『5つのパンと2匹の魚を持つ少年』 ヨハネによる福音書6章1節~15節

             628日の説教から>
          『5つのパンと2匹の魚を持つ少年
           ヨハネによる福音書61節~15
                                  牧師 三輪地塩
  あるミッション系の大学の教員が、朝礼拝の奨励の中で次のような話をしている。
1デナリオンは当時の1日分の労働賃金だと言われます。もしパンではなく1日分のアルバイト代を持っていたとしたらどんな風に話が続くのか考えてみました。弟子は言います。「ここに1日分のアルバイト代を持っている人がいます。けれども、こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう。」そこでイエスは言われた。「日本では普通、1食分の食費がいくらかかるか知っていますか。」弟子は答えた。「約400円です。」「では、アフリカのチャド共和国では1食分の食費はいくらですか。」「1円です。」「1日分のアルバイト代で何食分用意できますか。」「1日分のアルバイト代は8000円です。8000食分用意できます。」「そしたら、その8000円をチャドに送ってパンに換えなさい。そうすれば、5000人、それ以上の人がお腹いっぱいになるでしょう」。
 これは大変示唆に富んだ面白い読み方であろう。最貧国はアフリカのみならず、アジア・中央・南アメリカにいくつも存在する。日本は円安が続いているとはいえ、海外の貨幣に比べると今でも強力な貨幣価値を持っている。
 この教員は最後にこう語る。「私たち日本人は、聖書にあるような奇跡を起こすことも可能かもしれません。例えばアジアやアフリカの医療支援を行っている海外医療協力会などの団体に支援をするとか、使用済みの切手を送るとか、何でも出来るのです。私たちとしては、「こんなものが何になるか」と思われるような、捨ててしまいそうになるほどの小さなものが、大勢の人たちの幸せのために変化する、ということも起こります。」
 極端な解釈かもしれないが、「こんな小さなものが何の足しになるのか」というようなものを「差し出す」というこの少年の行いが5000人の命を繋ぎとめたという奇跡を現代的な祈りのもとで考える良い話である。
 一人の小さな者が「捧げる」ことによって大勢の人が救われるという奇跡。そこに十字架が立つのである。

6月21日の説教 ヨハネによる福音書5章41節~47節

621日の説教から>
神から受ける誉れ
            ヨハネによる福音書541節~47
                 牧師 三輪地塩
 この箇所で印象的な言葉「誉れ」は『大辞林』で調べると「ほめられて世間的に光栄であること。評判のよいこと。名誉」とある。評判、名誉、称賛、つまり周囲からの評価ということである。聖書では「誉れ」と訳された単語は「ドクサ」というギリシャ語が使われており、「栄光を受ける」という意味である。礼拝の最後にいつも歌う讃美歌のことを「頌栄」と呼ぶが、この「頌栄」という言葉が英語で「ドクソロジー」と言う。頌栄とは本来的に「三位一体の神に栄光を帰す」という意味であり、また頌栄の目的でもある。
 イエスは当時の民衆たちに対し「あなた方は周囲の人からの賞賛を受けることには一生懸命になるが、神からの誉れを受けようとする態度を見せない」と嘆いている。イエスのいう「真実の誉れ」とは、人々からの賞賛ではなく、そこから程遠いものである。イエスが十字架にかかり、憎しみと嘲りのなかを生きそして死んでいったように、そこにこそ「誉れがある」といわれる。明らかに逆説的な「栄光・誉れ」であるが、イエス・キリストという神の御子であるメシアが、卑しく低い立場(犯罪人)と同じくなり、卑賤のメシアとして限りなく低いところで死んでいったのである。この卑賤のキリストにこそ、神の栄光が輝いていると聖書はいう。
 だがここに希望がある。我々人間の生きる意味や目的はどこにあるだろうか。我々の人生ではたびたびその本質が問われるものとなる。賞賛や評価を勝ち取ることは決して間違いではない。しかしそこに「のみ」心を向け、目的と意味をおいてしまうならば、それを失ったとき、その命の存在意義自体を失ってしまいかねないのである。「評価されないわたしなど“生きる価値すらないのだ”」と。しかしキリストはそこに人間の命の価値をみいださない。我々の価値は、人からの評価や賞賛(つまり「誉れ」)にあるのではなく、限りなく低く生きてくださったキリストと共に生きることにこそあるのだ。

