で売り払ったあの側近であった弟子のユダが、救いに預かったのか否か。これは大変興味深い質問でありました。

現在木曜祈祷会では、創世記を1章から読み進めておりまして、先週45章まで進みました。この45章という箇所は大変にドラマチックでして、いわば創世記の一つのクライマックスであると言えるわけです。創世記37章からは、ヨセフ物語という12人の兄弟たちの物語が始まります。ヨセフの兄たちはヨセフを嫌って殺そうとするのです。しかし一応兄弟なのだから、ということで生かしておくことにしよう、しかしエジプトの奴隷商人に売ってしまえ、ということでヨセフはエジプトのファラオの宮廷に売られて行ってしまうのです。しかしエジプトに行ったヨセフは、そこでありもしない疑いをかけられて、奴隷の身分よりさらに条件の悪い、囚人になってしまいます。しかし彼は神様の導きによって、その場所から救い出され、最後にはとうとうエジプトの実権を握るまでに重用されていくのです。あるとき大飢饉が訪れたとき、カナンから自分を売った兄弟たちが食料を買いにエジプトにやって来ました。しかしヨセフは、自分を一時は殺そうとまでした兄弟たちを赦し、和解するのであります。この赦しの場面こそが45章でありました。

祈祷会の中でたびたび紹介するのですが、小泉達人さんという牧師が、創世記考講解説教という本を書いていて、その中に次のような1節がありました。「表面上は人間の仕業、罪の行い、卑劣な出来事であっても、その背景には神の御手のあることに気付き、そこへの感謝を見出すことこそが、信仰の本領であると思うのです。ヨセフの生涯は、数奇な運命に翻弄された人生としか言えません。しかし信仰の目的からは、一切は神の着々としたご計画の中にあったのだということです。この時、諦めの運命は神の摂理として受け取られます。我々の運命を摂理に変えるもの、それが福音であり、その福音を信ずるのが信仰であります。運命を摂理と受け取ったとき、私たちの新しい人生が始まります(小泉前掲書より)」
 このように言われます。

「表面上は人間の仕業、罪の行い、卑劣な出来事であっても、その背景には神の御手のあることに気付き、そこへの感謝を見出すことこそが、信仰の本領である」とは本当にその通りだと思うわけです。
 卑劣な行為は、私たちの生活の中にたくさん存在しますし、その反映として聖書の中にもたくさん出てまいります。卑劣な行為。今日の箇所にもそのことが示されております。先週の箇所でパウロが民衆の前で弁明をしました。自分の生い立ちから、信仰の歩み、そして自分が如何にキリストを迫害してきたか。しかし同時に如何にキリストに捕えられてきたのかを克明に語るのです。しかしそれを聞いたユダヤ人たちは怒り出します。今日の箇所はその尋常ではない怒りの中からスタートいたします。
「パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。『こんな男は地上から除いてしまえ。生かしてはおけない』」これが民衆の言葉でありました。この怒りと憎しみの中にある人間たちの前でキリストを弁明するパウロについて書かれているのが、今日の一連の箇所の内容であります。
 
 ここには弁明の場に立つパウロと、怒り狂うユダヤ人たち。そして第三者としてそれをみているローマの兵隊たちの、三つの立場の者がいるわけです。ここで面白いのは、ユダヤ人たちの論理と、ローマ人たちの論理の決定的な違いがみられることです。まずユダヤ人たちは、宗教的な論理の中で、特にユダヤ教を冒涜されたと感じていたようです。しかしローマ人たちは非常に冷静でした。ネガティブな言い方をすると彼らは無関心だったのです。関心があるとすれば、今から法廷で裁こうとしている人物がローマの市民権を持っているか否かという、法令上の問題であったのです。彼らはパウロがローマ市民権を持っていることを知って「恐ろしくなった」とあります。つまり彼らの恐れは、目の前の人間たちが何をしようとしているのか否かではなく、国家権力から照らしてその人がどういう人物であるのかに関心を持っているということであります。

 ローマ兵たちは、パウロがなぜ訴えられているのかわからず、確かなことをしるために、協議することにします。そして23章に入ります。パウロは最高法院の議員たちを見つめて言いました。見つめるということは、パウロが恐れなく相手を直視している姿を示します。そして「兄弟たち、私は今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」という自らの身の潔白を主張し、自分がキリストを伝えることについて、何のやましいことはない、と弁明いたします。しかし大祭司アナニアは、彼の口を打つように部下に命じます。これはアナニアが、事実に即して審議を進めようとしているのではなく、まずパウロの罪ありき、というパウロの有罪を頭ごなしに決めつけて制裁を加えたのであります。しかしこれは法廷では明らかな違法行為でありましたので、彼は「白く塗った壁よ。神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従って私を裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、私を打てと命令するのですか」といいます。この「白く塗った壁」というのは、マタイ23章27節でイエス様が「律法学者・ファリサイ派」に対して、「」白く塗った壁」と語ったのを連想させます。つまり「外側は美しく塗られているけれども、その内実は人を裁こうとし、隔離しようとする偽りの壁」という意味でありましょう。そして周囲の者が「無礼なことを言うな」とたしなめたところ、パウロは「律法に、網の指導者を悪く言うな」と書いているのを忘れていた、すまない すまない」。というようなニュアンスで受け答えます。しかしこの言葉は、先ほどお読みしましたように、出エジプト記22章27節にある、神をののしってはならないという文脈の中で、民の代表者を呪ってはならないと言われています。つまり民の代表者が神の意志を反映する務めを担っているということを示した律法の言葉として理解することができるわけです。

