2021.8.22 の週報掲載の説教

2021.8.22 の週報掲載の説教
<2020年3月15日の説教から>

ルカによる福音書5章12節~16節

『主よ、御心ならば』
牧師 三輪地塩

レビ記14章には皮膚感染症についての細かなルールが載っている。治癒の判断は祭司が行なった。病が認定されると、完全にキレイになるまで社会から隔離されて生活しなければならなかった。隔離は「差別」を生ぜしめる。イエスの前に現れた彼は、重い皮膚病にかかっており、隔離状態であった。彼がイエスの前にいたのは、律法違反を犯してまでもイエスに近づきたかったからであろう。彼はイエスの噂を聞きつけ、この方なら病を癒し、状況を変えてくれるに違いない、という確信を得て律法違反を犯したのであった。一世一代の大博打である。

祭司たちが、病気の完治を判断するのには理由があった。病気は罪の結果とされてきたからである。病気は本人や先祖の罪が原因とされ、宗教的に置き換えられ理解されていた。だがイエスは、律法の縛りを超え、神の言葉の「祝福性」を読み取った。神の独り子イエス・キリストは、神の言葉(律法)を真の解釈によって、正しく読み直し、皮膚病の男に、「神の救い」を、語ったのであった。

「よろしい清くなれ」は、病気の概念を一変させる言葉である。祭司たちは、病人の体を見て、清いか清くないかを判断したが、イエスは、清くする方(神)の権威の下で、「なれ」と宣言する。祭司が「批評家」であるなら、イエスは「治癒の主体者」である。イエスに病気の批評と判断は必要ない。神としての権威の下で「治れ」と言えばそれが人を生かす言葉となる。

この男は、「イエスを見てひれ伏し、主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。これを聞いて、イエスは手を差し伸べ、その人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われた後、男はたちまち癒やされたのだった。

「主よ、御心ならば」という言葉には、どことなく「頼りなさ」を感じる。彼が受けた差別の数々は、彼自身を弱くされたのかもしれない。或いは、一向に治らず打ちひしがれた思い、不甲斐なさ、恐怖などが込められているのかもしれない。だが恐る恐るのこの言葉に対し、イエスは「よろしい、清くなれ」という。「よろしい」は彼の全てを受容し、肯定する言葉である。「清くなれ」は、イエスが全てを癒す主体者であることの宣言である。我々は、イエスの宣言の下で生きる、治癒を受ける客体となる。