聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記37章1節-36節 2011年4月28日

 創世記37章1節-36節 2011年4月28日 祈祷会奨励
 37章から50章まではヨセフ物語です。かのゲーテは「旧約の中でヨセフ物語が特に文芸的な興味が深い」と言い、現代ではトーマス・マンが戦争亡命中に「ヨセフとその兄弟たち」という長編作品を書いています。このトーマス・マンは、このヨセフ物語を、人類物語の原型である、と言っています。それは、現代の我々のあり方の意味はこのヨセフ物語から解釈されねばならないということでありましょう。
 さて、今日の箇所で「ヤコブはカナン地方に住んでいた」とありますが、本当はヘブロンです。ここではヨセフが父ヤコブの偏愛を受けていることが明確に示されます。
 この偏愛とえこひいきは、兄弟たちの心をかきむしるものであったことは用意に想像できます。それはヨセフがヤコブの年寄り子であったということがその理由であるとされていました。実際にはヤコブがラケルしか愛していなかった、つまりラケルへの偏愛が反映されて、ヨセフに対しても同じように執着した、ということが言えると思います。
※(「袖の長い晴れ着」という言葉は実はどのような意味か分からないだそうです)
 しかし「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であった」とありますが、実はこれは言いすぎです。ヨセフが生まれたとき、ヤコブはまだ働き盛りでした。当時の平均寿命とか、当時の労働条件等を加味すれば、年寄りであったのかもしれません。日本の農家でも昔は40代後半で隠居していたようです。
 
 兄弟たちはヨセフを憎み、殺そうと考えましたが、ルベンの「命まで取るのはよそう」という説得を受け入れて、売り飛ばすことで何とか我慢することとなったのです。彼らは「空の井戸」にヨセフを投げ入れました。
 
 ヨセフ物語は、当時の世界観や世界の流通事情が反映されています。イスラエル地方は、東側にメソポタミアの大平原が広がり、そこでは文化が栄え大帝国が起こりました。この当時の世界の二大文明であるエジプト文明とメソポタミア文明ですのちょうど中間にイスラエルは位置します。この二大文明の間には多くの流通貿易が行われました。東からは、シリアの都ダマスコを通り、ヨルダン川の東ギレアドを通り、ヨルダンを渡って、シケムを通って海岸平野に出て、海岸沿いにエジプトまで続く、というのが、イシュマエル人などの隊商たちのメイン道路であったということです。この意味でヨセフ物語は、エジプトという当時最大の文化の中心を踏まえた、国際的な大舞台の物語で、当時の状況を反映している物語であると言えるわけです。
 イシュマエル人はイシュマエルの子孫で砂漠の遊牧民です。平和なときには隊商として交易に従事し、事あれば農耕民を襲って略奪もする。それは海洋民族が通商もするし海賊になるのと似ているということです。彼らが商っているのは、主に「樹脂、乳香、没薬」という香料で、これは医薬品でもあるため、高価な品物でした。海上の大量輸送とは違い、らくだの背中に乗せて長い旅の間運ぶので大変なコストが掛かります。ですからよほど高価な品物でないと採算が取れないというわけです。
 最初はルベンの提案を受け入れた兄弟たちでありましたが、ユダの同じような提案をし、イシュマエル人に売り飛ばそうと言いますが、そのとき、ミディアン人の商人たちが通りかかって、彼らがイシュマエル人に売ってしまいました。
 穴から消えてしまったのを見たルベンは嘆きます。嘆くなら最初からこんな事をしなければよいのに、と思うのですが、人間の罪とはこういうものでして、後から反省しても後悔先に立たず、というのはこのことでありましょう。この状況を父ヤコブに伝えましたが、ヤコブの嘆きはそれ以上のものでした。
 ここではルベンだけは嘆いているのですが、その他の兄弟たちは、狡猾な手口を使って父を騙そうとします。つまり彼らの行なった事を隠すための隠蔽工作です。ヨセフの着物を取り、雄山羊の血に浸して野獣に食われたことにさせたのです。もちろんDNA鑑定などという物はありませんから、それを証拠にされてしまったヤコブは、全てを悟り、数日間嘆き悲しんだのでありました。
 ヨセフ物語を最初を読むとき一番感じるのは、人間の罪に関してであろうと思います。親の偏愛、兄弟の憎悪、そして実際に犯した罪、などです。しかしもう一つ、ヨセフが犯した罪、それは傲慢で、偉ぶった「天狗になっていた」という罪もあると思うのです。彼はえこひいきされていました。親の偏愛を一身に受けて、彼は自分が特別な者であることを自負し、アピールし、兄弟たちの気持ちを考えないところがあったのでしょう。聖書にはヨセフの傲慢についてはっきりと書かれてはいないのですが、しかし夢の話を悪びれもせずペラペラと話せる事を考え見れば、彼は少なくとも、兄弟たちの気持ちに対して鈍感であり、無頓着であったのではないかと思うのです。つまりここにあるのは、罪の数々です。それをヨセフ物語の一番始めに見せ付けられるのです。
 しかしこの章の最後の部分で、今後続いていく神様の大いなる計画と摂理について深く考えさせられます。最終的に行き着いた先は、ポティファルのところでした。彼はファラオの侍従長でした。ポティファルというのは、エジプトの言葉では「太陽神ラーの贈り物」という意味だそうです。このポティファルによって、異教の神々の場所にもたらされた一人の人物が、その後どのような歩みを与えられていくかは皆さんご存知の通りかもしれません。それがこれから50章まで続いていくわけですが、少なくとも、人間の目には罪と映る悪しきことであっても、憎悪、悪意、騙しと言った嘆かわしいことであっても、しあし神はその全てを予期に計らって下さる方であることを、これからの学びの中でみて生きたいと思います。人間が犯した罪が、神の下でよきものに変えられていく。自分の罪ゆえに招いてしまった悲劇が、同時に神の祝福に巻き込まれていく。取り返しのつかないことが、物語り全体の中で、全ての事柄が恵みとなっていく。その事を見ていきたいと思います。