<6月14日の説教から> 『浦和教会が見る幻』 (教会創立80周年記念礼拝)

614日の説教から>
『浦和教会が見る幻』
(教会創立80周年記念礼拝)
             ヘブライ人への手紙1117~22
                               牧師 三輪地塩
 1935年に教会として建設された浦和教会は、記録では1885年から巡回伝道があり、既に家庭集会が始まっていた。この教会の創立当初から多くの牧師や長老たちが携わってきたが、押しなべてこの教会が大事にしてきたものは「神学」である。「シンガク」という言葉を聞くと、かしこまった、お堅い印象を受けるが、要するに「神様のことをよく知りたい」という切望が人を神学させる原動力となる。この教会は良く耕された畑のように、神学することによってしっかりと整備され、福音の実りという作物を育てるのにちょうどよい土壌となっている。その意味でこの共同体は、先達たちの尽力と学びが作り上げたものである。
そして今、80周年を迎えるこの教会が向かうべき場所をどのような幻で見るのであろうか。
 我々日本のキリスト教会は、戦前、戦後、21世紀の現在に至るまで、少数者として生きることを余儀なくされてきた。それを保つためには、自らを「主張し」「他者との差異を明らかにし」「自らの信仰の何たるかを周囲に示し」てきた。そうでなければ生き残ることができなかったからである。しかし今一度、この80周年の記念の時、この浦和教会が進むべき道を確認せねばならない。我々は「シンガク」によって神を知ろう知ろうと努めてきた。しかし同時に他者を知ろう知ろうと努めてきただろうか。この教会が「浦和」に建っていることへ感謝と喜びをもって歩んできたであろうか。そのことが問われる。マタイ712節で主は言われる「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と。
 わたし(説教者)は、日本の教会が「我々(教会)の欲すること」を地域に求めてきたのではないかという反省を持つべきであると考えている。地域が欲することを我々はどれだけなしてきたであろうか、と。これからの日本の教会と日本の宣教の課題がここにある。そしてそのことを考えることこそが、これからの浦和教会に与えられた幻と考えるのである。

2015年6月7日の説教 ヨハネによる福音書5章31節~40節

67日の説教から>

『聖書研究』

ヨハネによる福音書531節~40

                 牧師 三輪地塩

キリストをどう理解し、聖書をどう読んでいるか。我々は聖書からいつもこの問いを受けている。信仰によって読み、信じるという視点から読むことによってはじめて この一冊の書物は、単なる本から一冊の聖なる神の御言葉として立ち上がってくるのである。

現代人である我々は、あの38年間床に伏せていたベトザタの男性が起き上がったことを信じ、そこに信ずべき神を見出すことができるのか、という問いの前に立たされている。神の言葉としての聖書の出来事は、ほかでもなく我々に対して語られ、我々の救いのために語られている。我々はそのことに気付いているだろうか。38年のあの男性は、病気が治ったから奇跡が起きた、というのではない。聖書は癒しの業を行うことに注目させたいのではなく、イエスご自身が神の働きそのものであることを示している。この癒された男性は大変ラッキーなことであった。けれども現実は、我々は一生涯障害を抱えて生きねばならないことが起こり、寝たきりの生活を余儀なくされることもある。そのいずれの生涯においても「神の業は我々に十分である」と信じることが出来るか、そのことが問われている。

第二コリント129節で、体と心の弱さを受けた使徒パウロは言う。「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。パウロは弱さの中にあって、主の恵みは「十分である」と言い切る。そう信じることが出来る神との関係が大切である。

