マタイによる福音書6章9節  『御名をあがめさせ給え』主の祈り(1) 2012年2月26日

 マタイによる福音書6章9節 『御名をあがめさせ給え』主の祈り(1)

 私たちの信仰の中心的営みの一つに「祈り」があります。ある神学者は「祈りは宗教の精神であり、また脈拍である」と言いました。宗教における最も奥深く、深遠なる本質こそが「祈り」によって表されると言っても良いでしょう。つまり祈りを知る事こそが、その宗教の本質を知る事に他ならないという事です。

 これは私たちキリスト教信仰においても同じです。しかし祈りには多くの危険と誘惑がある。それが偽りの祈りであると先週の箇所で主イエスは言われました。あなたは誰に対して祈るのか。人間を思い浮かべて人間のおもねって祈るのか。それとも真実の主に対して主に向かって祈るのか。それが最も重要だと言われていたわけです。
そこで主イエスは「だから、こう祈りなさい」と前置きして私たちに言われます。その真実な祈りとは次のようなものであると前置きして、私たちに「主の祈り」を教えられたのであります。「主の祈り」はギリシャ語にすると、たった57語から成る小さな祈りです。しかも日曜学校の小さな子どもたちでも出来る簡単な祈りです。しかしこの祈りこそが、主が「だから、こう祈りなさい」と言われるほどの、信仰の最も深淵な事柄を祈り、また最も身近な事柄を祈るものとして、私たちはこれをいつも口にするのであります。

 このように「主の祈り」は、私たちの財産と言って良いものでありますが、しかし私たちクリスチャンはこの祈りを、実はあまり理解していないのではないかと思うのです。毎週毎週、祈っている筈のこの祈りが、実は本来の意味が忘れられて、形式的にそらで暗唱する事が目的になってしまっているのではないかと思うのです。一語一句、噛み締めるというよりも、これを諳んじる事によって主の祈りを祈っている、そのように思うのです。宗教改革者マルティン・ルターは、「キリスト教の歴史における最大の殉教者は、『主の祈りである』」と、大変皮肉を込めて述べております。つまりキリスト教の歴史の中において主の祈りが、本来の祈られ方をされておらず、「抹殺された」という事を言っているわけです。つまり私たちクリスチャンこそが、主の祈り殉教させているわけです。そのような自己反省とルターの皮肉を受けつつ、この祈りの本当の意味を一つ一つ読み解いていきたいのであります。

 今日から5週にわたって、「主の祈り」について学びたいと思います。形式的に繰り返される祈りとしてではなく、心から搾り出される祈りとしてこれを祈る事が出来るならば、主の祈りの居場所を確保し、殉教の身から「主の祈り」を救い出す事が出来るのではないでしょうか。

 主の祈りの構造について少し説明します。簡単に言いますと、「前の三つ」の祈りが「後の三つ」の祈りを支えていると言えると思います。「天にまします~」から「地にもなさせたまえ」までが最初の3つの祈り、「我らの日曜の糧を~」から「悪より救い出だしたまえ」までが後の3つの祈りであります。

 前の三つは、御名、御国、御心の三つについての祈りです。この三つによって、私たちの全てが神に支配されるという事、神の主権によって私たちへの約束が果たされ、私たちの願うあらゆる類の願望と、希望が支えられる、という事です。

 従って、自分のために、日曜の糧、つまり毎日のパン一つを願い求める際も、神の御名、御国、御心を考えないでは、まことに相応しい態度をもって願う事が出来ない、という意味を持つわけであります。つまり主の祈りと言うのは、単に私たちの願望を羅列した祈りなのではなく、神が中心におられる事を前提としながら、極めて人間的なパン、赦し、試練に関する人間中心的な祈りでもあるわけです。主の祈りは、神中心であり、同時に人間中心の祈りであると言う事が出来るのであります。
 その中で今日は、「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせ給え」という、文言について深めていきたいと思うのです。


 祈りというのは、ちょうど手紙のやり取りと同じであります。手紙を書くとき最初に「誰々さんへ」と、宛先を明記いたします。宛先の名前がなく、突然手紙の本文から始まったとしたなら、この手紙が誰に読まれる為に書かれたのかが不明瞭です。祈りもこれと同じです。最初に宛先についてはっきりと述べる事が必要です。主の祈りではこれを「天にまします我らの父よ」と言っております。つまりこれは神に対して宛てられた祈りである、という事です。祈りとはそもそも神に対するものであり、人間に対するものではありません。そんな事を分かり切った事であると思うかもしれません。しかし私たちの祈る祈りとは、決してそうではない事を、先週の箇所から学びました。つまり神を神とする祈りではなく、人間からの評価を受ける為に行う祈り、すなわち人間を神とする祈りが偽りの祈りとして存在するのだ、と主イエスはおっしゃいます。ですから決して「そんな事、分かり切った事だ」と簡単に読み飛ばす事は出来ないのであります。もしこの大切な文言を読み飛ばす、もしくは意識なく諳んじるならば、神不在の人間に向けられた祈りとなる危険が迫る瞬間がそこにあるのかもしれません。だからこの最初の文言は大切です。
 
 しかしここで注目したいのは、「神」が「父」と言われている事です。この事はルカ福音書15章11節、「放蕩息子の譬え」に言い表されている意味での「父」であります。このルカの箇所は、一般に「放蕩息子の譬え」と呼ばれますが、しかし実は放蕩息子がテーマではありません。この話の主人公は、「放蕩息子の弟とそれに嫉妬する兄に対して、父が愛とは何であるのかを教える話」と言うのがテーマであります。言い換えるならば、天の父とはどのような方であるのかについて語られた譬えなのです。「父の家から離れていき、放蕩の限りを尽くし、飲み食いなど散財を重ね、一文無しになり、誰からも失われた者となった、その失われた者を「失われたままである事を欲し給わない方」。それが私たちの父である、という事なのです。

 もう一箇所、マタイ福音書20章1節以下、「ブドウ園の労働者の譬え」と言うのがあります。あるウ園の主人が、から晩にかけて数名の労働者を雇い、ブドウ園で働かせた。その労働者の勤務時間はまちまちであった。しかしその主人は12時間働いた者にも、1時間しか
働かなかった者にも、同じ1デナリオンの賃金を支払った。勿論多く働いた者たちから抗議を受けました。しかし主人は言います。「私の気前の良さを妬むのか」と。この主人が神であり、父である事は言うまでもありません。そのような気前の良さと、ご自分の誠実さと自由さに基づいて、全ての者を同じだけ慈しみ愛して下さる方。それが「父」であると聖書は言います。

つまり「主の祈り」で語りかける「父」とは、こういう方であると聖書は言うのです。「失われた者を、失われたままにされない方」。そして自分自身に誠実であり、全ての者に対しても誠実な方」であります。その父に対して私たちは、「天にまします我らの父よ」と呼びかけるのです。このように呼び掛ける時、私たちは、全ての権利と全ての支配を、この父なる神に明け渡すのであります。

 そしてこの父は私だけの父ではなく、「我らの父」として呼び掛けています。私たちは決して神を独占する事は出来ず、また独占できる方でもない、という事を意味します。そして同時に、「我ら」は同じ「父」を中心にした被造物であり、又、信仰共同体の一人である事を、公に告白する事も意図されています。アメリカ南北戦争の時に、北軍も南軍も、同じ神に勝利を祈った。そのような矛盾に対しても、神はご自分の義を行い賜う方なのです。誰も神を独占できない。我らの父とはそういう意味を含むのであります。

