5月13日

  2012年5月13日(日)の礼拝<こどもとおとなの合同礼拝>

◇日 時:5月13日(日)午前10:30~

◇説 教:「ニコデモの救い」

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:ヨハネによる福音書3章1節~15節

マタイによる福音書6章19節-23節 『天に富を積みなさい』 2012年4月29日

 マタイによる福音書6章19節-23節 『天に富を積みなさい』

 「原始共産制」という言葉があります。これは通常マルクスやエンゲルスとの関連で使われる言葉ですが、一言で言いますと、財産を共有する原始的な社会制度の事を言います。例えばアメリカ先住民族たちが、彼らの集落の中に富や権力による階層構造を持っていなかったという事、つまり、原始的な人類は、富や財産を集めて確保する事はなく、みんなでそれを共有していた、という仮説です。これは特に狩猟民族に見られる特徴だと言います。狩猟民族は食料を長期保存する事ができず、獲物を捕まえるとすぐに消費しなければなりませんから、余った分を取っておくという習慣が生まれなかったというものです。それが有史以前の社会に起こった自発的な社会システムであり、それが人間の根本原理である、という考え方であります。しかし人間は次第に穀物の栽培を行い、家畜化が進んでいきます。そうなると徐々に「所有物」という概念が生まれていきまして、それが財産や富になっていきます。それが結果として階級制を産み出し、人間は富む事に必死になっていく。そのような経済学的な考え方の事を、「原始共産制」というのであります。

 しかし私自身、この考え方に聊かの疑問を持っています。つまり人間は根本的には共産主義であり、みんなと平等に分け合い、所有する事を知らなかったというのは、相当楽観的であるし、しかもこれは共産主義を進めるためのプロパガンダとしての言説であると思うのです。人間は元々こんなに素晴らしい生活をしていた。しかし貨幣経済がそれを駄目にしてしまった。だから今こそ共産主義を立ち上げようではないか。このような共産主義正当化の論拠として使われる為の言説であると思うのです。

 もし原始共産主制なるものがあったとすれば、随分と古い話であって―進化論を前提にして考えるならば―、我々人間がより動物に近かった頃の事と思います。それを「かつての人間は共産主義であった」などと一括りに出来ないのではないかと思います。人間が他の人間と集落を持ち、社会生活を営むようになれば、人間の根本には「富を集める」という行為が起こり、それは人間に内在する行為であるのではないかと思うのです。狩猟生活をしていようとも、農耕生活であろうとも、貨幣経済が持ち込まれるか否かによってではなく、我々人間に内在する思いと行動が、富を得る事、収集する事ではないかと思うのです。小さな子どもたちが、兄弟でおやつを取り合っているのを見ても微笑ましく感じますが、大の大人が遺産相続によって財産を取り合っているのを微笑ましく感じる事はありません。しかし子どもであれ、大人であれ、やっていることに大差なく、人間の中に内在する富への飽くなき追求心は、原始的生活であれ、現代的生活であれ、人間が人間である以上無くなる事は無いのではないかと思うのです。

 聖書はこれを原罪と呼んできました。アダムとエバが神と同じ知識を得たい、知恵を得たい、という事から始まった人間の堕落への道は「得たい」という思いにその発端があった事が示されています。それは知識の所有であり、神の権利と力の所有を欲する事によって起こった出来事であったと聖書は語ります。

 この飽くなき追求としての富への憧れ、財産を得る事への欲求を考える時、私たちに今日与えられた御言葉がどのように響いてくるでしょうか。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」この言葉を聞く時、私たちは何を感じるでしょうか。

 教会に初めて来た人、キリスト教を全く知らない人は恐らく「天に富を積むなんて事は出来ない。具体的にどうやればいいのか」と問うかもしれません。キリスト者やキリスト教信仰を理解している人は「この世で善い行いをする事は、天国に宝を積むことになる」と素直に受け入れるかもしれません。また他宗教に属する人は、善行は自らの徳を積むことになる、と理解するかもしれません。読む者によって色々な印象を与えるこの言葉「天に富を積む」とは一体どういう事なのでしょうか。ともすれば我々はそこまで深く考えて来なかったのではないかと思います。我々キリスト者は、天に宝を積みなさい、という言葉を様々なところで使いますし、私たちは良く聞いてきました。この世での善い行いは神様が見ているのだから、それは後々の為の天国への積み立てとなる。このように捉えてきたと思います。しかし、よくよく考えてみますと少しおかしな感じもするのです。何故ならそれは善行を積む事が、功績を天に残す事、と受けとめられなくもないからです。言い換えるならば、私たちは信仰告白の信仰箇条として「功なくして罪の許しを得、神の子とせらる」。口語文では「功績なくして罪が赦され、神の子とされます」と告白しています。つまり善い行いをすることは何の積立てにもならず、救いはただ神の憐れみによってのみ与えられる恵みである事を私たちは告白しているからです。この事を私たちはどう考えれば良いのでしょうか。それは富の価値と私たちの関係にあると思うのです。
 