 我々が聖書を読むとき、このような信仰と共に読むべきであろう。神の独り子を証しする書物として読むこと。この聖書を神の言葉と理解し解釈し、その中に神の恵みが十分であることを見出し信ずること。それこそが我々が御言葉を聞きそれに応答する責任である。

 御言葉は既に語られている。キリストがこの世に来られた時から御言葉は我々の傍らにあるのだ。それに適切に応答しそれを受け入れ、それを信ずることの出来るものとなるよう、祈り求めたいものである。

2015年5月17日の説教 ヨハネ福音書5章19節~30節

517日の説教から>

                 『死から命へと』

ヨハネによる福音書519節~30節  

三輪地塩

 ユダヤ人は怒っていた。イエスが、神を「父」と呼んでいるからであった。我々は「父なる神」という語り掛けを当然だと思うかもしれないが、ユダヤ人には地雷となる。彼らにとって神は「創造者」であり、人間とは全く相いれない、「聖にして」「別格の存在」であった。彼らの神は「絶対他者」であった。しかしイエスは神を「父」「おとうさん」と親しげに呼んだのである。ヘブル語では「アッバ」と言う。アッバは親しみを込めた呼び掛けであり、近しさを意味する。イエスにとって神は「近しい方」であり、ひいては我々信仰者に、神との近さを伝えようとしていたのだ。5:18では「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。」とある。ここに決定的な神観の違いが生じている。十字架へのカウントダウンが始まろうとしていた。

 人間の罪深さは神を遠ざける。否、神は人間を罪深さのゆえに遠ざけざるを得ない、と言い得るだろう。そこには絶対的な隔絶があり、断絶がある。それは正しい。しかし我々は「キリスト」という「真の神であり、真の人」であるお方のゆえに、神に近づける者となる。遠い存在を近い存在として、相いれない絶対他者が、「隣人となられた」それがキリストがこの世に生まれたこと(つまり“受肉”)の意味であり、そこに我々の救いがあるのだ。

 いみじくもユダヤ人たちの指摘は正しい。神は絶対他者である。しかしキリストの十字架と復活の光に照らされるならば、間違っている。神は隣人と「なられた」のだから。

浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書18章15節-20節 『面と向かって語り合いなさい』 2013年8月4日 (2)

 浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書18章15節-20節
              『面と向かって語り合いなさい』 2013年8月4日 (2)

 ≪(1)からの続き≫

 このような疑問を受けて、私たちは、この箇所をどのように読む事が勧められているのでしょうか。それは、この箇所がどのような文脈の中にあるかによって明らかになるのです。

 今日の箇所の一つ前には、10節以下で「迷い出た羊」の話があります。99匹の正しい羊ではなく、1匹の羊の救いにこそ、天の国の喜びがある、という話であります。
 そして今日の箇所の次の箇所には何があるでしょうか。来週の先取りになりますが、「仲間を赦さない家来の譬え」があります。この話は単に借金を帳消しにしてやらなかった家来の愛の無さを伝えようとしているのではなく、むしろ有罪判決を受けるべきものがその罪を赦されている、という事に焦点が当てられているのです。

 つまり今日の箇所は、迷い出た1匹の羊の話と、借金を帳消しにされた家来の話にうまく囲まれるようにして、ここで語られようとしているメッセージを示されているのです。それはすなわち、罪を犯した者がどのように裁かれるかではなく、この二人はどのようにして和解が成立するのか、という大事なメッセージであります。神が望んでおられるのは、3段階の教会法制度によって、改心し悔い改めないものは、教会の群れから除外されるというペナルティーを負う事になる、という事ではなく、神は、罪人同士が和解し、共に救われるようにという事が求められているのであります。
 
 19節にはこうあります。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」この文脈では唐突に出てくるような言葉でありますが、しかしJ.D.M.デレットという神学者はこの19節を次のように読み替えています。