 そのように宛先を明確にした後、私たちは「願わくは御名をあがめさせ給え」と祈ります。「御名」と言うのは、単に観念としてではなく、実体そのものとしての神の名を指します。すなわち「御名」とは、「神御自身そのもの」という意味です。
 モーセが出エジプトの命令を神から受けたとき、神は御自分の名を「私はあってある者」と言いました。ヘブル語でハーヤーという言葉は英語のbe動詞と同じような意味ですが、ハーヤーは「ある」とか、「いる」というような存在を示す動詞です。そのハーヤーから派生して出来た名前が「ヤハウェ」つまり「私はあってある者」と、御自分をお示しになられた通りの名がそのまま「神の名」として認知されたのであります。

 十戒でも「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と戒められるように、神という存在は、私たちに簡単に呼び出され、私たちの都合によって如何様にでも出来るような存在では無い、という事を示します。

  「御名をあがめさせ給え」と言うのは「神の御名が聖とされますように」という意味です。「聖とされる」というのは、尊ばれるとか、敬われると言う事ではなく、「分離される事」を示します。つまり神と人間の絶対的な隔絶性、相容れる事の出来ない神という意味であります。イザヤ書6章でイザヤが預言者としての召命を受けたとき、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と告白いたしました。そしてイザヤは自らの口の汚れと、神の言葉の聖さのあまりの違いに、自らが預言者として相応しくないと思い尻込みする、という一場面が描かれております。「聖とされる」というのは、それほどの意味で神が罪ある私たちとは隔てられた存在である事を意味するのです。

 しかしそんな事は分かり切った事である筈です。何故主の祈りでは、「御名が聖とされますように」という分かりきった事を敢えて祈らなければならないのでしょうか。それは神の御名が「聖とされていない」現実があるからです。先ほど言及しましたマルティン・ルターは主の祈りの講解の中で、「この祈願ほど私たちの生活を打ちのめす教えは無い。なぜなら、私たちがこの祈りを祈るのは、私たちが神を絶えず冒涜し、聖としないで生きているからだ」と、このように言っております。
また、リュティというドイツの神学者は、この祈りについて次のように言います。

 「神の聖なる御名は受難の時を過ごしている。神の名は、ちょうど一個の貨幣(コイン)のように、人の指の間を巡り巡って、完全に使い古され、もう見分けがつかぬほど磨り減ってしまう。すりつぶされ、きたなくなり、ベトベトした貨幣を手にした後、手を洗いたくなる衝動を感じるに違いない。その貨幣は信仰者の間では、神の名に置き換える事ができる」。このように言っております。つまりリュティは、神の名はあまりにもみだりに唱えられすぎている、と危機感を募らせているのであります。

 私たちがもし主の祈りを形式的に、ただ何となく唱えているのだとするならば、それは完全に使い古された貨幣のように、御名をみだりに唱える事になるでしょう。ですから主の祈りは唱えるのではなく、唱和するのでもなく、主の祈りは祈られるべきものなのであります。

「御名をあがめさせ給え」という祈りは、私たちは本当に真実な方を真実な方としているのか、という懺悔と、悔い改めの祈りであるのです。この神の名が全世界にとっての真の聖なる名とされるために、私たちはその生活を通して、生きる様子を通して、自らの態度を通して、神の証人となる事が求められているのです。「御名をあがめさせ給え」。この祈りによって私たちは、神ではない者を神とする世に「否」と言い、唯一の神を聖とする事に「然り」と言いつつ、真の神を証しする者である宣言をするのです。主の祈りは、単に私たちの願望の祈りではなく、極めて明確に、私たちの歩みの道しるべとなる祈りであります。その事を思いつつ、これからも私たちの礼拝において、主の祈りが真の主の祈りとなるべく、祈り続けたいものでございます。 

 (浦和教会主日礼拝説教 2012年2月26日)
          

マタイによる福音書6章1節-4節 『偽善か真実か』  2012年2月5日

 マタイによる福音書6章1節-4節 『偽善か真実か』 2012年2月5日

 3.11以来、日本では国内外から莫大な金額の募金が集められいますがその中でも驚いたのは、ある篤志家である某企業の社長が100億円のポケットマネーを寄付したという報道でした。ポケットなどに入り切る筈もない莫大なマネーであります。これが発表されたのが4月初旬でありまして、その1月半後、まだ一円も入金されていない事が話題になり、メディアはこれを二つの見方で捉えました。

 一つ目は、株の売る時期を見計らっていると言うものです。この社長には6800億円の資産があると言われますが、勿論現金で持っているわけではなく、その大半が自社の株であるという事であります。その株を100億円分まとめて現金化しますと、株価が大暴落してしまい、この企業自体の存続に影響しかねない。それで少しずつ換金をしていくため、その時期を見ているのだ、という肯定的な見解であります。

 そしてもう一つの捉えられ方は、そもそも100億円など出す気はなく、一種の企業戦略であり売名行為に等しい、という批判的なものでありました。見せガネとして100億という莫大な数字を見せ世論を味方につけるという戦略であるというものです。そもそもこの社長さんは、東日本大震災をビジネスチャンスと捉えているのではないかという事も言われる事があるそうです。
 このような報道は、一部のメディアで言われている、いわば三面記事的な内容でありますし、その情報ソース自体がどこに由来するのか分からないものでありますから、今お話しした内容も話半分でお聞き下さればと思うわけです。しかし善意というものは、面白いもので、ある一つの善意が行われた時、それが善意であるのか、偽善であるのかという正反対の見方があり、どちらの内容にも真実味があるように思われます。彼が行なった莫大な募金が、完全な善意であるなら、後者の報道は全く事実無根であり、名誉棄損にもなりかねない見方でありましょう。しかしこれが、売名行為やビジネスへの足掛かりとして行われていたのなら、それこそ企業の存亡に関わる問題であろうと思います。私はこの事に対してどちらなのかという事は申し上げられませんし、この資産家である彼自身しか、本当のところが分からない、というのが事実であろうと思うのです。しかし人は、それをああでもない、こうでもないと言う。今ここでお話ししている事も、その類に属するのかもしれません。

 つまり何が言いたいのかと言いますと、人間は善意も悪意も、人に見られるという事によって受け止められ、それによって行われた行為は善意にも悪意(もしくは偽善)にもなるということです。言い換えるならば、善意の行動は、往々にして人に見られる事の中で評価され、批判される、という事であります。

 今日与えられた箇所は、この戒めが私たちには厳しい言葉であることを示します。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」このように厳しい言葉が示されます。そしてここで言われている善行とは、2節にあるように「施し」である、というのです。

 当時のユダヤでは、一般的に施しが行われていました。彼らの生活は、日常生活と信仰生活が分離されていない、一体化したものであり、信仰者としての行為として、神の憐れみを他人に分け与える具体的な行為として施しが行われていたのです。これは律法に基づいており、申命記15章11節にその事が示されています。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」このように律法で命じられる事によって、ユダヤ人たちは貧しい人々への施しを一般的な行為として行っていたのです。そう考えますと、当時のユダヤ人たちは大変立派であったと思います。今日の箇所が偽善的な行為の戒めなので、どうしてもユダヤ人たちの大半が自分の行為を誇っていたというイメージで読んでしまうのですが、しかしこれらの行為自体がもし偽善であったとしても、何もしないよりは随分立派な事ではないかと思うのです。アジアのある国で、5歳の男の子が車に轢かれて血を流しているのに、何十分もそのまま放置されて死亡した様子が、防犯カメラに全て写っていたという事件が起こりました。人通りの少なくない道で倒れている子どもを、我関せず、と素通りしていくという事が往々にして起こり得る世であります。このような現状が現代社会であるとするなら、主イエスの生きられたユダヤ人社会は、律法に根差した大変立派な心掛けであると思うのです。

 この立派な行いが当時も評価されていた事でありましょう。しかしこのような立派な行為は、得てして「人に見られる事を好む」と主イエスはおっしゃるのです。立派な行為の中には隠された誘惑があり、善意は偽善となる可能性を秘めていると言うのです。