 冒頭でも言いましたように、私たち人類は、物を収集し、集め、ため込むという傾向にあります。私たちは差別や格差のない社会を求めたいと願いますが、しかし人間が富や財産をため込むことによって、それに基づいて格差つまり、貧富の差を産み出し、結果的にそれが社会的差別を産み出していくのです。支配階級、被支配階級はこうして生まれます。もちろん富や財産が「貨幣」である必要はありません。ある民族は家畜をどれだけ所有しているかによって判断され、ある国では貴金属や土地の所有によって、又ある種の人たちは株などの取引可能な有価証券の量によって富を判断されます。しかしそれは単に財産を持っているという事に留まらず、「所有」それ自体が社会的地位として判断されていくのです。多くを持つ者は、より価値の高い者として位置づけられ、そこには共同体からの特別な位置付けが与えられます。貴族とか、豪農とか、地主などと呼ばれる人がそれに当たります。その部類の人々は、地域での発言力を持ち、時には政治的な関与を許され、大きな共同体を動かす権力を与
えられます。つまり財産を持ち、富んでいく事は、社会的な地位と密接な関連性の中に置かれている事を示すのです。富を熱望する人は、富を更に富ませていきます。それによって更に人間的価値を高めていきます。否、人間的価値があたかも高いかのように思われ、又そのように評価されていくのです。しかし「富」は単に裕福である事から離れ、人間の価値それ自体を規定し、生きる意味や、生きる価値への判断へと変わっていくのです。例えば、富む者はあたかも価値のある人のように受け止められ、社会的に受け入れられていきます。それは「重用される事」や「蔑ろにされる事」など、人から愛されるという要素にも踏み込んでいきます。富む者は愛され、注目を受け、財産を持つ者は、財産を持つという理由で人々から尊敬され、愛されていく。つまり「富」や「財産」は、所有物・物質的要素を飛び越えて行き、その人自身の価値を決め、その人が愛されるか否かまでも決めてしまう要素となってしまうのです。少々言い過ぎかもしれませんが、人間社会というのは、このような価値観の中にあると思うのです。もちろんそうでなはない価値を持っている人も大勢いるとは思います。しかし得てしてこの世が貨幣経済によって市場経済の原理で回っている現状を考えるならば、中世以来私たちの価値は、つまり人間的価値の多くは財産や富と密接に結びついてこざるを得なかったのではないかと思うのです。

 しかし聖書の言葉は実に良く確信を捉えているのです。そのような富は「虫に食われる」と言います。富は「錆びつく」、又、「盗まれる」と言うのです。これによって人間的価値を判断されてきたその前提となる物。その根拠となる物は、実は小さな虫に抵抗できず、経年劣化や時間に耐えきれず、悪い人の餌食になると言うのです。美しい価値ある衣類や反物は、虫に食われる事でその価値を失います。価値ある美しい工芸品も錆びつく事でその価値を落とします。家畜は病気に罹るし、備蓄していた穀物はカビや虫の害を受ける。株式投資は一瞬で破綻を招き、盗人は獲得した者を奪っていく。

 私たちがその人生のすべてを、否、人から受ける愛情なども含めてその全てを価値付けてきた根拠である「富」とはこんなものだ、と聖書は言うのです。まるでウィットに富んだジョークのように、富そのものの真実性を暴くのです。このような物と結びつくのが私たちの生きる意味であるならば、それは私たちの人生そのものを脆弱にするのではないか。もし私たちが、この富によって立もし倒れもするならば、私たちの人生とは一体なんだろうか。私たちの命とは一体なんだろうか。私たちが幸福に生きるとは、価値ある人生を喜んで生きるとはなんだろうか。その事を聖書は指し示すのです。私たちは、虫に食われ、錆びつき、盗人に奪われていくものと結ばれて生きるのではなく、神と結ばれて生きていくのだ。神と結ばれるということは、虫に食われ、錆びつき、盗まれる事のない物であり、神の価値の中で生きていく事に他ならない。財産の浮き沈みと共に人生も浮き沈んでいくのではなく、全き神の価値によって、神の栄光と共に、価値づけられていく。つまり天に富を積むとは、善行や徳を積んでいく事ではなく、あなたの富とは何か。あなたが最も心を込めて大切にするものとは一体何か。あなたの心の所在がどこにあるのか、その事を示すのです。だから21節で「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と言われるのです。これを言い換えると、あなたが最も心を込めて大事にしている物こそがあなたの富である。というのです。