 「もしあなたがたのうち二人が何であれトラブルになっている事柄に関して、お互いに同意する事    ができるなら、その同意に対して、天の父は祝福してくれるだろう」。

 このように言い換える事が可能であるとデレットは言うのです。そしてその流れで20節も解釈されるべきであると思います。20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」。この教会を表わす時に良く用いられる有名な一節は、単に教会とは仲の良い信仰者2~3名、乃至、神様を信じる信仰者2~3名が集まればそれは教会である、と言うだけの言葉に留まりません。この20節は、神の救いと神の赦しの文脈の中で読まねばならないのです。

 それは、「ここに集まる人々が、キリストの名によって集まる時、それらはキリストの十字架の赦しに属しているのである」という事です。従ってここに集い得る2~3名の中には、仲裁する者が居ようと居まいと、言い争っている2名の信仰者が、彼ら彼女らを隔てているどんな問題や、どんなトラブルや、どんな怒りや憎しみや損害にも拘らず、和解を目指そうとする2~3名なのであり、お互いに和解を目指そうとして進む時、その只中にこそ、真の贖いの主、イエス・キリストが居られるのだ、という事がこの20節で語られているのであります。

 この19節には大変印象的な言葉が使われております。それは「シュンフォネーソーシン」というギリシャ語であります。これは「心を一つにして」と訳されている言葉です。これは「共に」「一緒に」を意味する「シュン」という接頭辞に、「音」を表わす「フォネオー」が付き、「シュンフォネオー」、すなわち「音が調和する」、とか、「意見が一致する」「合意する」「協定を結ぶ」などの意味を持つこのシュンフォネオーは、交響曲「シンフォニー」の語源にもなっております。

 シンフォニーとは、まさに、一つの音として、響き合う一つの音楽となります。交響楽が奏でられる時、コンサートホールでは数十種類の楽器が準備され、それが複雑に絡み合ってあの大きな潮流のような音楽となるのです。どんなに音の小さな楽器、たとえば、トライアングルや、カスタネットのような、小さなパーカッションであっても、その音は独特の響きをもって、ここぞと言う場面で用いられるでしょう。あるいは一曲の中で一回しか出番のないようなものであっても、そこに不要な楽器というものは存在しないのです。数十人から曲によっては百人を越える大編成の演奏者がおり、コンサートマスターからはじまって、大きな楽器の陰に隠れてしまうような目立たない立ち位置にいる一人まで、すべてがシンフォニーとして必要とされており、役割の違いがあるだけであります。舞台の右にいる人は左の人の音を聞きながら、指揮者の奏でようとする音楽を目指して、共に音を聞き合って、それぞれの個性を生かしながら、しかし楽譜の支持に、作曲者の意図に従って、心を一つにして、思いを一つにして奏でるのです。そしてシンフォニーは生まれるのです。まさにシンフォニーは、全体の調和、全員の心が一つにされる時に、本当の音楽となって響き渡るのです。

 教会も、教会員の交わりも又シンフォニックなものである、と聖書は言います。教会は罪人の集まりです。ですからそこには間違いも起きます。トラブルもあります。しかしそれぞれの心がどこを向いているのかが重要なのです。それぞれがいがみ合い、キリストを除外し、キリストをそっちのけで訴訟し合う時に、そこにあるのは不毛な結論でありましょう。

 しかし互いに向き合い、共にキリストの臨在を求めつつ、心を一つにして、和解を願い、赦しを願い合うならば、その方向に進む事を心から願い求めるならば、そこには真のキリストの十字架が立ち給うのだ、と聖書は語るのであります。

 私たちは神が望んでおられる事を求めたいのです。二人または三人がキリストの名によって集まるところに、裁きがあるのでも、決裂があるのでもありません。キリストの名によって集まるところには赦しと和解があるのです。私たちの教会という集まりが、このような場所である事を願い、主イエス・キリストがいつも共におられる事を信じて、歩みたいと、いつも願っています。

  祈りましょう。