 善意と悪意という事を考えてみます時、それが決定的に異なるのは、見られたいか否か、に尽きると思います。例えば、空き巣はそれを悪い事と知っているから人目に付かないように犯行を行います。悪い事をしていると自覚する者は、人に見られたくないと思い、隠れて行動します。世の中で起こる殆どの悪い事は、人に知られたくないと思われて行われているはずであります。

 しかしそれと正反対に行われるのは、「善意」です。良い事をしている、というのは見られても良い、否、見てもらいたいと思うものなのです。あの100億円の募金者も、究極的には、誰にも知られずに募金する事も出来たはずですが、しかしそれを公表する事によって、善意を公に知ってもらいたいという思いがどこにも無かった、とも言い切れません。勿論そうではない人もいるでしょう。誰にも知られないで良い事を行なう。多額の募金という事だけではなく、ひっそりと行われた慈善的行為、隠れてなされたみんなの益となる助け。それらは実はこの世で行われている筈なのです。しかしそんな事があったかどうか、誰も知りません。そのような慎み深い良い行為であるなら、それこそみんなに知られて欲しいと私たちは願います。しかしそんな事は起こり得る筈がありません。なぜなら誰にも気付かれずに行われるからです。

 ここに一つの矛
盾が生じます。「誰にも知られない」という事は、その知られなかったという事自体が評価されるべきなのですが、しかし「誰にも知られない」という事は、誰からも評価されない、という事になるのです。つまりここに今日の箇所の示す意味があります。それは「評価の問題」です。

 どうして人は、自分の良い行いを見てもらおうとするのでしょうか。口語訳聖書ではその事が明確に示されます。「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい」。「自分の義」それは自分自身の正義であり、自分自身の正しさであります。自分の正しさを人に見てもらいたい。そのような心の働きが起こるのであります。先ほどの悪い行為と表裏一体です。悪い行為は誰にも見られたくない、しかし良い行為はみんなに見てもらいたい。それが私たち人間の本質にあるのだと言うのです。

 今日の言葉の確信はここにあるのだと思います。つまり誰が評価するか。誰の下で行為するかが問われているのです。人に見られて人の評価の中で自分が善行を行う時、その評価の基準は人であり、人が自分を如何に見ているかが重要になってきます。人からの評価の高さがその行為の高さであり、その人自身の高さになっていく。人からの評価が低い場合、その行為がどんなに素晴らしかったとしても、そこには意味が無くなって来るのです。
 言い換えるならば、誰のための行為となるかという事です。人から評価を受ける事の中で自分を律していく者は、人を重んじ、人を敬い、人を尊重して生きていく。その行為自体は決して悪くありません。しかしそれは突き詰めていくならば、行為の内容そのものではなく、人がそれをどう見るか、人がこの行いをどう評価してくれるのか、という、他者の胸三寸で決まる「善意」となってしまうのです。それは「あなたにとって神とは誰か」という問いになります。人からの評判、人からの噂を神にするのか。それとも真の神を真の神とするのか。その事が問われているのです。

 人は、得てして、どんな評判でも流します。ある事ない事、作り話に至るまで、実しやかに流します。そして人は、その事に一喜一憂し、嘆き、落ち込むのです。立派な行為を、人知れず行っていたとしても、それは見えないので、行っていないのと同じなのです。だから人は、評価してもらおうと見せようとする。その事を言っているのであります。人の評価とは、適当なものであります。莫大なポケットマネーを募金したとしても、その評価は全く正反対になるのですから。

 だから誰がその行為を見ているのか。その事をいつも念頭に置きなさい、と聖書は言うのです。「評判」と言う神。「人の評価」という神ではなく、真の創造主なる、御子イエス・キリストの父なる神、その方こそが、あなたの行為を知っておられるという事であります。ディケンズの『クリスマスキャロル』の中で、主人公スクルージが回心したのも、自分の行為が主に見られているという恐れに気付かせられたからであると語られます。聖書の中にも、レプトン銅貨2枚を献げたやもめの行為が神に見られている事が語られ、ニネベに行く事から逃れようとした預言者ヨナの行為は神に見られていたことが語られ、カインとアベルの思いの違いを主は見ておられ、使徒言行録5章のアナニアとサフィラの夫婦が貧しい者たちへの施しをごまかした事を主に見破らその場で主の裁きを受けた事など、主が我々を見ておられると多くの箇所で語られているのです。
 誰が見ているのか。人を主人にしてはならない。主イエス・キリストの父なる神こそ真の主人とせねばならない、この事が言われているのであります。

 そして最後に、山上の説教全体を通してこの言葉を考えてみたいと思います。それは5章16節であります。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」という言葉と、見せることなく善行に励めという言葉は矛盾するのではないか、という事であります。あちらでは立派な行いをしろと言い、こちらでは人に見せるなと言う。これは矛盾なのでしょうか。否、良く読んでみるとそうではない事が分かります。それは「あなた」と「あなた方」という2人称単数か、複数かの違いであります。つまり、あなた自身の善行は、独りよがりのものになりかねない危険を孕んでいるけれども、しかしそれが複数で行われる、共同体的行為である時、その責任はその共同体にあり、その責任の下で、その善行を吟味し、世にある共同体としてあり続ける意味を持つのであります。つまり言い換えるならば、そこにキリストをかしらとする教会の意味があるのです。2人もしくは3人いるところに私は居るのである、と主はおっしゃいました。それは複数の信仰の友らの交わりと祈りの中で行われる主イエスを中心とした行為こそが、その光を輝かしなさいと言われる行為であります。そこに教会形成の意味があり、そこに教会がこの世に存在する意味があるのです。

 今日は新任の長老と執事が任職式を迎えます。この浦和教会が、主によしとされた良い教会形成をし、良いしもべとして導かれる事を、主は望んでおられる。それはこれ見よがしに自分の善行を世に知らしめる行いではなく、慎み深く、人を慈しみ、隣人を愛する中で行われる行為であり、見えない行為を見ておられる神の名を崇める事になるのです。
私たちの行いが、主によって良い者とされますように祈る者であります。

 
(浦和教会 2012年2月5日 主日礼拝説教)

マタイによる福音書5章17節-20節 『一点一画も消え去らず』

 マタイによる福音書5章17節-20節 『一点一画も消え去らず』 

 キリスト教会で、律法と言うものは大変重要なものと考えます。モーセの十戒に示されているような、ユダヤ教の時代にシナイ山で神から与えられた法律の書。生活規定でありながら、民法、刑法、刑事訴訟法の法律的な要素もあり、また宗教儀式、例えば犠牲の捧げ方や、神殿での礼拝の仕方などに至るまで、宗教的指針としての役割も持っているもの。それが旧約律法であります。それによって人間は規定され、そのように生きる事が重要だと考えられ、その生き方こそが神に与えられた本当の人間らしい生き方であると信じて当時の人たちは生活していたのであります。
 律法の中には例えばこのようなものがあります。安息日には神様が休めと命じられた日であるから、何もしてはならない。極力家にいて、出歩くにしても一日1500歩までとか。もし安息日に飼っている牛がドブに落ちたとしても安息日なのだから助けてはいけないとか。サマリア人など宗教の異なる者、徴税人、娼婦などは罪人であるから、関わりを持ってはいけない。一緒に食事をするなどはもってのほかである。とにかくこのような事細かく決められた律法を守る事によって、自分たちの信仰が守られ、またそれが自分たちの生き方であると信じられていたのであります。

 しかしイエス様という方は、悉く違う事を行ったのです。安息日には何もしてはならないという律法があるにも関わらず、手や足の萎えた人々に癒しの行為を行ったり、忌み嫌われた罪人として敬遠されていたサマリア人、徴税人、娼婦たちと共に食事を囲んだりと、全く律法とは異なる事を行ったのです。