 私たちは今日の御言葉を、私たちの財産をどこに貯えるのか、あとあとの事を考えて、善い行いをしておけば天国に行った後に良い事がある、と捉えがちでありましたが、しかしこの御言葉は、富の概念そのものを変えるよう促す言葉であったのです。つまり、あなたを救い、あなたを贖い、あなたを導く神ご自身があなたの財産であるのだ。神と共に生きる事こそが、私たちにとっての宝なのだ。聖書のこの言葉をしっかりと受け止めたいと思います。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年4月29日)

4月29日~5月5日

4月29日~5月5日の集会

◇聖書の学びと祈り        5月2日(水) 午後  7:30
  箴言25章26節

◇聖書の学びと祈り         5月3日(木) 午前 10:00
  出エジプト記32章15節~34節

5月6日

  2012年5月6日(日)の礼拝

◇日 時:5月6日(日)午前10:30~

◇説 教:「神なのか、富なのか」

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:マタイによる福音書6章24節

マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』 (後半)

 マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』

≪前半からの続き≫
 しかしこのような人間の思いは主イエスの時代にまで続いて行きます。主イエスの時代、ファリサイ派などの律法の専門家たちが、民の信仰の中心となって指導しておりました。私たちは聖書を読んでいると、どうしてもファリサイ派を悪者として理解しがちであります。確かにイエス様がファリサイ派たちの事を「偽善者」と呼んでおりますから、そこからイマジネーションされるのであろうと思います。しかしそれには様々な歴史的事情があります。セレウコス帝国と呼ばれる国によって支配されていたユダヤ人たちは、律法を厳格に守る事を信仰上の重要な要素として再確認したそのような時代がありました。その中で律法に関して厳しく、忠実に、信仰的行いとして、これを守る事が大事にされてきたのです。それが紀元前160年頃以降の話ですから、イエス様の時代のファリサイ派たちは、そのような時代の要請から、律法をしっかりと解釈し、厳しく取り扱っていたわけです。ですからファリサイ派を悪者とか偽善者というステレオタイプに区切ってしまうのではなく、時代の産物であると考えてよいのではないでしょうか。そして彼らが当初厳格に信仰的行いとして律法を守っていたのに、あのような偽善者的な行為を行うように堕落していった様を知る私たちは、ファリサイ派を馬鹿にすることは決して出来ないのであります。つまり最初は純粋で、高尚な行為であっても、それは偽善的になる要素を「私たち人間が」持っているからであります。つまり私たちには、ファリサイ派的要素がある、という自覚を持たねばならないのではないでしょうか。

 私たちは人に見せ、評価される事によって、それが励みになったり、やる気が増したりも致します。それが私たちのモティベーションとなるわけです。しかし殊、信仰に関して言うならば、それは信仰を立ちもし倒れもする、あなたの信仰それ自体を決定的に価値付ける要素となってしまうのが、「他人からの評価である」と主イエスは言います。つまり信仰が、他者に信仰深さを見せることや、他者からの評価を得るための偽善的なものとなってしまったら、それは既に信仰ではないと主イエスはおっしゃるのです。音楽作品や小説などの文学、テレビドラマや、サービス業、役者や、演奏者、お笑い芸人などに至るまで、他者からの評価によって価値付けられる物は多くあります。視聴率や、発行部数、批評家からの評価などが、それらの力となります。しかし信仰はそうではないのです。あなたの信仰は素晴らしい、と言われる事が第一義的な目的になったとき、その信仰は最も核心的な部分を取り去られたのと同じことになるのです。

 これまで2か月に亘って主の祈りを詳しく見て来ましたから忘れがちなのですが、マタイ福音書6章1節~18節は、一つのまとまりを持って、一つのテーマを持っています。真の施し、真の祈り、そして真の断食、という真実の信仰の3つの要素について語られてきました。真の施しとは何か。人にこれ見よがしに見せて善行をしたフリをするな。人前で恭しく信仰深そうに祈るフリをするな。そして、さも悔い改めたようなフリをして、信仰深そうにするな、という、どれもこれも、大変厳しい言葉であります。しかしこの6章を通して主イエスは、表面的な行いに沈んで行きがちな私たちを支え、励まそうとしているのであります。