 ですからパウロがここで言おうとしているのは、「このような者が民の代表であるのか」という皮肉にも受け取れる言葉であると言えるわけ
です。あなたたちの民の代表者は、白く塗られた壁であると。
 この彼らに対して、パウロは信仰の本質的なことを提示してユダヤ人たちを論争にさせます。それは復活があるかないかということです。サドカイ派は復活を信じず、ファリサイ派はこれを認めているという信仰上の問題を提示することによってユダヤ人の側にも論争を生じさせたのです。この両者は2世紀の長きに亘って対立し続けてきた間柄でありましたが、パウロが登場することによってユダヤ教が根底から揺らいでいるという危機感に突き動かされてこの両者はパウロを葬り去ろうとして集まっていたのです。しかし今やパウロによってこの古くからの論争を再び蒸し返されることによって、会議が混乱してしまうのです。その議論が白熱した中であるファリサイ人が立ち上がり「この人にはなんの悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろう」と言ってファリサイ派には理解可能なことであると述べたのです。そしてこのままの混乱が続くとパウロの身が危ないと察したローマ兵たちは、彼を兵営に連れて行き何とか事なきを得たのであります。

 しかしその夜、主はパウロの傍に立ち、こう言われます。そしてこの言葉が大変印象的であります。「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。この神様の激励の言葉が力を失いかけているパウロに与えられるのであります。この言葉は、彼の前途に希望の光が消えたかに見える絶望的事態の只中に神の真のご計画が表されるという絶対的な言葉としての神の激励であります。パウロには多くの仲間がおりましたが、しかし彼を疎ましく思うものもたくさんおりました。アンティオキア教会の中にも、他のパウロの携わっていた教会にも、敵対者がたくさんいたのです。そして今やエルサレムの中ではパウロをめぐって最高法院は大混乱し、この男を殺し取り除いてしまえ、という恐ろしい言葉が飛び交う状態にあるのです。

 しかしこのような状況の中にあってさえも、神は「勇気を出せ」とおっしゃいます。この言葉を私たちはどう聞くでしょうか。まったく勇気の出ない状況に立たされたとき、私たちはどう思うでしょう。「勇気を出せ」などと言われても、勇気が出ないのだからだそうにも出せない。そんな難しい言葉を軽々しく語ってほしくない、と思うでしょう。それはなぜならば、人間の言葉としての「勇気を出しなさい」という言葉は、勇気の根源をその人本人が持っていないからであります。勇気を与えようと言って、自分が与えらえる勇気は高々知れております。もちろんその人に寄り添うこともできますし、その人の悲しみに触れることもできます。しかし人間の「勇気を出して」の言葉が軽々しく聞こえてしまうのは、それに責任が伴わないからでありましょう。勇気を出す力の根源がない。無力と罪に満ちた我々人間の側に、それがないのです。

 しかし神は、このパウロが、勇気のすべてが、根っこから引き抜かれたような状況にあって、勇気を出せと語るのです。そして語り得るであります。それは神ご自身の中に、勇気を出せの根源があり、私たちに力を与えるものを持っているからであります。
 「勇気を出しなさい。力強く証しせよ」。この言葉は裏を返せば、勇気はあなたが持たなくても持たせてくれるということと、その勇気を持てる見える証拠として、あなたが力づけられるだけではないということを含むのです。

 どう言うことか。それは神がこのパウロを殺そうと狙い定めている、あの敵対者たちにさえも、神の赦しの力が与えらえているということです。パウロは敵対する者たちとの戦いにばかり目を向けざるを得ない状況でした。自分の命が助かるか助からないか。自分の伝道者としての道が絶たれるか絶たれないか。それだけにとらわれていたのです。しかし神の愛はそうではありません。つまり神の愛は、パウロを殺そうとしているサドカイ派とファリサイ派にも注がれ、このローマ兵たちにも注がれ、自分に敵対する全ての者の罪を赦してくださる方が神なのであります。それがパウロの伝道し述べ伝えている神の言葉の事実であるのです。だからこそ彼は自分の走ってきたことが無駄ではない、神の言葉にはすべての信頼があると心底感じたのでしょう。それが彼の勇気となり、励ましとなったのです。

 ですから冒頭で申し上げました。ユダは赦されたのか。この答えは「然り」であるのです。私たちはこの確信を持ってよいのです。この確信がなければ、敵対するものをどうして愛することができましょう。そして敵対するものと敵対する自分がどうして赦されることなどありえましょう。それが神の愛の計画なのであります。

(浦和教会主日礼拝説教 2011年7月2日)