 それに対してユダヤ教の指導者たち、特にファリサイ派と呼ばれる律法に厳格なグループたちは、イエスは神の律法を軽んじ、またこれを破壊しようとしているのだ。と罵られたのです。イエスという輩は、神を冒涜し、神の言葉である律法を破壊しようとしていると反逆者のレッテルを張られたのでした。
 主イエスは、律法的に厳格に、一語一句寸分たがわぬ生き方をする事が律法的に生きるということではなく、神が我々に何を語り、何を求め、どのように生きよと言われているかを示しているのかを律法から読み取り解釈する。それが律法的に生きるという事だ、と言っているのでありましょう。律法が完全無欠であり。杓子定規に捉える事が神の喜ばれる事だと考えられていた時代背景の中で、この主イエスの大らかで、人を生かす律法解釈はあまりにも斬新であり、それ故に伝統的な律法学者、ファリサイ派の人たちからは忌み嫌われたのであります。そして結果としてそれが十字架に繋がっていくのです。

 律法的に杓子定規に生きるという事は、単に形式ばって生きるという事だけを意味しません。むしろこの律法に忠実に生きている自分が問題になって来るわけです。つまり自分は律法に忠実に生きる事が出来るという事が、それ自体目的になってしまうのです。それは人間としての功績や業績を求める生き方であり、自分が徳を積んでいき、周りから立派だと思われるべく生きたいという欲求を満たす生き方なのです。それが律法主義の生き方であります。それは決して人の為、人を愛する為、最も身近な友人知人、家族でさえも犠牲にしてまでも自分の偉さを誇って生きる生き方となっていく。つまり律法主義は、自分のために生きる主義に変容してしまうのであります。

 しかしここで主イエスが言っているのは、律法は確かに神の言葉である。しかし神の言葉は本来人を生かすものであり、人を愛するためのものである事に目を向けよ、ということなのです。だから20節で主イエスは言います。「あなた方の義が、ファリサイ派の義に勝るものであってほしい」という事を要求なっているのです。


 以前もお話ししたかもしれませんが、東後勝明さんという方をご存知でしょうか。1972年から1985年の13年間、NHKのラジオ英会話の講師をしていた方です。その当時学生だったという方は、知っておられるかもしれません。
 東後勝明さんは、高校2年の時に父親に先立たれ、その時「勝明、出世しろよ」という父に遺言されたといいます。それを受けて、周囲の期待に応えて、英語の世界で出世街道をひた走ります。早稲田大学1年生の時、英語暗誦コンテストでリンカーンの演説を行ない600人の中で1位を取った時から、その実力の頭角を現します。大学卒業後、英語教師をしながら、世界の名門ロンドン大学で学業を積みます。留学を終えて1972年にNHKラジオの英会話講座の講師に大抜擢され、37歳で早稲田大学の教員として迎えられるという、大変に順風満帆の生活を送っていたそうであります。次の目標は博士号という事で邁進していましたところ、家庭内で歪が生じてくるのです。
 3度目の留学先のロンドンで、娘さんが中学2年頃から登校拒否になってしまいます。その娘さんが駆け込んだ教会の牧師から電話があり、「娘さんが疲れているようだ。これは家族の中での人間関係にひずみがあるから、娘さんに過分な重荷(おもに)がかかっているためだ、と言われます。家族の人間関係を見直したら如何だろうか」と言われ、初めて現状を知って愕然とするわけです。それから、カウンセリングの本を読み漁り、登校拒否に関して独学で勉強をしたりと、色々頑張るわけです。しかし、言葉では分かっても心ではなかなか分からない。「学校に行きたくなかったら行かなくていいよ」と、本に書いてある通りの言葉を言っても、自分の心の奥底では「なぜ学校に行けないんだ」と苛立ってる自分がおり、娘にはそれが分かってしまう‥。そのように東後さんは回顧しています。
 奥さんもまた、“夫の目標実現のために支えるのが自分の役割”と思っていましたから、“そのために少しくらい家族が犠牲になっても仕方が無い”と思っていたようです。つまり家庭の全ては、学者である夫に合わせた生活であり、名を挙げる為、学位をとる為、夫は家の中でピリピリしており、それが家庭の中に広がります。でもそれが限界に達して破綻するのです。それは、家族でカウンセリングを受けている最中に、奥さんがくも膜下出血で倒れるという形で現れました。12時間の大手術。それだけではなく、続いて、自分も博士論文を書いているさなか、55歳の時、教授会の会議中に倒れてしまったのです。原因不明の腹部出血であったと言います。命の危険もあったようですが、何とか一命を取り留めたというこ
とであります。
 その時に訪ねてこられた牧師がおり、牧師は聖書を読みました。その箇所は詩編23編でした。「主は羊飼い、わたしには何もかけることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を歩むとも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。(詩篇23)」
これを聞き、全身の力が抜けて神様が語り掛けているような声、「おまえさんは、それでいいんだよ」という声が聞こえたようだったと言います。東後さんは、お父さんが亡くなってから、ずっとあるプレッシャーとストレスを抱えていました「このままではいけない。何とかしなければいけない。頑張らなければいけない‥」というような強迫観念にも似た、強い圧迫感であっ。しかしこの聖書の言葉によって、この時に一気に解放され、大きなものに生かされている、という心になったと言います。「このままでいいんだ‥」ということに気が付かされたのです。
 そしてちょうど56歳の誕生日の日、洗礼をお受けになりました。死んでも良い状態から、神様から命のプレゼントを貰った。東後さんは、人が生きていくうえで、また自分の人生にとって最も大切なものは何なのかを、もう一度考え直す事が出来た。博士論文よりも家族の再生が自分の人生で最も大切な事であるという心境になった。そして、それまでの頂点を目指していた時から価値観の大転換があり、家庭内に目を向けるようになりました。
その後、娘さんも心を開いてくれるようになったのだという事であります。

 この話は色々な事を教えてくれます。もちろん学問を追及し、その道に励むことは素晴らしい事です。それによって結果として名声を得たり、自らを精進させ向上させるという意味において素晴らしい生き方である事は間違いありません。しかし見方を変えると、それはあまりにも杓子定規な生き方であり、〇か×かを選び、こうせねばならない、こう生きなければならない、という歩みに変化してしまう生き方であることに、東後さんは気付いたのであります。結果的に功績や結果が生まれるのではなく、功績や結果を求める生き方は、この律法主義の生き方に類似するのではないかと思うのです。律法主義は、最終的に自分を求める生き方です。そこに神様が排除され、自分の追求と自分の名誉が焦点となります。神と私が挿げ替えられ、こう生きなければならないという生き方に忠実に生きる事の出来た「私」であった時、初めて私が満足いく私となり得るのであります。
 しかし彼は、ここで人間が生きるとは神の愛に生きる事である事に気がついたのです。こう生きねばならない。登校拒否をするなんて自分には考えられない。根性が足りないからだ。やる気がなくだらけているだけだ。そのように「ネバならない」の中に生きた時、失うものが大きかった事が明らかとなったのです。
 そうではなく神の愛に生きる。律法主義的に神の言葉に生きるのではなく、それで良いのだ。欠けがあってもそれで十分なのだ。学校に行けなくったっていいじゃないか。神はその家族も愛されているのだから。仕事が上手くいかなくったっていいじゃないか。それによって神様の愛が変わる事はないのだから。

 この神の愛に生きるかのごとく、主イエスは、律法を読み取り、解釈したのです。一点一画も変わらない律法であるけれども、しかしそれは人間を追い求める律法ではなく、神様が私たちを愛して下さっているゆえの律法である事に、今私たちも気付きたいのであります。