 聖書の中にはレプトン銅貨をたった2枚捧げた貧しい女性の献げ物こそが、真の献げ物であると主イエスは言うのです。それは貧しさの象徴であり、それ以上を献げる人がずらずらと立ち並ぶ中で、本当に哀れで、失笑を買いそうな献げ物であったかもしれません。しかし彼女は周囲の目による評価によってではなく、自らの信仰を通して、あの小さな物、たった2枚を献げたのであります。これを主イエスは目に留めて下さったのです。

 また、ナルドの香油を注いだ女性の話も同じであります。非常に高価なナルドの壺を惜しげもなく叩き割って全ての香油を主イエスに注いだあの女性は、人に見せようとしたために行った行為ではありませんでした。むしろあの場面では、評価されるどころか、イエスの弟子たちからの痛烈な批判を浴びているのです。しかし女性は一切語らず、自らの思った通りの信仰の表し方をしたのであります。それは十字架の葬りの準備でありました。もし彼女が名声を得たかったのならば、それを換金し高額な金額として献げ物にしたでしょう。そして主イエスと弟子たち皆からの評価を得るために大判振る舞いしただろうと思います。しかし彼女はそれを惜しげもなく、主イエスの為に使い切ったのです。そこには、十字架と葬りの為の準備、偽善によってではなく、真の信仰からの思いがそうさせたのです。だからこそ聖書は、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マルコ14:9)と言われているのです。

 預言者イザヤは、真の行い、真の断食とはこれである、と言って、次のように語ります。
 (イザヤ書58章3節-10節)
58:3 何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし、お前たちのために労する人々を追い使う。58:4 見よ、お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない。58:5 そのようなものがわたしの選ぶ断食、苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それを、お前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。58:9 あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば、「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことを、あなたの中から取り去るなら、58:10 飢えている人に心を配り、苦し
められている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。


 真の断食とは、自分が苦しい思いをするだけではなく、飢えた人にパンを与える事だ、とイザヤは言います。本当に断食したいなら、つまり本当に信仰者として生きるなら、自分自分と、自らを主張する事を止め、他者に施し、他者を生かし、他者を愛して生きる事。それが主の示される信仰者の生き方であるのです。

 何よりも主イエスは、多くの律法学者たちからは猛烈な批判を浴びましたが、人を生かしました。特に蔑まれた者、生きる気力を無くした者、生きる価値がないと言われた者、粗末に扱われた者、呪われていると言われた者、そのような者たちの苦しさと共に生き、その痛みを共に痛んだのであります。それは十字架の痛みによって示されます。主イエスの痛みによって私たちには、恵みが与えられた。主イエスの断食とは十字架の事であり、真の断食とは、人を生かす、つまり私たちを生かすための痛みの断食であったのです。その十字架の光に照らされる我々は、どのように生き得ましょうか。イザヤは58章10節で言いました。58:10 飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。
 それは、人の為の施しではなく、私たちを包む闇を晴らす光となるというのです。私たちの信仰が曇る事があるとするなら、他者を忘れ、自らの光に没頭する時である。聖書はそのように語るのです。
 復活節の第3週目のこの時、私たちの信仰がキリストの十字架と復活の光に照らされるものでありたいのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年4月22日)

マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』 (前半)

 マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』

 一昨日の金曜日、宮城県の東松島市に行ってまいりました。これは中会連合婦人会の働きの一環として、東松島市の仮設住宅の方々への支援をしようと取り組み始めた事によります。私は今回が初めてだったわけですが、高速道を降りてすぐの工業団地内に小さな仮設住宅の集落がありまして、ここに8世帯の方々がお住まいになっております。

 仮設というぐらいですから仮に設置された住宅でありまして、この住宅は様々な問題を持っておりまして。印象的だったのは、この住宅の構造が、阪神淡路大震災の時と同じような構造で建築されている為、温暖な気候が前提にされている造りになっている事でした。薄い壁と一重の窓からは、冷気が入り込み、冬場は大変に寒かったそうです。途中から作り変えて二重窓と断熱材を入れたとはいうものの、完全な寒冷地仕様ではありませんから、はやり問題も多い。特に壁一面が結露して水滴がびっしりとついてしまい、寝ていると天井からぽたぽたと水滴が落ちてきて、顔がびしょびしょになるという話はその大変さを語るお話でした。壁が薄いため、隣の声が丸聞こえであるという事や。一人暮らしの方の場合、4畳一間に住むことを余儀なくされる事など。本当にご苦労なされていると感じました。奥尻島の津波の時は義捐金の金額に対して、被災者の世帯が少なかったため、全て新築で新しい家が賄われたそうです。しかし今回は何万人という人が被害を受けている為、今の義捐金では、人世帯数百万が配られただけで、流された家は帰ってこないという事でありました。

