2021.3.14 の週報掲載の説教

<2019年12月1日の説教から>

ルカによる福音書1章26節~38節

神にできないことは何一つない
牧師 三輪地塩

聖書はマリアのルックスや人物像には関心を向けず淡々と「受胎告知」を記す。つまり聖書は、マリアを、クリスマスの中心人物にしようとしていない。ここにはルカの使信が「人間」ではなく「神」中心であることが暗示されている。「主があなたと共におられる」「インマヌエル」が、聖書の中心テーマであると。

聖書にとってマリアという女性は、高潔で、性格の良い、正しい女性である必要がない。世の中にたくさんいる女性の一人であり、戸惑いと不安を持つ、田舎町ナザレに住む一般的な女性。それが聖書の伝えるマリアである。

ナザレという町は、ヨハネ福音書1:46に「ナザレから何か良い物が出るだろうか」と当時の格言で言われるように、取るに足らぬ町であり、神の救いから外れた町と考えられていた。

だが神は、この片田舎に住む、取るに足りない一人の女性に、救いの計画を告知した。神の目線から言えば、土地の繁栄、良い家柄、人間としての容姿・性格などの評価は関係ない。そのような人間の評価と「神の救い」は別なのだ。

このマリアの前に天使ガブリエルが現れた。29節には「彼女はこの言葉に戸惑い」とある。新共同訳聖書では「戸惑う」と訳されているが、岩波訳聖書では「心を乱され」と訳されている。彼女は結婚前であった。当時の律法に従うならば、婚前の関係は処罰の対象だった。もちろん事情を知らない周囲の人々は彼女の妊娠についてあれやこれやと勝手な事を言う。彼女のことを周囲は大いに誤解したことだろうし、彼女の心の痛みは激しかっただろう。つまりマリアは、戸惑っただけでなく、心が乱れ、苦しんだのだ。誤解され、婚約も破棄され、処罰されるかもしれない。命の危険もあるかもしれない。そのような、死の恐怖が彼女を包んだ。予期せぬ事態になり、喜べない現実が突然襲う。我々の身の回りでも起こりうる。彼女を襲ったこの状況は、しかしここから神の救いが始まる端緒となった。

神は我々の準備を待たず、突然救う。神はいつもご自身の計画をご自分の行いたいように遂行される。恵みを与えるのも、祝福するのも神の側からである。神に一方的に与えられたものを、我々は受け取るのみである。それがマリアの懐胎であった。