 司会者にお読み頂きましたコヘレト11章1節には「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日が経ってそれを見出すであろう」とあります。これは全くの無駄な行為です。折角得たパンを水に流す事に何の意味があり、何の利益があるのでしょう。しかしこれこそが「神の言葉に従う」ということではないでしょうか。人間の目に見える事、人間の目でそれと分かる成果、功績を尊重するならば、パンというものは、水に流さずに、今すぐ硬くなる前の美味しいうちに食べてしまった方が、効率よくパンを用い、自分の為、自分の利益のためになる事だと言えるでしょう。しかし旧約の知恵者は、パンを水に流せと言います。それは月日が経ってからそれを見出すからだ、と言うのです。
 そして私たちは、この言葉通りに生きられた方を知っております。それがキリストです。十字架は人間の目には全く無駄な生き方であるかもしれません。無駄に命を落としたように見えるかもしれません。しかしその後、それを見出したのです。否、それ以上の「復活の命」としてそれを見出したのです。私たちはこの神の赦し、底知れぬ愛を示されています。神の言葉として一点一画も変わらない律法が、神の言葉としてどのように私たちのものであるのかを確認したいのであります。

(浦和教会主日礼拝説教 2011年11月20日)

 

マタイによる福音書5章13節-16節 『地の塩、世の光』

日本キリスト教会 浦和教会 主日礼拝説教

  マタイによる福音書5章13節-16節 『地の塩、世の光』 2011年11月6日

 ミッションスクールである青山学院大学の教育理念・大学モットーとして掲げている聖句が、「地の塩、世の光」であるということです。青学のwebサイトを見ますと、そこに次のように詳しく掲載されておりました。
 『「地の塩」と「世の光」は主イエスが語られたものですが、「教え」というより「宣言」です。 つまり「あなたはかけがえのない存在だ」との宣言のもとに青山学院は立つのです。〉塩は味をつけ、腐敗を防ぎ、清める役割を果たします。人体には0.7%の塩分が必要であり、1日10~15グラム摂取しなければ人は生きられません。隠し味的に、目立たぬ行いで人のため社会のため、意味を与え腐敗をとどめ、汚れを清めていく人材を学院は輩出していきます。
また、誘導燈・燈台の灯(ともしび)のように導き、明るさと暖かさを与えるのが光です。さらに殺菌し、滋養を与えるのも光です。その如く、目立つ行いで希望の光として励ましと力、エネルギーを周囲に発していくことを本学院はつとめとします。
 「地」も「世」も大地や世界という意味よりも「神なき現実」「人間の尊厳を失わしめるような状況」の代名詞です。そうした中で私たちは、神の恵みにより「塩」であり「光」とされているのです~。』
 このように書かれておりました。この中に十二分に今日の箇所についての説明がなされております。今日の箇所は、クリスチャンとしてある程度聖書を読んだことのある方であれば、知っている言葉であります。非キリスト者の人でも、中には知っている方もおられるそのような個所であります。
 一昨年、埼玉県の草加市において市議会の定例会で瀬戸健一郎というクリスチャン議員が、草加市の市長と暴力団が癒着しているらしいという事を追及するための質疑の場面、この聖書の箇所を読み、「我々公務に努める者は、地の塩であり。世の光であらねばならないといつも思わせられるのです」と前置きをし、現職の市長の汚職について厳しく追及しておりました。その発言を市議会議員たちは、誰一人として野次を飛ばすことなく、神妙な雰囲気で聞いていたのは実に印象的でありました。そして思いましたのは、瀬戸議員自身が地の塩であり世の光でありたいと願っているのではないかという事であります。

 塩には3つの効能があります。味付け、防腐剤、清め、であります。これらの働きこそがキリスト者に求められているものだと、そう言われる。又、光に関しても同じでありまして、それは世の中の暗闇を照らす役割としての生き方が求められているのだと、そのように求められているのです。ここにおいて聖書は私たちに対する「キリスト者としての理想」を語るのです。このように生きよ、と。理想というと大変に口幅ったい言い方に聞こえるかもしれませんが、しかし本当にそうなのです。あなた方は地の塩である。あなた方は世の光である。この言葉は、あなた方は地の塩になるように努力しなさい、とか、あなた方は世の光となるようになれれば良いですね、というような、未来、願望、希求法的な使われ方がされているのではなくて、しっかりと現在法にて書かれているのです。それはもうすでにあなた方は地の塩なんですよ。世の光なんですよ。という断定の意味が込められているのです。だからキリスト者である皆さんは、このことばから逃れてはならない。あまりにも大きな理想を掲げさせて、そんな力がこの私のどこにあるのだと自らを疑ってはならないのです。乃至は、そんな理想を掲げられても私たちは罪深い人間なのだから、そんな大それた立派な人になることを求められても無理だ、などと、人間の根源を否定してはならないのです。なぜならそれは「現在、断定形」で書かれた「である」という言葉によって私たちに語り掛けられているからであります。

 では、しこの罪深い私たちには何が出来うるのでしょうか。地の塩、世の光としての働き、生き方、理想形、何か大きなボランティア団体、NPO法人を立ち上げたり、多額の寄付をしたり、はたまた、マハトマ・ガンディーやマザー・テレサのように、世の一切の富や私財をなげうって、人に仕える事なのでしょうか。そしてそれが出来なければキリスト者ではない、というのでしょうか。勿論そのような生き方が出来れば、それは素晴らしい事でありましょう。やろうと思っても出来ない。取り立てて素晴らしい能力や賜物が無ければ出来ないからです。しかしそのような才能に恵まれない普通の人たちはこの「地の塩、世の光である」という言葉をどう受け取り、どう自らのものとすれば良いのでしょうか。

 数年前に浦和教会の伝道礼拝に招いたことのある加藤常昭という神学者・牧師がおりますが、彼はこの箇所において、次のような事を言っております。少し長いですが引用してみます。
 「そこで改めて『地の塩』とは何かを考えてみたいと思います。『地』それは大地です。そこで生を営むこの世です。この世の生活の中に、塩として働く者は、姿を隠しています。料理の中に塩が入っている事が、目に見えるようであったら塩辛くて食べられません。塩は自分の姿を隠します。その食べ物の味を生かすためです。本当の甘みを生かすには、やはり少量の塩が必要だといいます。そかし塩辛いと人が思うほどに塩が利いたら、何もかもぶち壊しです。塩が塩本来の働きをするには、自己主張してはいけないのです。
 『光』はそれとは逆です。光は輝かなければなりません。その存在を明らかにしていなければなりません。しかし、光も何のためにあるかと言えば、暗いところに光を投げかけてあげるためです。照らしてあげるのです。やたらに明るくて、人の目がくらむようなら、それは光の役割を果たしません。他のものが目に入らないほどに輝くことは許されません。高いところに置かれるのは、それだけよく周りを照らすためなのです。」
 このように加藤常昭氏は語っておられました。
 なるほどなと思わされたのですが、この事から分かるのは、地の塩であり世の光となるなり方の一定ではない。そのことが聖書の中から読み取れるということです。

 しかし両者共に言えることは、塩にしても光にしても、一貫して語られているのは、「自分が生きるこの世で、他者を生かす」という事ではないかと思うのです。主イエス・キリストが、神の身分でありながら、そ
のことに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして私たちに仕えられた、と聖書に書かれているように、自分が生きて、自分が目立って、自分のためにそれが塩の役割だ、これが光の働きなんだと、自己主張が働いてしまうならば、それは既に地の塩の塩性を失い、世の光の光性を失っていることになるのではないかと思うのです。自分ではなく他者を生かす。それはまさに主イエス・キリストが生きられた歩みに身を投じ、私たちも同じように、キリストに倣って歩んでいくという事が求められている。それ故に、このように生きよ、という所謂「理想形」としての姿が示されているという事であります。