 このような現状に対して、県庁、政府筋の人たちの対応が遅い、という事が問題点として挙げられていましたが、驚いたことに、岩手県では県知事が仮設住宅に1週間住んだという事でありました。宮城県知事はやらなかったようですが、岩手県知事は、この仮設住宅に住んだ場合、どのような問題があるのかを肌で感じてみよう、という事を考えてそのように行ったのであろうと思います。それは大変あっぱれな事であるなと思います。造りっぱなしではなく、そこには生活が続くわけですから、自分の体で感じてみよう、というのは、住民にとっては良くやった、という思いはあるかと思います。

 しかし裏を返せば、1週間という期限が付きますから、ゴールがあるわけです。この一週間何とか耐え凌げば、元の生活に戻る事出来るのです。その間だけ、目に見えて分かる機関だけ我慢すれば良いのです。ですから、本当の意味でそこの住民と同じになる事はできません。むしろキャンプ感覚で、少し不便な経験をすることで、むしろ周囲から「よくやった」という言葉をもらえるという、政治家としての株を挙げ、「支持率」という十分な報酬を頂けるよいパフォーマンスともなり得ると思うわけです。大変穿った、ひねくれた考え方だと仰るかもしれません。この知事にそのような意図が微塵もないのでしたら、大変申し訳ない事を言っているのかもしれません。しかし期間限定の苦しみというのは、そういうものだと思うのです。事柄が本質から離れ、周囲からの評価の問題にすり替わってしまう。あの人は良く頑張っているのね。良く耐え忍んでいるのね、という言葉が自らの行為の意義そのものになってしまうのです。

 何が言いたいがお分かりかと思います。今日の箇所で与えられましたのは、断食の話です。本当の意味での断食とは何か、その事を主イエスは問うておられます。断食という信仰的行為が、その純粋性を失い、その事によって本当に表そうとした断食の意味ではなく、見苦し顔をしてあたかも私は信仰深いのですよ、という事を周囲にアピールする事が第一義的な目的になるのだとするのならば、その断食の意味とは何なのか。本当に断食をしようと、信仰心からするならば、顔をきれいに洗って、人に見えないような仕方でそれを行いなさい、という趣旨であります。

 断食という行為は、そもそも「あるもの」を、「無い物」としてそのように生活することでありましょう。元々目の前にある食料を「あたかもない物」として生活する事が断食であります。断食とは飢えて苦しんでいるから食べられないのではなく、あるけど食べない行為の事を言うのです。それによって悲しみや苦しみを信仰的に共有するという目的として行うのであります。

 そもそも断食とは、聖書の古い記述の中に見られます。モーセ五書であるレビ記16章に既に登場し、使徒言行録27章の時代まで、これが行われた事を示します。これはイスラエル共同体が悔い改めを告白し、神の助けを願うために行われて来たものであります。又信仰行事として国の記念日に行ったり、バビロン捕囚期には年4回これを行い、エルサレム陥落と神殿崩壊の悲しみを覚えて行っていたものであります。またサムエル記では共同体ではなく個人的にこれが行われていた事が示されますし、ある預言者は病の癒しを願って断食したというように祈願として行っていた事も記されております。

 このように断食という習慣は、信仰的なものとして定着しておりました。ですから悔い改めの断食、悲しみを表す断食、記念の断食、神への祈りとしての断食など、これが全て神に対して行う行為として守られてきた事が分かります。

 しかしその目的が人に見せる事に変質した時、それは信仰的な行いから、偽善的な行いへと変化していくのです。信仰的な行いが、形骸化し空洞化した時、その行いは真実な行いから離れ、偽善へと変わっていきます。その事も又、聖書で何度も語られています。

例えばエレミヤ書14章12節 「彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げ物や穀物の献げ物をささげても、わたしは喜ばない。わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす。」

ゼカリヤ書7章5節-6節 「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも、あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食してきたか。あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか。」

 神はこのような痛烈な批判をイスラエルの歴史のあらゆる箇所で浴び
せてきたわけであります。

≪後半に続く≫