2021.10.3 主日礼拝の案内

2021.10.3 主日礼拝の案内
週 報 76 巻 40 号 2021.10.3
「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。

そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」

(ルカによる福音書18章41節~42節)

主 日 礼 拝   午前 10:30
奏楽 板 垣 玲 子

<神の招き>
招 詞 ヨハネ福音書12章24節

*讃 詠  545B

*罪の告白と赦し 交読詩編119編41節~48節

*讃美歌 26〔1-2〕

<神の言葉>
聖 書 イザヤ書53章7節~10節

(旧約P.1150)

ルカによる福音書18章31章~43節

(新約P.145)

祈 り

*讃美歌 514〔1-2〕

説  教

「主よ、目が見えるようになりたいのです」

三 輪 地 塩

<神への応答>
*讃美歌 284〔1-2〕

公 告

*主の祈り

*頌 栄 542

*後 奏

礼拝当番(今週)加藤 純子

(次週)増田 裕子

ライブ配信当番
(今週)新畑 信

(次週)小出 勝

 

2021.10.3~10.9 週報 集会案内

2021.10.3~10.9 週報 集会案内
      集 会
〇「教会員の生活」による学びの会  休 会

〇朝カフェ             休 会

〇入門の会             休 会

〇クワイア練習           中 止

〇コイノニア            中 止

〇礼拝堂・1階の消毒(有志)    礼 拝 後

〇定期小会             礼 拝 後

今 週 の 集 会
◎祈祷題 「教会が感染症によって弱らないように」

〇聖書の学びと祈りの会 10月7日(木)10:00

エズラ記10章(担当 三輪地塩) 司会 鈴 木 惠 子

※ラインで行います。

次 週 礼 拝
説教 「今日、救いがこの家を訪れた」

詩編78編43節~51節

ルカによる福音書19章1章~10節

三 輪 地 塩

讃美歌、546、461(1-2)、288(1-2)、Ⅱ184 (1-2)、543

加 藤 純 子

日曜学校礼拝説教「罪を赦して下さい」

マタイによる福音書6章9節~13節 岩 本 道 子

2021.10.3 週報 教会からのお知らせ

2021.10.3 週報 教会からのお知らせ
墓前礼拝のお知らせ
日時:2021年10月31日(日)13時30分~

場所:青葉園 浦和教会墓地

会堂改修工事についてお知らせ
①10月から約1ヵ月1階小会堂の改修工事をいたします。

②10月下旬にシステムキッチンの交換を行うため、9月26日礼拝後から片づけを始めております。

 
1031日の神学校日にあたって

10月最後の主の日を神学校日と定めております。神学校の

ためにお祈りくださり、また神学校日献金をお献げくださいますようお願いします。伝道者育成に必要な図書のための献金も併せて宜しくお願いします。神学校図書はどなたもご利用いただけます。HP「神学校/図書館」にアクセスして下さい。

2021.10.3 の週報掲載の説教

<2020年4月26日の説教から>

ルカによる福音書6章6節~11節

『人の命を生かすこと』
牧師 三輪地塩

「安息日」は、創世記1~2章に記されている天地創造の出来事に由来する。「神の祝福を受けるために仕事の手を休めなければならない」だから安息日が設けられたのである。ヘブライ語で安息日のを「シャッバトゥ」と言う。ギリシャ語では「サッバス」。英語でも同じく「サバス」Sabbath。安息日(サバス)の原意は「休む」とか「休暇を取る」ではない。ここは間違われやすいのだが、「バッサリと切る」とか「断絶する」「断つ」というのが原意である。六日間働いてきた労働を、七日目にはスッパリと「断つ」「仕事を切る」という意味である。それ故に安息日は休むべき日として定められてきた。
しかしもう一つの「安息日の意味」は、「回復」「復元」という性質も持っている。ユダヤ地方では、ある年を基準にして7年目のことを「安息の年」と言う。その7年の7倍、49年目には「ヨベルの年」があり、ユダヤ地方では1年間畑を休ませるというルールがある。申命記に詳しく出て来るが、農耕も、牧畜も、土地の売買さえも行なわない。そうすることで、神が創造された大地の肥沃な力を取り戻す「回復させる」というのである。また、ヨベルの年には、それまで借金をしていた人たちの借金が全て帳消しになるという特例もあった。つまり人が人生を取り戻し、回復させるための特別措置である。これが安息年の7倍にあたる50年に一度行なわれていた。

つまり安息日は、極めて愛に満ちた、豊かさの回復、人間性と人間的生活の回復が意図されている。このことについてイエスは次のように言う。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行なうことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。この見える証しとして、右手の萎えた男性を癒したのであった。

だがこの時イエスが回復させたのは、単に「萎えた右手」の機能回復ではなく、右手の萎えた男性の心の中にあった「右手が使えないダメな人間」という後ろ向きな思いや、「社会の役に立たない生きる資格のない人間」などという消極的的な思いと自己否定ではなかったか。そうであるならば、イエスがここで回復させたのは、彼を支える自尊心や、神の被造物であるという誇りでもあった。つまり人間の尊厳の「回復」が安息日に行なわれたのである。イエスが批難される謂われはない。