 先週の木曜日にソウル日本人教会の吉田耕三先生を講師に迎えて、日本軍慰安婦問題の講演会が浦和教会で行われましたが、偶然にも講演の一番最後で吉田先生が「地の塩」「世の光」を取り上げてこう語っておりました。「聖書は、この世の中が腐敗している事、汚れている事が前提になっている。けれどもキリスト者は、この世の中で地の塩としての役割を果たし、世の光としての役割を果たさねばならない。それがこの箇所の意味なのです。」そうお話になっておりました。
 「世の中が腐敗していることが前提である」というのは、非常に新鮮な視点でありました。勿論、罪ある世の中、人間の原罪という観点から考えると当たり前のことなのですが、改めてこの箇所の意味を教えられた思いが致します。つまり腐敗を防ぐ塩として、また暗闇の中を生きる我々が道しるべとして、この世を「生かすために」自らが生きなければならないというメッセージでありました。

 フランスのカトリック作家、ベルナノスの信仰書「田舎司祭の日記」の中で彼は、「『主イエスは「あなたがたは地の塩である」と言われたのであって、「あなたがたは地の蜜である」とは言われなかった。「あなたがたは世の光である」と言われたのであって、「あなたがたは世の蜜である」と言わなかったのだ』。このように言っております。その心は、わたしたちは自らを甘く見がちであり、また、この世というものは甘く穏やかな蜜のような味わいでなければならないと錯覚しがちである。そして世の多くの人たちが互いに、平和で、優しい、穏やかな生活をすることが聖書の示す生き方だと思いがちである。しかし世に生きることは、蜜を求める、蜜になろうとするのではなく、塩の塩辛さ、痛さ、口にすると刺激があるけれども、それがこの世に対する痛みを示している。ベルナノスはそのように言っているのであろうと思います。
 それと同様に、イエスの恵みは痛みと悔い改めを内に含んでいるのであります。主イエスは伝道を開始したとき「神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい」と言われましたが、そこには他者を生かすための痛みやもがきにも似た者を感じるのであります。

 お読みになった方も多くおられると思いますが、O.ヘンリーの「最後の一葉」という小さな小説があります。その最後は大変印象的な終わり方になっています。

 アパートの階上に住む若い女性画家ジョンジーは肺炎を患ってしまい、あの枯れかけた最後の一枚の蔦の葉が落ちた時に自分の命も潰えるのだと、すっかりと生きる気力を失っていました。同じアパートの住民で漁人の画家ベアマンは、「いつか傑作を描いてみせる」と豪語しつつも、しばらく絵筆を取らず、酒を飲み、人の悪口をいう日々を過ごしていました。彼はジョンジーの話を聞き、そんな迷信じみた事を信じるなんて、とあざ笑うかのように聞いていました。
 大嵐が来て、蔦の葉っぱももう無くなったかと思われた次の日、驚いたことに、最後の一枚の葉が壁にとどまっているのをジョンジーは見ました。そして思いを改め、生きる気力を取り戻して回復したのでありました。
 しかしその最後に残った葉っぱは、ベアマンが嵐の中、煉瓦の壁に絵筆で描いたものであったのです。ジョンジーは奇跡的に全快を果たします、しかしベアマンはその葉っぱの絵を引き換えに、肺炎になり、その2日後に亡くなったのです。あの最後の一葉こそ、ベアマンがいつか描いてみせると言い続けていた傑作であったのだ。- このようなお話しであります。

 ベアマンが求めていたのは「傑作」でありました。それはこの世における名誉、栄光、富への欲求でした。それは自分を大きく、立派にすることでした。しかし彼が選んだ自らの命は、この今にも死にそうな小さな人の命を、自分の命を引き換えに助けることであった。大きなことではなく、小さな事の中にある、ベアマンの選び取った命。それこそが、地の塩、世の光となり、小さな他者を生かすための歩みであったのではないかと思わされたのであります。
 「地の塩、世の光」。私たちは、それになろうと努力して歩むのではありません。すでにあなた方は、私たちは、「地の塩、世の光である」のです。他者を生かす為、自らを虚しくして生きる。その事が今日の御言葉に示されているのです。

( 浦和教会主日礼拝説教 2011年11月6日 )

マタイによる福音書4章1節-11節 『荒れ野の誘惑』

 マタイによる福音書4章1節-11節 『荒れ野の誘惑』

 主イエスが洗礼を受けられた、という出来事のすぐ後に、主イエスが誘惑に遭われたという出来事が起こります。この話はまた不思議な内容となっています。神の子が何故誘惑に遭わなければならないのか。この「悪魔」とは一体何なのか。悪魔と対話をしながら誘惑を受けるというのをどう受け止めればよいのか、という問題。そしてここでの最も重要なことは、ここでの出来事は、どのような誘惑であるのか。このような疑問が湧きあがってくるのであります。
 日曜学校のお話しなどで、度々選ばれるこの箇所は、この不思議さとは裏腹に、意外に有名でありまして、「荒れ野の誘惑」と呼ばれる出来事として知られているのです。
 例えば私たちは、日曜学校などでこれをどのような物語として聞いてきたでしょうか。私の経験から申しますならば、小学生の低学年の頃、日曜学校のお話の中でこの箇所の説教を始めて聞いた時、説教者がこのように説明しておりました。「イエス様は神様だから、石をパンに変えることも、どんな高いところから飛び降りることも、世界の国々を支配することも可能なのだけれども、悪魔の言う事に従わなかった。イエス様は誘惑に負けるような堕落した人ではなく、清く正しいお方だったのだ」。このような話をされたように記憶しています。子供心に、「ああ、そういうものなのか」と思っていましたけれども、今になって良く考えてみると、あの説教では何一つとして誘惑の意味について説明がなされていなかったなと思うのです。

 「誘惑」という言葉を聞くとき、皆さんは何をお感じになられるでしょうか。誘惑に駆られる人間は「堕落した人」だし、「心も体も魂も弱い人」、それが誘惑に負ける人である、と、こうお考えになるかもしれません。広辞苑で誘惑という言葉を調べてみますと、「人を迷わせて、悪い道へ誘い込む事」と書かれておりました。誘惑は「悪い道」であり、「堕落の道」であり、「低くされる道に誘われる事」である。それが誘惑だ、というわけです。今日はこのことに基づいて、聖書の言葉に耳を傾けたいと思うのです。

 イエス様と悪魔が対話するという形で話が進んでいくのですけれども、ここでは三つの誘惑を受けていることが分かります。最初の会話は3節~4節で、「石をパンに変えてみたらどうだ」という誘惑。二つ目は5節~7節で、「神殿から飛び降りてみたらどうだ」という誘惑。そして三つ目は8節~10節までで、「世界中の繁栄を与えるから悪魔を拝みなさい」という誘惑であります。
 このうち、三つ目の誘惑に対し主イエスが断固として聞き入れなかったため、悪魔は諦めてイエスから離れていき、イエスが悪魔の誘惑に打ち勝ったのだという、内容であります。

 しかし、これらの会話の言葉を、さらっ、読み飛ばしてしまうとあまり気が付かないのですが、よく読んでみると色んな事が疑問に思えてくるわけです。まず一番目の「石をパンに変える誘惑」についてですけれども、私たちはこの話を、「荒れ野の誘惑」として読みますから、その時点である種の先入観がはたらくわけです。つまりこれは「誘惑なんだ」という先入観。しかしその先入観を取っ払ってよく考えてみますと、何故これが誘惑なのでしょうか。イエス様は、空腹を覚えた弟子たちに対して、安息日であっても麦の穂を摘んで食べる事を許された方であります。ですからなぜパンを食べる事が誘惑なのか、という疑問が浮かび上がってくるのです。勿論悪魔が言っているから悪い事だ、という状況的なことは言えるかもしれませんが、しかしそんなに単純に考えてよいのでしょうか。

 まあ3番目は、権力・支配に対する事柄なので、これが誘惑であることは分かりやすいのですけれども、問題は2番目です。皆さんもお感じになるかもしれませんが、なぜ神殿の上から飛び降りる事が誘惑なのだろうか、別に飛び降りてもいいじゃないか、と感じるのです。

