2021.9.26 の週報掲載の説教

2021.9.26 の週報掲載の説教
<2020年4月19日の説教から>

ルカによる福音書61節~5
            「安息日の主」
                牧師 三輪地塩
 ルールや規則には、大きく分けて二つの性質がある。それを仮に「消極的規則」と「積極的規則」と呼ぶことにする。消極的規則は、例えば「赤信号は横断歩道を渡ってはならない」というように、「~~してはならない」という「否定句」で表わされるもの。逆に、積極的規則は「手を洗いましょう」「消毒をしましょう」というような「何々をしよう」という、行動を促す規則のことである。そこから考えると、当該聖書箇所で言われている「安息日規定」は「消極的規則」と言って良いだろう。もっと正確に言うと「ファリサイ派の言う安息日規定は消極的規則である」ということだ。「安息日には働いてはならない」「仕事をしてはならない」ここには積極性はない。

だが、本来の安息日規定は「休んで神を礼拝せよ」という大前提があるからこそ、安息日規定が意味を持つはずである。「手を止める(仕事を止めて休息を取る」ことと「神を礼拝する」ことは一体化していた。だがこの「神の礼拝」」という大前提を見失うならば、単なる教条主義、形式主義に陥ってしまう。

今日の場面で、弟子たちは空腹だった。空腹は命の危機である。神の被造物としての人間の命が脅かされていること。それが当該箇所で問題にされている。それでも律法は「安息日に何もしてはならない」と言っているのかどうか、その究極の律法解釈が迫られているのだ。

「善きサマリア人の譬え」で、主イエスが示したのは、「隣人愛」であった。「神への愛」「隣人への愛」この二つは不可分なものである。つまり、ファリサイ派の安息日理解は「教条主義・形式主義的」な律法解釈であったのに対し、イエスの安息日理解は「神への愛、隣人への愛」であった。

感染症禍にある我々は、利己的な生き方であってはならない。自分の事ばかりを優先する生き方から、他者を愛し、他者と共に自己を生かす生き方、すなわち「利他的生き方」になる必要がある。SDGsが叫ばれて久しい昨今であるが、なかなか人は自分の利を捨てることが出来ない。だが、自己の利だけを優先して生きる人や、そのような共同体は滅びるのみであろう。今我々に問われているのは、全ての形状主義を離れて、「神への愛と隣人への愛」を優先する積極的志向にある。