2021.10.3 の週報掲載の説教

<2020年4月26日の説教から>

ルカによる福音書6章6節~11節

『人の命を生かすこと』
牧師 三輪地塩

「安息日」は、創世記1~2章に記されている天地創造の出来事に由来する。「神の祝福を受けるために仕事の手を休めなければならない」だから安息日が設けられたのである。ヘブライ語で安息日のを「シャッバトゥ」と言う。ギリシャ語では「サッバス」。英語でも同じく「サバス」Sabbath。安息日(サバス)の原意は「休む」とか「休暇を取る」ではない。ここは間違われやすいのだが、「バッサリと切る」とか「断絶する」「断つ」というのが原意である。六日間働いてきた労働を、七日目にはスッパリと「断つ」「仕事を切る」という意味である。それ故に安息日は休むべき日として定められてきた。
しかしもう一つの「安息日の意味」は、「回復」「復元」という性質も持っている。ユダヤ地方では、ある年を基準にして7年目のことを「安息の年」と言う。その7年の7倍、49年目には「ヨベルの年」があり、ユダヤ地方では1年間畑を休ませるというルールがある。申命記に詳しく出て来るが、農耕も、牧畜も、土地の売買さえも行なわない。そうすることで、神が創造された大地の肥沃な力を取り戻す「回復させる」というのである。また、ヨベルの年には、それまで借金をしていた人たちの借金が全て帳消しになるという特例もあった。つまり人が人生を取り戻し、回復させるための特別措置である。これが安息年の7倍にあたる50年に一度行なわれていた。

つまり安息日は、極めて愛に満ちた、豊かさの回復、人間性と人間的生活の回復が意図されている。このことについてイエスは次のように言う。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行なうことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。この見える証しとして、右手の萎えた男性を癒したのであった。

だがこの時イエスが回復させたのは、単に「萎えた右手」の機能回復ではなく、右手の萎えた男性の心の中にあった「右手が使えないダメな人間」という後ろ向きな思いや、「社会の役に立たない生きる資格のない人間」などという消極的的な思いと自己否定ではなかったか。そうであるならば、イエスがここで回復させたのは、彼を支える自尊心や、神の被造物であるという誇りでもあった。つまり人間の尊厳の「回復」が安息日に行なわれたのである。イエスが批難される謂われはない。