 しかしこの箇所は、「イエスは悪魔から誘惑を受けるために導かれた」と書かれていますので、この箇所は、押しも押されもせぬ「誘惑」がテーマの話であります。
ですからここで考えねばならないのは、これらの誘惑は、文字通りの誘惑と言うよりも、むしろ何かを象徴的に語っているという事であります。まして「悪魔が言っているから誘惑なんだ」と単純化してしまっては、聖書がここで語ろうとしている本質に全く触れる事が出来ないのであります。

 つまりこの箇所から分かるのは、「聖書が示す誘惑の本質について」であるということです。第一番目に示されているのは、誘惑というのは、「貧しさの中で湧き起こる誘惑について」示し、二番目に示されるのは、「宗教的・信仰的な誘惑について」を示し、そして三番目は、「富と権力についての誘惑」ということが象徴的に描かれているということです。

 聖書の中で人間が初めて誘惑に負けてしまったのは、どこでしょうか。創世記3章1節以下の、エデンの園での蛇の誘惑であります。神に食べてはいけないと命じられた善悪の木の実を、蛇に唆されて取って食べてしまうという、あの誘惑であります。今日の箇所でもそれと同じように、目に見える単純化された行為に対してではなく、神に対する誘惑の本質と闘っている、という事が出来るのであります。

 つまり結論から言いますならば、誘惑とは「良い事だと思われている事柄の中にこそ存在する」と言う事が出来るのです。すこし大胆な言い方をしてしまうと、「やってはいけないと知りつつ行なう事」は、実際は誘惑ではないのかもしれません。それはルール違反であったり、礼儀や人格を問われる問題であるかもしれませんが、しかしこの箇所で語られる「誘惑」は「良いことだと思われるような事をするように招かれる事」なのです。空腹だから石をパンに変える、それ自体は何も悪くはありません。政治的支配力を得る、それ自体も何も悪くありません。神殿から飛び降りる、それ自体も何も悪くはないのです。けれどもここで重要な事は、本当の誘惑というのが、「落ちていく事ではなく、自らが上昇して行くと思われる事の中に隠されている」という事であります。

 冒頭で、「誘惑とは堕落する事、落ちていく事だと考えるのが一般的であろう」と、申し上げました。けれどもこの箇所で示される、つまり聖書で示されるところの
誘惑は、一概に、落ちる事や堕落することだけが問題なのではないのです。
 エデンの園で、アダムとエバは蛇に何と言われて唆されたでしょうか。「この木の実を食べると堕落するよ」「これを食べると悪魔のようになれるよ」とは決して言われませんでした。これを食べて「神のようになりたくないか」「神と同じような知恵と判断力を持ちたくない」と言われたのであります。ここには堕落はありません。それをすると素晴らしいと思われる事の中に、上へ上がりたい、上昇したいという心の内に、本当の誘惑は潜んでいる、と、聖書は言うのであります。

 人間は誰でも貧しさの中にあると、そこから這い上がりたい、と願うでしょう。しかし富んでいても同じように、それ以上を願うのです。国民全員が総中流階級と言われた時代も今は昔、格差社会と言われる現代日本の状況です。しかしいずれにしても、貧しさの中にあってもそれ以上を望む誘惑があり、富裕層の中に生きても、それは同じなのであります。人間としてのプライドや自尊心の中に生きる事、自分の強さ、能力の中にのみ真実を見出す事こそが、神と人間との関係の根幹を揺るがす誘惑なのであります。誘惑とは弱さが試される事柄ではなく、強さが試される事であるのかもしれない。 強さの誇示、自尊心と誇り、才能と技術、その中で神を見失い、自分の強さと戦うことこそが、聖書の言う誘惑であるのです。悪魔は、主イエスの弱さに働きかけたのではなく、神の子である故に何でもできるという強さに働きかけでいるのです。

 宗教的な誘惑も同じであります。我々は信仰を持っています。これに支えられます。神の言葉によって生かされ、神の言葉によって安堵し、そこに平安を見出します。しかし今日の箇所をよく読んでみて驚いたのですけれども、神の言葉は悪用される事があるのです。主イエスを神殿の屋上に立たせた悪魔は何と言っているでしょうか。6節「神の子なら飛び降りたらどうだ。『神はあなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石にうち当たる事のないように、天使たちは手であなたを支える』と、詩編91編11節の言葉を引用しているのです。つまり誘惑者は、主イエスに対して、聖書引き合いに出して、自分の言葉の正しさを証明しようとしているのであります。これは大変な驚きであると同時に、信仰者として心しなければならない事でありましょう。宗教的な誘惑とは、自分の信仰心を誇り、他人の不信仰をあおる事ではありません。「これこそが忠実な信仰である」「私の信仰こそが正しいのだ。」という事の中にある誘惑が存在すると、聖書は言うのです。信仰者として神に強められている反面、それが自らの強さと混同してしまう時、信仰は誘惑に変わるのです。もしかすると信仰は迷いの中にある時の方がより堅固で、強いものなのかもしれません。自らの信仰を誇り、自信に満ち溢れ、聖書の御言葉を剣のように振り回すという、信仰者の誘惑が「信仰その物の中に潜む」のであります。

 このように見ていきますと、私たち自身には何の救いもないように感じてしまいます。けれども、それで良いのであります。何故なら私たち自身には救いは無いからであります。私たちの救いは、ただ一人、主イエス・キリストにのみあるのです。
 キリストは、全てにおいて神であり、強さであります。けれどもキリストは強くある事を望まず、強さを求めず、強さの中を生きませんでした。徹底的に弱さの中を生き、それは十字架の死に至るまで徹底的に自らを低くし、我々の罪を担うべく歩まれた方であります。私たちが如何に強さを求める誘惑される者であろうとも、キリストは、この誘惑される我々のために、弱く、低く生きて下さったのであります。私たちはキリストの歩みに従って、私たちの道しるべとして、生きるにも死ぬにもただ一つの慰めとしてこの方を追い求めるのです。すなわち、人はパンによって生きるにあらず、人はキリストによって生きるのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2011年10月9日)

使徒言行録28章1節-16節 『マルタ島にて』 2011年9月4日

 使徒言行録28章1節-16節 『マルタ島にて』

 3.11の東日本大震災が起きてから、来週でちょうど半年になります。この期間我々は多くのことを問い掛けられ、多くの事を考えさせられてまいりました。また信仰者という立場から、これが如何に承服しがたく、受け入れがたいものであったかを合わせて思わされてきました。東京の石原都知事が「これは我々日本人への天罰である」という発言をして、波紋を呼びました。この発言の良し悪しは別として、この天罰という考え方は、実に因果方法的であるなと感じさせられるものでありました。私たちは良く、「罰が当たる」という言葉を耳にします。この語源ははっきり致しませんが、恐らく仏教的なものがルーツになっていると言われています。それから、良い天気に恵まれた時などは「わたしは日ごろの行いが良いから」などと言う会話も聞こえてきます。とにかく日常用語的に私たちは、良い行いや良い人に対しては良い事が起き、その反対の人には悪いことが起こる、と考えられる傾向にあるわけです。ですからあの都知事をしてそのように言わしめたのは、まったく因果応報的な人間の価値感覚に由来するのであろうと思うのです。
 しかし一方で、このような因果応報の考え方は、肯定的に見るなら非常に純朴であるとも言えるのです。特にアイヌやイヌイットなどの土着の先住民族たちは、自然との因果関係の中で、アニミズム的な宗教観、つまり、動物や大木に神や精霊が宿ると考える信仰を持っていました。その中にある真理や、そこで発見される生命倫理を、キリスト教的ではない、という理由で排除することはできません。

