2017.10.08~14 今週の集会

今 週 の 集 会
 
祈祷題「第67回大会のため」
牧師就職式(栃木教会)     9日()   13:00
聖書の学びと祈り          12日()10:00
 列王記上14章(担当 三輪地塩)    
                    司会 佐 藤 允 子                   

〇聖書の学びと祈り           12日()14:00
使徒言行録91節~19     
                    担当 安 井 国 雄
 

2017.06.11の説教から

   <611日の説教から>
  『キリストのために苦しむ』
                 フィリピの信徒への手紙127節~30
                                     牧師 三輪地塩
 「福音にふさわしい生活」とパウロは言う。原文では「ポリス」の派生語である。現代的には「市民生活」と訳して良い。つまりパウロはここで「ひたすら福音にふさわしい市民生活をしなさい」と言っている。それは必ずしも「社会運動を積極的に行ないなさい」とは言っていない。尊い事ではあるが「社会運動=福音にふさわしい生活」は、公式としては成り立たない。だが、例えば社会問題になっている「ヘイトスピーチ」という現象の中に、「他者への憎悪」と人間の罪の問題を見出し、そこに福音が語られる事を願い、またそこからキリストの十字架の贖いと罪の赦しが語られようとするならば、その社会運動は、福音から芽生えたものとなるであろう。
 
 何よりも我々は、日々の生活のほんの小さな事柄に福音を見出すべきである。「楽しいことを楽しいと受け取り」「悲しい出来事を悲しみと共に受け止める」「隣人を大切にし」「多様性を尊重する」。「美しいものを美しいと感じ」「素晴らしいものを素晴らしいと思える素直さを持つ」。つまり、他者に関心を持ち、他者に耳を傾けることにより、自らにもそれらの愛を問い続けることでもある。それが福音にふさわしい「市民生活」の発端となるのである。神学者カール・バルトが『福音主義神学入門』の中で、「牧師や信徒にとって日常で最も重要に考えるべきことは、「聖書を読むことと新聞を読むことだ」と書いているが、「新聞を読む」とは「社会への関心」「社会の一員としての自分であることを自覚的に生きること」を言っているのであろう。本当に小さな事柄なのだ。大それた素晴らしい活動こそが、市民活動ではない。心を世界に向け、社会に関心を持つこと。それが重要である。

2017.10.08 主日礼拝予定

2017.10.08

  

主 日 礼 拝  午前 10:30

奏楽 三

 

招 詞  詩編961節~2節 

*讃 詠   (21)83

*罪の告白と赦し 交読詩編61節~10

*讃美歌  (21)12(1-2)

<神の言葉>

聖 書 ハバクク書114節~15(旧約P.1465

マルコによる福音書116節~20

(新約P.61

祈 り              三 浦 勇 二                                                                                                                                                                    

*讃美歌  (21)516

  教 四人の漁師

 三 輪 地塩
<神への応答>

*讃美歌  (21)471

*ニカイア信条

 公 告  

tyle="margin:0mm 0mm 0pt;text-align:left;">*献金感謝

*主の祈り (座席前そなえつけ)  

*頌 栄  (21)46

*派遣と祝福

後 奏       

2017.10.01~07 今週の集会

2017.10.01~07
今 週 の 集 会
    
祈祷題
  「洗礼志願者・信仰告白者が与えられるため」


北関東牧師会(福島伝道所)3日()11:00


神学校特別講義      4日()13:30


聖書の学びと祈り     5日()10:00


 列王記上13章(担当 三輪地塩)  
             司会 菊地 晴 子


生と死の学び(三浦綾子著「泉への招待」) 
   同 上 後


              担当 安 井 英 子


聖書の学びと祈り     5日()14:00


ミカ書11節        担当 岡野 庸子


* ”聖書の学びと祈り””生と死の学び”
  多くの方のご出席を、お待ちしております

2017.05.28 説教

2017.10.01週報   

    

  <528日の説教から>


『生きるとはキリストである。』


   フィリピの信徒への手紙119節~26


               牧師 三輪地塩




で言葉を重ねて「喜びます」と語るパウロであるが、最初の「喜んでいます」は「過去」に対する喜びであり、2番目の「これからも喜びます」は「将来」「未来」に向けての喜びを意味している。一見すると当たり前のように思われるが、パウロはこのとき監禁されていた事を知れば、この言葉に驚きを覚えるだろう。その苦しむ状況の中で将来を見据えているのだ。例え自分が苦しんでいたとしても、そこにキリストがおり、そこでキリストが語られ、そこにキリストの香りが漂うのであるならば、それはキリストの喜ばれる福音宣教の前進であるから、自分の体が苦しみ痛んだとしてもそれは問題の無いことだ、と彼は言う。


 パウロはこの時「生きることと死ぬことの間の板挟み」の中にあった。「生きることはキリストであり、死ぬことは利益である」(1:21)との言葉は、彼が苦難を終えたいという思いを示しているのかもしれない。彼の心は崩れかけていた。現代的には「抑鬱状態」であるだろう。かなり落ち込み、気力を失っていた。


 だが彼は、命への希望を失ったわけではなかった。それは「どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。」という異様な言葉から明らかである。普通の人ならば、例えば冤罪などによって裁判の被告席に立たされたとき、「私は刑に処されて死ぬべきか、無罪放免で釈放されるべきか、どちらが良いのか私には分かりません」などと述べることはないだろう。生殺与奪の権利は裁判官あるいは陪審員の手の中にあるからである。裁判とは自分の命を自分で決める事が出来ないものである。


 しかしパウロは「どちらが良いのか・・・」と、あたかもその権利を自分が持っているかのように語っている。だが、ここがパウロなのであった。つまり、彼の信仰は、神主導、神主体の信仰である。つまり裁判官の手中にある命を生きているのではなく、神によって生かされた命を歩んでいるという自己認識の中にあったのだ。彼は罪を犯して投獄されたわけではない。しかしその最大の苦しみの場でさえも、神中心の歩みを捨てることがなかったのである。

2017.10.01主日礼拝予定

2017.10.01  
          主 日 礼 拝  午前 10:30
             <聖 餐 式>
                   奏楽 岩 本 道 子

   招 詞  詩編96編1節~2節 
  *讃 詠 (21)83
  *罪の告白と赦し 交読詩編143編7節~12節
  *讃美歌  (21)13(1-3)

            <神の言葉>

   聖 書 ヨブ記1章8節~12節    (旧約P.775)
       マルコによる福音書1章12節~15節
                    (新約P.61)
   祈 り                                                                
  *讃美歌  (21)495
   
   説 教 「荒れ野の誘惑」
                      三 輪 地 塩  
          
            <神への応答>

  *讃美歌  (21)494
  *日本キリスト教会信仰の告白
   聖餐式  (21)79
   公 告  
  *献金感謝 (21)386     クワイア
  *主の祈り (座席前そなえつけ)  
  *頌 栄  (21)46
  *派遣と祝福
  *後 奏