2021.4.25 の週報掲載の説教

NEW! 2021.4.25 の週報掲載の説教
<2019年12月29日の説教から>

ルカによる福音書2章22節~38節

『救いを待ち望む人々』
牧師 三輪地塩

シメオンは「老人と思われる男性」である。彼は「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」と言われている。これは「祈りの人だった」という意味である。いつも祈りと共にある生活、常に祈りをもって神に応答していた人生であった。

このシメオンが、神殿に詣でて来た幼子イエスに出会う。彼はイエスを腕に抱き、神を讃美し言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、このしもべを安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万人の為に整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。シメオンは救いの現実性を目の当たりにする。幼子を抱き、それを目で見、待ち望んでいた救いである事を、リアルに感じたのだった。

アンナという女預言者も出てくる。彼女は84歳であった。この当時の寿命からは想像できない長寿である。彼女は、「若いとき嫁いでから7年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ」とある。このような境遇の場合、未亡人としての人生がどれだけ苦難に満ちていたかは想像に難くない。彼女は「預言者だった」とあり、おそらく神殿に従事する預言者と考えられる。彼女は「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」。つまり、彼女の行き着いた生活が「神」と共にある生活だったというのだ。

この二人の老人の出来事について、聖書は何を伝えているのか。老いることで得るものは人それぞれだと思うが、大きく分けて二通りの老い方がある。「積極的に老いること」と「消極的に老いること」の二通りである。シメオンとアンナはどうだったか。エルサレムの神殿で、神の御子に最初に気づいたのは若者でも、青年でもなく、生涯の殆んどを歩み終えた老人であったというのがこの箇所のメッセージである。聖霊に満たされていたのは老人だった。箴言20章29節に「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳」とあるように、老齢者にしか成しえない形で、神の計画への参与の仕方があると聖書は言う。それこそが「積極的な老い」なのだ。生産世代ではないかもしれない。だが「霊性に富んだ世代」こそが老齢者である、と聖書は言う。