 良い事に対して神は良い事を与え、悪い事をしたときには神は悪い事をその人に与える。これは一般的な感覚であり、また純粋、純朴な信仰の形なのでありましょう。今日の箇所で、パウロはマルタ島に着きます。この島は現在のイタリア領海内の小さな島でありますが、ここで出会ったマルタの人々はパウロと蝮の出来事を見て、彼への評価を180°変えているのであります。

 パウロがたき火に枝をくべようとすると一匹の蝮が彼の手に巻き付きました。それを見て現地の人たちは「あれは人殺しに違いない。だから蝮が巻き付いたのだ」「じきに死ぬことだろう」と言い合います。しかし全くパウロには全く変化が見られなかったため、今度は一転して「あの男は神様だ」と言ったのです。何とも純朴と言いましょうか、単純明快な判断と言えるわけです。

 しかし聖書にはこのようなことは多く描かれておりまして、有名なのはヨハネ福音書9章にあります。生まれつき目の見えない盲人に対して、弟子たちがイエスに対して「あの人の目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、両親ですか」と問う場面がありますが、まさにあの因果応報の原理は当時の一般的な感覚であったと言えます。

 この話が広がった後、今度はマルタ島の長官プブリウスの父親が赤痢を患った時、パウロの祈りと、手当てによって長官の父は回復したという奇跡について記されています。これを聞いた人々は、パウロの癒しの祈りを受けるために大勢やって来たというのです。

 この一連の癒しの物語でありますが、これらの出来事は何を意味するのでしょうか。一方では純朴とも言えるマルタ島の人々が、パウロを受け入れたことを記していると言えます。しかしもう一方では、目に見える出来事を信じ、それを神だと信じるという偶像的な危うさを見ることもできるわけです。この記述を私たちは肯定的にも、否定的にも受け取ることができます。

 しかし私たちが注目したいのは、このマルタの人々、2節で「島の住民」と書かれていますが、この「島の住民」という言葉は、バルバロイと言う言葉が使われているということです。バルバロイとは一般には「未開の人」とは「土着民」というような少々侮蔑的な言葉としてしばしば使われてきました。しかし実際はそうではなく、「非ギリシャ人」「非ローマ人」という意味で用いられてきたようであります。このバルバロイたちがパウロの奇跡を見てどうしたかと言いますと、「彼らは考えを変え『この人は神様だ』と言った」とあります。この「考えを変え」という言葉の中には「ものの見方、考え方を180°転換する」という意味が含まれます。しかも継続的に行われる転換ではなく、一回的に起こる転換、それは「回心」に近い転換がここで起こっているということです。聖書がここで語るのは、癒しの出来事によって島の住民たちがパウロに対する思いをコロコロと変えているとか、蔑んだ人を目に見えることで神に仕立て上げる、という否定的なものではなく、むしろこのようなバルバロイたち、つまりユダヤ人にも、ギリシャ人にも福音が伝えられる、という以上の異文化習慣の中に生きる者たちにも、神の福音が伝えられている、ということであります。勿論このような伝わり方は、福音伝道としては正統的ではないかもしれませんが、しかしフィリピ書で彼が「不純な動機であれ、何であれ、キリストが述べ伝えられているのですから私はそれを喜びます」と言っているように、このような場所においてもパウロの目的は一切変わっていないのです。むしろ彼はまったくブレることなく、むしろ神を伝えることで周囲を変化させているのであります。

 パウロの目的は皇帝への弁明でありますが、それは御言葉を宣べ伝えるという一点に尽きるわけです。どのような相手に対しても、ひるまず、ブレず、「神だ」と持ち上げられようと、「呪われた人殺しだ」と蔑まれても、彼の所に来て癒してもらう目的でわんさと大人々が集まってきても、パウロはそこで出来る神の表し方をその場で行えるように行っているのであります。神の言葉の伝え方を一切変えていないのです。使徒言行録がこれまで伝えてきたように、パウロが囚人として護送されても、そうなる前も、順調に伝道が進んでいた時期も、全く変わらず、同じようにしてきたのであります。つまりは「神の奉仕者」としての自分自身の姿勢をブレずに行ってきたのでありました。

 11節には「パウロの乗った船はディオクロイを船印とする船であった」とありますが、ギリシャの最高神ゼウスの双子の息子カストルとポルックスの事を「ディオクロイ」と言っているのであります。これは船の航行の安全祈願の神様とされていたため、船に装飾されていたわけです。つまりパ
ウロのローマへの旅は、全くの異教の地で起こる出来事でありました。しかし彼はその本質を変えませ。まったくブレないのです。彼は皇帝に上告さえしなければ、ローマに護送されることなどありませんでした。回避することは可能でしたが、しかし彼は、自分の務めから逃れようとしませんでした。どこに行っても、どのような状況でも、彼は神の僕であり、神の奉仕者であり続けたのです。

 私たちは信仰者として、神に守られている時も、そうでないと感じる苦しみに苛まれる時も、全く同じ神を見続けて、ブレずに、ひるまずに生きることが出来ているでしょうか。蔑まれると落ち込み、持ち上げられると有頂天になり、状況や環境の変化と共に私たちはひるみ、ブレて生きることが往々にしてあるのではないかと思うのです。状況の変化は、自分自身の中の目的をも変化させ、信仰の捉え方や、神への思いすらも、その時々によって変えてしまうこともあるかもしれません。

 しかし今日の箇所が、パウロを通して我々に伝えるのは、神に与えられた務めを果たすとは如何なることであるのか、ということ。そしてその為の旅路は決して容易なものではない、ということであります。
 
 そしてもう一つ、重要な事が示されています。パウロがローマに入った後の15節「ローマからは、兄弟たちが私たちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた」このようにあります。この兄弟たちとは一体誰であるのかは分かりません。名前は書かれていないし、何名集まったのか、どのような立場の兄弟たちだったのかは不明であります。しかし誰がここに来たのか、ではなく、ここに兄弟たちが来た、という事実それ自体が重要であるのです。

 そもそもパウロはローマの教会の人々のことは知らなかったはずであります。ローマの信徒への手紙の中でも、「ローマの教会に書き送る」と書かれていません。ただ「ローマにいるあなた方にも、ぜひ福音を伝えたい」(ローマ書1章15節)と言われているのです。つまり彼らは、ローマにおける伝道所のような設立されたばかりの集まりであるか、もしくは家庭集会のような「教会の様相を呈する以前の状況であった」と思われます。しかしパウロはそこに信仰者がいることを聞きつけ、そこに行く事を熱望し、あの手紙を書き送ったのです。誰が読むのか分からずに、しかし希望を持って書き送ったのです。結果として、護送されるという形で彼の願いは、少々いびつな形でありますたが叶ったわけです。

 しかしこれまでの経緯を考えてみるならば、彼の事を出迎える人がいるとは考えられない状況にありました。船は難破し、マルタ島に打ち上げられ、その後、シシリアから南イタリアを通って、トレス・タベルネに着くという、経路も、スケジュールも、当初の予定からは狂いに狂いまくっていたはずであります。しかしどこからかそれを聞きつけて、信仰の友たちが迎えに来たというのです。そしてパウロはそこで「勇気づけられた」というのです。

 ウィリアム・ウィリモンという神学者は、「我々が‥人生の困難と戦うに際して、教会の最大の賜物は、『教会』(それ自身)である」(現代聖書注解「使徒言行録」284頁)と言っています。つまり教会の交わり、信仰の友、思いを同じくする者の励ましというものこそが、教会のもたらす最大の恵みである、というのです。

 人間が集まるところには、諍いも起きます。軋轢も起きます。ねたみや嫉みも起こり得ます。しかしそれ以上に、共に生きる者の集いには励ましがあります。勇気が与えられるのです。箴言18章24節「友のふりをする友もあり、兄弟よりも愛し、親密になる人もある」。詩編133編1節「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と言われている、あの兄弟の交わりが、神の与え給う恵みであるのです。

(日本キリスト教会 浦和教会 2011年9月4日礼拝説教 )