2021.9.26 主日礼拝の案内

2021.9.26 主日礼拝の案内
週 報 76 巻 39 号 2021.9.26
「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。(ルカによる福音書18章22節—23節)

主 日 礼 拝  午前 10:30
奏楽 三 輪 志 都

 <神の招き>
招 詞 ヨハネ福音書12章24節

*讃 詠  545A

聖 書 マタイによる福音書6章9節~13節

(新約.9)

日曜学校説教「御心の天になるごとく」

三 輪 地 塩

*讃美歌 121〔1-2〕

<神の言葉>
聖 書 出エジプト記20章12節~17節

(旧約P.126)

ルカによる福音書18章18節~30節

(新約P.144)

祈 り         森 﨑 千 恵

*讃美歌 130〔1-2〕

説  教 「金持ちの議員」

三 輪 地 塩

<神への応答>
*讃美歌 148〔1-2〕

公 告

*主の祈り

*頌 栄 541

*後 奏

礼拝当番(今週)森﨑 千恵

(次週)済陽 高志

ライブ配信当番
(今週)小出 勝

(次週)新畑 信

2021.9.26~10.2 週報 集会案内

2021.9.26~10.2 週報 集会案内
      集 会
〇「教会員の生活」による学びの会 休 会

〇朝カフェ            休 会

〇入門の会            休 会

〇クワイア練習          中 止

〇コイノニア           中 止

〇礼拝堂・1階の消毒(有志)    礼 拝 後

〇第7回臨時小会          礼 拝 後

〇日曜学校教師会           同 上 後

今 週 の 集 会
◎祈祷題 「会堂改修のため」

〇聖書の学びと祈りの会  9月30日(木)10:00

エズラ記9章(担当 三輪地塩) 司会 志 賀 洋 子

※ラインで行います。

次 週 礼 拝
説教 「主よ、目が見えるようになりたいのです」

イザヤ書53章7節~10節

ルカによる福音書18章31章~43節

三 輪 地 塩

讃美歌

545B、26(1-2)、514(1-2)、284 (1-2)、542

板 垣 玲 子

*日曜学校礼拝は第2主日と第4主日に行います。

2021.9.26 週報 教会からのお知らせ

2021.9.26 週報 教会からのお知らせ
会堂改修工事についてお知らせ
1階トイレ工事期間の延長について>
①コロナ対策需要のため、水道栓の納期が遅れているため、

9月末まで工期が延びることになり、1階のトイレ使用は

10月3日(日) からとなります。ご不便をおかけしますが、ご了承ください。

10月から1ヵ月1階小会堂の改修工事をいたします。

それに伴い、9月中に1階の書籍・資料などの片づけを

各団体・委員会の方宜しくお願いします。

③キッチンについては10月下旬にシステムキッチンの交換

を行いますので、中旬までになかみの整理をします。

2021.9.26 の週報掲載の説教

2021.9.26 の週報掲載の説教
<2020年4月19日の説教から>

ルカによる福音書61節~5
            「安息日の主」
                牧師 三輪地塩
 ルールや規則には、大きく分けて二つの性質がある。それを仮に「消極的規則」と「積極的規則」と呼ぶことにする。消極的規則は、例えば「赤信号は横断歩道を渡ってはならない」というように、「~~してはならない」という「否定句」で表わされるもの。逆に、積極的規則は「手を洗いましょう」「消毒をしましょう」というような「何々をしよう」という、行動を促す規則のことである。そこから考えると、当該聖書箇所で言われている「安息日規定」は「消極的規則」と言って良いだろう。もっと正確に言うと「ファリサイ派の言う安息日規定は消極的規則である」ということだ。「安息日には働いてはならない」「仕事をしてはならない」ここには積極性はない。

だが、本来の安息日規定は「休んで神を礼拝せよ」という大前提があるからこそ、安息日規定が意味を持つはずである。「手を止める(仕事を止めて休息を取る」ことと「神を礼拝する」ことは一体化していた。だがこの「神の礼拝」」という大前提を見失うならば、単なる教条主義、形式主義に陥ってしまう。

今日の場面で、弟子たちは空腹だった。空腹は命の危機である。神の被造物としての人間の命が脅かされていること。それが当該箇所で問題にされている。それでも律法は「安息日に何もしてはならない」と言っているのかどうか、その究極の律法解釈が迫られているのだ。

「善きサマリア人の譬え」で、主イエスが示したのは、「隣人愛」であった。「神への愛」「隣人への愛」この二つは不可分なものである。つまり、ファリサイ派の安息日理解は「教条主義・形式主義的」な律法解釈であったのに対し、イエスの安息日理解は「神への愛、隣人への愛」であった。

感染症禍にある我々は、利己的な生き方であってはならない。自分の事ばかりを優先する生き方から、他者を愛し、他者と共に自己を生かす生き方、すなわち「利他的生き方」になる必要がある。SDGsが叫ばれて久しい昨今であるが、なかなか人は自分の利を捨てることが出来ない。だが、自己の利だけを優先して生きる人や、そのような共同体は滅びるのみであろう。今我々に問われているのは、全ての形状主義を離れて、「神への愛と隣人への愛」を優先する積極的志向にある。